閑話:星を仰ぐ檻 ――神へと至る断頭台――
アステリオスが「黄昏の主宰者」として神格化される直前、彼が最後に見た人間の景色は、光り輝く玉座などではなかった。
それは、石造りの冷たい「祈祷塔」の最上階。
窓一つないその場所は、人々から「救世主の守護」という名目で与えられた実質的な監獄だった。
「……アステリオス様。本日の御神託を」
鉄格子の向こう側で神官たちが恭しく頭を下げる。
彼らの瞳には、かつて戦友として泥を啜った男への敬意など、もう欠片も残っていない。そこにあるのは、ただ自分たちの未来を保証する「都合のいい天秤」への、病的なまでの依存心だけだ。
アステリオスは、かつての逞しい肢体を、魔力を吸い上げる「枷」に縛り付けられたまま静かに目を閉じていた。
(……私は、いつからこの世界の『道標』ではなく、『鎖』になったのだ?)
彼が星を読み、進むべき道を指し示せば示すほど、人々は自分の足で歩くことを止めてしまった。
『アステリオス様が右と言えば、自分は左を見ることすら必要ない』
その盲目的な信仰が、彼を「神」という名の概念に押し込めていく。
かつて彼が愛した「懸命に生きる人々」は、今や彼という光に集まる羽虫のような、意志なき群れへと変貌していた。
「アステリオス様、なぜ答えてくださらないのですか!昨日の決断で、隣国との交易路がわずかに滞りました!あなたの導きは絶対ではなかったのですか!?」
一人の神官が叫ぶ。その声は、もはや祈りではなく脅迫に近い。
救われたはずの民は、一度でも「不都合」が起きれば、そのすべての責任を彼という偶像に叩きつけた。
鎖骨に刻まれた「聖痕」が、ドクドクと熱を帯びる。
それは、何十万という人々の「欲望」が、魔力となって彼の肉体に逆流してくる痛みだった。
(重いな……。泥の中を這っていた頃のほうが、体はよほど軽かった)
アステリオスは、自らの血を吐くような思いで最後の力を振り絞った。
彼は、自らの「神格」を、人々の期待に応えるためではなく、自分という存在を封じるために使うことを決意したのだ。
「……迷い子たちよ。これ以上、私に頼ってはならない」
彼がそう呟いた瞬間、塔全体が星屑の爆発に包まれた。
彼は神としての全能力を使い、己の魂を「永遠の封印」へと追放したのである。
人々が自分を便利に使い、堕落していくのを止めるための、彼なりの最後の「導き」――すなわち、突き放しであった。
「私は星だ。見上げるだけでいい。……その足で歩くことを忘れるな」
光の中に消えゆく彼が最後に見たのは、自分を封じたことで絶望し、地面に這いつくばって泣き叫ぶ人々の姿。
そして、それ以上に美しく、自らの意志で走り出し、一歩を踏み出そうとする一握りの者たちの姿だった。
◆
(――……と、思っていたのだがな)
現代。日向家のリビング。
アステリオスは、陽花の意識の隅っこで、お姉ちゃんが撮影した「自分のマッスルポーズ」をスライドショーで見せられている。
「ねえアっくん、見て!お姉ちゃん、この写真に『宇宙の創造主、ここに現る』ってタイトルつけて、SNSの非公開アカウントにアップしてるよ!」
『…………』
かつての信徒たちの祈りは、重く、血生臭い呪いだった。
だが、この「お姉ちゃん」という名の狂信者の祈りは。
(……この女、我に「かっこいいポーズをしろ」という欲望はぶつけてくるが、己の人生の責任を押し付けようとは露ほども思っておらぬな。神の機嫌を伺うよりも、神の肩甲骨を撮るためのシャッタースピードを気にしておる……)
葵の祈りは、あまりにも純粋で、あまりにも個人的で、そしてあまりにも――くだらない。
だが、その「くだらなさ」こそが、数数千年の孤独で凍てついたアステリオスの魂を、少しずつ解きほぐしていく。
「あ、アっくん、このプリン食べる?手の甲に置いてあげようか?」
『……食べぬ。だが、汝が食すその「感覚」だけは共有せよ。……甘いのは、嫌いではない』
かつて世界を背負わされた男神は、今、一人の女子高生の「美味しい」というささやかな感情を、かつてのどんな盛大な祭典よりも大切に味わっていた。
(案外、神の終着点とは、こういう場所だったのかもしれんな)
窓の外。
アステリオスが見上げた夜空には、もう彼を縛る「孤独な導きの星」など必要ないほど、地上の人々が灯した賑やかな光が、どこまでも温かく輝いていた。




