第1話 黄金の和菓子と弟の限界突破
ゴールデンウィークの真っ只中。外は絶好の行楽日和ですが、相模家の午前中はいつも通り、穏やかな日常から始まりました。
「湊、そこにある洗濯物を取り込んでもらっていいかしら?」
「はーい、お母さん。今行くね」
洗濯物を畳みながら、傍らに置いた参考書に目をやります。以前なら一時間はかかっていた数学の難問も、今の僕には不思議とスラスラと紐解けてしまうのです。……その理由は、自分でもよくわかっています。
『おい、湊!貴様、さっきから紙の束を眺めて何をしておる。我との会話より、その奇妙な記号の方が大事だと言うのか!』
頭の中に響くのは、昨日から僕の中にいる魔神、ラーナちゃんの声です。
威圧的で傲岸不遜。けれど、彼女の強大すぎる魔力が僕の思考を底上げしてくれているのは間違いありませんでした。
(ラーナちゃん、これはお勉強だよ。これが終わったら午後はダンジョンに行くから、もう少しだけ待っててね)
『……ふん。貴様というやつは、供物の「ぷりん」を運ぶ時以外は万事において緩慢すぎるぞ。だが、あの生意気な小童との修練に向かうのであろう?ならば、少しだけ待ってやらぬこともない』
心の中に流れ込んでくるのは、不器用な照れ隠しと、外の世界への小さな期待。数千年も暗闇にいた彼女にとって、僕の目を通した景色さえ、きっと眩しくて新鮮なものなのでしょう。僕はふふっと笑って、最後の一問を解き終えました。
準備を済ませてリビングへ降りると、そこには蓮くんが神妙な面持ちでソファに座っていました。
「……あ、兄貴。準備できたか?」
「うん、お待たせ。今日は昨日よりも少し深くまで潜るんだよね?」
蓮くんは僕の顔をまともに見ようとせず、不自然に視線を泳がせています。昨晩の「あの事件」以来、彼は僕の変化に対して、誰よりも敏感に、そして複雑に反応しているみたいでした。
「……ああ。今日は地下6層、バグベアの生息域まで行く。あいつらは影に潜んで槍を投げてくるから、絶対に俺の側を離れるなよ。いいな?」
「うふふ、頼りにしてるよ蓮くん」
僕が微笑むと、蓮くんは一瞬だけ耳まで赤くして、「……おう」とだけ短く答えて立ち上がりました。
玄関を出ると、5月の爽やかな風が吹き抜けます。
僕の中にある「太陽」は、和菓子の甘い香りや蓮くんの不器用な優しさを待ちわびるように、静かに、けれど熱く脈打っていました。
(ねえ、ラーナちゃん。今日は帰りに、昨日とは違うお菓子屋さんに寄ってみようか)
『……き、貴様がそこまで言うのなら、寄ってやらぬこともない!決して、我が食べたいわけではないからな!』
ツンとした声とは裏腹に、僕の心の中にはぽかぽかと暖かな陽だまりのような感情が広がっていきます。
新しい自分と新しい家族の形。そんな変化を楽しみながら、僕たちはゆっくりと歩き出しました。
◆
お昼を済ませてからは、蓮くんに連れられてのダンジョン探索です。でも、今日の蓮くんは昨日までとは少し様子が違っていました。
「……行くぞ兄貴。……あんまり俺から離れるなよ」
「うん、わかったよ蓮くん。……どうかしたの? なんだか今日はずいぶん慎重だね」
蓮くんは僕の顔を直視しようとせず、どこかソワソワした様子。これが世に言う「思春期」というものなのでしょうか。
そんな蓮くんの心配をよそに、探索はこれまでにないほどサクサクと進みました。ボスの『バグベア』は影を渡り歩いて死角から不意打ちしてくる嫌な相手でしたが、今の僕にはその気配が「熱源」としてハッキリ視えていたのです。
(ラーナちゃん、ありがとう。君が教えてくれたんだよね?)
『……ふん、あのような野蛮な獣、我の視座から見れば止まっているも同然よ。湊よ、貴様も少しはマシな魔力操作をするようになったではないか。褒めてやるぞ』
脳内でラーナちゃんが誇らしげに鼻を鳴らします。僕が「次はあそこの影が熱くなる」という直感に従って支援魔法を飛ばすたびに、蓮くんの剣撃は吸い込まれるようにバグベアを捉えていきました。
「……すげぇ。兄貴のバフ、昨日よりさらにキレが増してないか?まるで俺の動きを未来予知してるみたいだ」
剣を鞘に納めながら蓮くんが感嘆の息を漏らしました。想定よりもあっさりとボスを撃破した僕たちは、戦利品を確認します。今日の手応えは『古びた宝石箱』が三つ。中からは大粒の魔石や精巧な魔導具のパーツが次々と現れました。
「……大金星だ。これ、換金所に持っていったら昨日の3倍はいけるかもしれない。兄貴、やったな!」
「よかったぁ。これならお土産をちょっと奮発しても大丈夫そうだね」
ホッと息をついて微笑む僕。ですが、僕の心の中では別の意味で「奮発」を期待している存在が、今か今かと身を乗り出していました。
『おい湊!換金とやらは手短に済ませよ!我は知っておるのだぞ。地上に出れば、昨日とは違う香りのする「おかし」なる供物を捧げる店があることをな!』
(はいはい。わかってるよ。今日は和菓子にするって約束したもんね)
昨日よりもずっと深い、地下6層の冷たい空気。本来なら恐ろしいはずの迷宮ですが、僕の右手を引いて歩く頼もしい弟と、心の中であんみつや大福にはしゃぐ最強の魔神。
二人の「熱」に守られながら、僕は今日一番の収穫を抱えて我が家へと続く帰路につきました。
◆
「今日は和菓子にしようか。お父さん、お饅頭とか好きだしね」
「……あ、ああ。いいと思う。兄貴の選ぶものなら、なんでも」
お昼時よりは少し落ち着いた様子の蓮くんと並んで、老舗の和菓子屋さんに入りました。その瞬間、僕の脳内は爆発的な興奮に包まれたのです。
『な……なんだこれは!湊よ、あの丸くて白いものは何だ!?串に刺さった緑色の宝玉は毒か?魔物か!?』
(ラーナちゃん落ち着いて。あれはお大福とお団子。とっても美味しいんだよ)
初めて見る和菓子にラーナちゃんは興味津々です。彼女の興奮が最高潮に達したその時、胸の奥の太陽が激しく拍動しました。
(あ、ちょっと、ラーナちゃ――)
バキバキッ!!という、心臓に悪い「何かが壊れる音」が店内に響き渡ります。
「……あ」
光が晴れたそこに立っていたのは、やはりラーナちゃんの姿になった僕でした。
足元には、ついさっき換金所で「これなら長く使えるね」と蓮くんと話し合っていた3万5千円もする一級品の革製プロテクターが、修復不可能なほど粉々に砕け散っています。
シャラリ……と黄金の宝飾品が鳴り、透けるようなシルクの衣装がふわりと舞いました。僕は真っ先にガラスケースを確認し、ホッと胸をなでおろします。什器を壊さなかったのは幸いでしたが、僕の財布へのダメージは、まさに「致命傷」でした。
「……驚かせてしまって、ごめんなさい。弁償はしますので、まずはお片付けをしますね」
屈み込むたびに、極薄のシルクが暴力的なまでの曲線美を強調するように揺れます。店主さんは口を半開きにしたまま、トングを落としたことにも気づかず固まっていました。
「い、いや……!弁償なんてとんでもない!女神様のような方に敷居を跨いでいただけただけで、店宝にしたいぐらいでして……!」
「えっ、でも、光で棚が少し焦げちゃってますし……」
「これはむしろハクがついたというものです!」
わけのわからない熱量で力説する店主さんに困っていると、脳内のラーナちゃんがふんぞり返りました。
『ふん、当然であろう!我を拝めたのだ、末代までの誉れとせねばな。それより湊よ、早くあの、中に「あんこ」が詰まった円盤……「どらやき」を全種類寄越せ!』
(はいはい)
「店主さん、すみません。ここに並んでいるどら焼きを全種類とお団子も5本ずつ。あとお煎餅も一袋いただけますか?」
僕が注文すると、店主さんは「喜んでーッ!」と王命を受けた騎士のような機敏さで包み始めました。その間、僕は隣で石のように固まっている蓮くんの袖をそっと引きます。
「蓮くん、大丈夫?また鼻血、出てない?」
「…………あ……うあ……」
至近距離で「ドストライクな褐色女神」を浴びた蓮くんは、宇宙の真理を悟りそうな顔で僕の鎖骨あたりを注視したままフリーズしています。
「お待たせしました!どら焼き全種に串団子、堅焼き煎餅になります!」
ずっしりと重い紙袋から、甘く香ばしい匂いが立ち上りました。
『おお……!これが「和菓子」の香りか……!悪くない、実に芳しいではないか!湊よ、今すぐ一つ食わせろ!』
(ダメだよ。帰ってみんなで食べるんだから)
「店主さん、お騒がせしました。お菓子を楽しませていただきますね。ありがとうございました」
外に出ると、5月の風が僕の……いえ、ラーナちゃんの滑らかな肌を撫でていきます。一歩歩くごとに黄金の鈴がシャン、シャンと神聖な音色を響かせる中、蓮くんの魂がようやく戻ってきたみたいでした。
「……蓮くん。重いから、少し持ってもらってもいいかな?」
「……っ!あ、ああ……!全部持たせてくれ!」
蓮くんは紙袋をひったくるように奪い取り、もう片方の手には、粉々になった「防具の残骸」が詰まった袋を悲しそうに提げました。
「兄貴……頼むから、家に着くまで……いや、夜中までは変身が解けないけど、今の兄貴に荷物を持たせるなんて、俺のプライドが許さないから……」
この変身は一度起きると自力では解除できず、半日は元の姿に戻れません。それを知っている蓮くんの目は、どこか遠い世界を見ていました。
「……大丈夫だ兄貴。明日も6層、いや、8層まで潜れば……今度は5万円の、もっと伸縮性の高いやつが買えるから……っ!」
それはもはや弟というより、推しの装備代《ガチャ代》のために限界まで働く重課金兵の瞳でした。
僕はちょっとだけ歩きにくいシルクの裾を捌きながら、楽しそうにどら焼きの話を続けるラーナちゃんの声と一緒に、夕暮れの街をゆっくりと歩いていくのでした。
◆
「ただいま、お母さん」
「お帰りなさい湊。今日も無事で何よりだわ。その姿も似合っていてとても素敵よ」
家に帰ると、お母さんはいつも通りの眩しい笑顔で迎えてくれました。僕が女神の姿をしていても、中身が僕であることを疑わず、普通に接してくれるのです。
『……ふん。この女、なかなか肝が据わっておるではないか。良い、我を前にしても怯えぬその態度は褒めてやるぞ』
心のラーナちゃんもご満悦の様子です。お母さんは「あらあら」と僕に近寄ってくると、ラーナちゃんの褐色の頬を優しく撫でました。
「お肌がツヤツヤで綺麗ねぇ。湊、その格好だとお料理の時に宝飾品が眩しそうだけど大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。それより、今日はお土産にどら焼きとお団子を買ってきたんだ。ラーナちゃんがどうしても食べてみたいって言うから奮発しちゃった」
僕が微笑むと、黄金の首飾りがシャラリと鳴ります。その音にすら、お母さんは「素敵な音ね」と、新しい風鈴でも飾ったかのような気軽さで応えるのでした。一方、蓮くんはリビングの壁際にへばりつくようにして、蚊の鳴くような声で呟いています。
「……お袋、すげぇな。俺、まだちょっと……直視できないんだけど。兄貴、頼むからあまり『シャラシャラ』言わせないでくれ。破壊力が高すぎて、向こう側へイッちまう……!」
蓮くんは、まるで高濃度の魔力汚染区域に踏み込むかのような決死の覚悟で、ゆっくりとソファへ近づいてきました。やがてテーブルの上には山盛りの和菓子。お父さんが帰ってくるまでの間、僕ら三人はひと足お先にお茶会を始めることにしたのです。
『……ぬおっ!?こ、これは……!このふかふかした生地の中から溢れ出す、甘い泥のようなものは……っ!素晴らしい!太陽を飲み込んだような充足感が我を支配していく……!』
一口食べた瞬間、脳内のラーナちゃんが歓喜の咆哮を上げました。あまりの興奮に、僕の体から金色の魔力粒子がシュンシュンと漏れ出し、リビングがパッと明るくなります。
「湊、魔力が溢れてるわよ。壁紙が焦げないように気をつけてね」
「あはは、ごめんねお母さん。ラーナちゃんがすっごく喜んじゃって」
お母さんは「いいわよ、お家がポカポカして暖房いらずだわ」なんて笑っています。その隣で、蓮くんは僕がどら焼きを頬張る姿を視界の端で捉えながら、必死に「あれは兄貴だ」と自分に言い聞かせているようでした。
「……兄貴、口の端に、あんこ付いてるぞ」
「えっ、どこ?蓮くん取ってくれる?」
僕が何気なく顔を向けると、絶世の美女の顔が無防備なまでに至近距離へ迫ります。
「――っ!!無理無理無理!自分で拭け!鏡見ろ!もしくはラーナ、お前が魔力で蒸発させろ!」
蓮くんは顔を真っ赤にしてソファから転げ落ちそうになり、僕はそんな彼を見て「やっぱりお熱があるのかなぁ」と、少しだけ心配になるのでした。
夕焼けが差し込み、朱金の光と混ざり合う相模家のティータイム。
僕の中の太陽は、美味しいお菓子と騒がしい家族の気配に包まれて、かつてないほど穏やかに輝いていました。




