幕間 黄金の寂寥――ラーナ回想――
数千年前――まだ「魔神」という呪わしい名で呼ばれるより、ずっと昔のこと。
彼女はただの『太陽を宥める巫女』として、大陸の果てにある小さな聖域に座していた。
当時の彼女の肌は、今ほどの褐色ではなく、柔らかな陽光を透かす蜂蜜色。
性格も、今のような「傲岸不遜な女王様」の仮面を被る必要はなかった。村の子供たちが泥だらけの手で純白の衣を汚しても、「もう、気をつけてよ?」と困ったように笑い、指先からポカポカとした温かな光を出して泥を乾かしてあげるような、そんな穏やかな娘だったのだ。
「ラーナ様、今年も雨が降りません。どうか太陽にお言葉を……」
旱魃に震える人々が跪くとき、彼女の役割は「雨を降らせる」ことではなかった。
彼女はただ、燃え盛る天の瞳――太陽を見つめ、「もう十分ですよ。少しだけ雲に道を譲ってあげて」と語りかける。
すると、暴力的なまでの日差しは和らぎ、どこからともなく涼やかな風が吹き抜ける。人々は彼女の「宥め」に感謝し、彼女もまた人々の笑顔の中に自分の居場所を見出していた。
「……ねえ。私、いつかこの聖域を出て、皆と一緒に市場でパンを選んだり、お祭りで踊ったりしてみたいわ」
焚き火を囲む夜、彼女が漏らしたささやかな願いに、当時の人々は「もちろんです」「ラーナ様なら、皆が手を取り合って迎えますよ」と答えたものだった。
彼女は、自分を「神」ではなく「隣人」として見てくれる世界を、心から信じていた。
けれど、その平穏は『冥府の瘴気』という理不尽な黒い霧によって塗りつぶされた。
北から流れてきたその霧は、触れるものすべてを腐らせ、大地の声を奪った。
雨を願っても降るのは黒い泥。太陽を宥めても瘴気は光を遮り、人々は暗闇の中で次々と息絶えていった。
「……ラーナ様、助けて……」
昨日まで一緒に笑っていた子供が、黒い斑点に覆われて動かなくなる。
巫女として、守護者として、彼女は絶望の淵に立たされた。彼女の中にあった「素直な優しさ」は、愛するものを奪われる恐怖によって、「すべてを焼き尽くしてでも救う」という狂気にも似た決意へと変貌した。
「太陽よ……。もう、宥めるのはやめます」
彼女は聖域の最上階で、自身の魔力回路を逆流させた。
禁忌。自身の命と、この地の未来を担保にした極陽魔力の全開放。
「私の命も、この体も、全部あげるわ。だから――あの薄汚い闇を、一欠片も残さず消し飛ばして!!」
空が割れた。
彼女の指先が天を指した瞬間、夜のように暗かった世界に、『太陽の核』が文字通り地上に降りてきた。
それは救済の光であり、同時に終わりの合図だった。
瘴気は一瞬で蒸発し、黒い霧は跡形もなく消え去った。しかし、彼女が再び目を開けたとき、目の前に広がっていたのは……。
かつて愛した緑の森でも、賑やかな市場でもなかった。
熱でガラス化した無機質な平原。干上がって塩の道となった海。
そして――。
自分を助けてくれた巫女を、「化物を見るような目」で見て、震えながら後退りする、生き残った人々だった。
「……あ、……ぁ…………皆……?」
彼女が差し伸べた手は、今や触れるもの全てを、慈しみさえも焼き尽くすほどの熱を帯びていた。
誰一人、彼女に近づこうとする者はいない。感謝の言葉は「畏怖」という名の沈黙に変わり、彼女の居場所だった聖域は、いつしか「魔神の住処」と呼ばれるようになった。
(……寂しい。……熱い。……誰か、私を叱って。……昔みたいに、名前を呼んで……)
内側で叫ぶ少女の心とは裏腹に、彼女の姿はより神々しく、より近寄り難い「美しき災厄」へと変貌していった。
そして、その寂しさを埋めるために、彼女はいつしか不遜な態度で自分を武装し始めたのだ。
「我を敬え。さもなくば焼くぞ」と強がることで、自らの泣き顔を隠しながら。
数千年後。
現代の和菓子を頬張り、湊の胸の中で「おいしい……!」と相好を崩す今の彼女は、もしかしたら。
あの時、誰も握ってくれなかった手を、ようやく誰かに握ってもらえた――そんな安堵の中にいるのかもしれない。




