第1話 再戦、そして星の鉄槌
『朝の食卓と限界オタクの胎動』
眩しい朝の光が差し込むリビング。
そこには、昨日の「190センチの男神」の面影など微塵もない、いつもの身長160センチ、ジャージが世界一よく似合う女子高生――つまり、私、日向陽花の姿があった。
「ふはぁー!やっぱりこの視界が一番落ち着くね!空気が濃い気がするよ!」
昨晩、お風呂から上がる頃には魔法が解けるように、スッと元の姿に戻っていたのだ。
目の前には、お父さん自慢の厚切りトーストと半熟具合が絶妙な目玉焼き。そして、今日も今日とて目に痛いほど鮮やかな紫色の「お母さん特製スムージー」が並んでいる。
「陽花、本当にもう、本当になんともないんだな?どこか節々が痛むとか、急に筋肉が疼くとか……」
「大丈夫だってば、お父さん。ほら、この通りピンピンしてるよ!」
私はトーストを齧りながら、心配性すぎるお父さんに笑いかけた。
お父さんは、私が「アっくん」の姿だった時、よっぽど落ち着かなかったらしい。中身は自分の愛娘だとわかっていても、家の中に190センチの、歩くたびにフェロモンと星屑を振りまくような超絶色男が立っているというのは、真面目な加工職人のお父さんには刺激が強すぎたようだ。
……ちらりとお父さんを見ると、今でも私の顔を確認するたびに「よかった、ちゃんと陽花だ……」と胸を撫で下ろしている。
(お父さん、私がアっくんだった時、お母さんが「いい男ねぇ」って見惚れてないか、実はめちゃくちゃハラハラしてたもんね……)
「隆志さん、いい加減にオドオドしないの。見た目がどうなろうと、陽花は陽花。中身は一ミリも変わってないんだから。ね、陽花?」
「うん!お母さん、スムージーお代わり!」
「ふふ、いい食べっぷり。私は、見た目が変わっても陽花がもっと内面的にドッシリ成長してくれるなら、どっちの姿でも応援するわよ」
お母さんは豪快に笑いながら、お父さんの背中を景気良くバシッと叩いた。その勢いでお父さんのコーヒーが少しこぼれる。
「ほら隆志さん。私が惚れたのはあんたなんだから、もっと堂々としてなさい!」
「わ、わかってるよ美咲……。でも、あの姿の陽花は、なんていうか……同じ男として敗北感がすごすぎて……」
肩を落とすお父さん。がんばれお父さん。
そんな平和な食卓の中で、たった一人だけ、異質なプレッシャーを放っている人物がいた。私の対面に座るお姉ちゃんだ。
「…………(じーっ)」
「ね、ねえ、お姉ちゃん?さっきからジャムの蓋、逆さまに開けようとしてるよ?瓶の底が削れちゃってるよ?」
「えっ!?あ、あら、ごめんなさい……ちょっと考え事をしていて」
お姉ちゃんは、昨日あれだけ派手に鼻血を噴いて倒れたというのに、今は妙に静かだ。
淑やかな事務官の顔を貼り付けて、おしとやかにトーストを口に運んでいる。……けれど、その瞳の奥には、隠しきれない「濃厚な漆黒の執念」が渦巻いているのを私は見逃さなかった。
お姉ちゃんは時折、私の手の甲にある「星の紋章」を、獲物を鑑定するプロの目つきで見つめてくる。
(……なんだろう、すっごく視線が痛い。昨日のは夢じゃないとか、次はハチケーがどうとか、なんか難しいことを考えてるみたいだけど……。とにかく、お姉ちゃんから悶々とした念を感じるよ!)
お姉ちゃんの心の声……というか執念が、もはや物理的な「熱」となって食卓に漏れ出している。
父さんが「葵も、陽花があんな姿になってから様子がおかしいな。昨日の鼻血で貧血がひどいのか?」と本気で心配しているけれど、当のお姉ちゃんは「ちょっと趣味がバレたかな?」くらいの認識らしい。
(お姉ちゃん、バレたとかそんなレベルじゃないよ!雰囲気が「お姉ちゃん」じゃなくて「ハンター」になってるもん!)
私は、お姉ちゃんの瞳の奥でギラリと光る、よくわからないけど凄まじい「何か」に少しだけ背筋を凍らせながら、紫色のスムージーを一気に飲み干した。
◇
今日は日曜日。
私は日課のトレーニングとお小遣い稼ぎのために、いつもの『西東京第3ダンジョン』へと向かうことにした。
「お姉ちゃん、一緒に行く?」
「ええ、行くわ!昨日は……その、急な『体調不良』で職場に多大な迷惑をかけちゃったから。ちゃんと謝罪と説明をしておかないと、月曜日からどんな顔で出勤すればいいか分からないもの」
お姉ちゃんはそう言って、事務官らしいカッチリした服装の上に、なぜか気合の入った冒険者用ローブを羽織った。
「謝罪」と言うお姉ちゃんの目は、反省の色というよりは、獲物を狙うハンターのようにギラギラと鋭く光っている。
ダンジョンの受付に到着すると、ロビーには休日を楽しむ探索者たちが大勢いた。
お姉ちゃんが奥の事務室へ向かう間、私はロビーのベンチで待機することにした。
「……あれ?おかしいな」
ふと横を見ると、いつもなら「おはよう、陽花ちゃん!」と元気よく声をかけてくれる警備のおじさんが、入り口の自動ドアをぼうっと見つめたまま固まっている。
「おじさん、おはよう!」
「うおっ!?……あ、ああ、陽花ちゃんか。おはよう」
おじさんは私を見て一度は正気に戻ったものの、すぐにまた視線を宙に彷徨わせた。
「いやぁ、悪いな。昨日の夕方、ここで『奇跡』を見た気がしてよ……。こう、宇宙の真理を体現したような、歩く北極星みたいな美青年がな……。あの後、ロビーの空気が一晩中キラキラしてたんだぜ?夢だったのかねぇ……。もう一度拝めりゃ、長生きできそうなんだが」
おじさんの目は、未だに昨日のアっくんが振りまいた星屑の余韻に浸っている。私がその「奇跡」の正体だなんて、一ミリも気づいていないみたい。なんだか、アイドルの正体を知っているマネージャーみたいな気分だ。
十五分ほどして、お姉ちゃんが奥から戻ってきた。
その顔は、熟れすぎた林檎みたいに真っ赤だ。
「……陽花、行きましょう。上司に『貧血には鉄分が必要よ。昨日の彼にレバーでも奢ってもらいなさい』って、ニヤニヤしながら言われちゃったわ……。もう、あの職場に私の居場所はないかもしれない……」
お姉ちゃん、それ完全に「ものすごいイケメンの彼氏が迎えに来て、舞い上がって鼻血出した」って勘違いされてるよ!
私は少しだけ申し訳ない気持ちになりつつ、お姉ちゃんと一緒にダンジョンの中へと足を踏み入れた。
◆
『順調すぎる進撃と高鳴る鼓動』
ダンジョンの入り口をくぐり、湿り気を帯びた迷宮の空気が肌をなでる。
いつもなら、一階層に降りるだけでも「よし、行くぞ!」って気合を入れ直すところだけど、今日のお姉ちゃんは一味違った。
「陽花、左前方からスライム3体。私が『風』で固めるわ。あなたは右の通路を確保して」
「了解っ!お姉ちゃん、ナイス索敵!」
お姉ちゃんが杖を軽く振ると、目に見えない空気の壁がスライムたちを隅へと追いやっていく。その隙に、私はショートソードを一閃した。
――軽い。
自分の体が、まるで羽毛になったみたいだ。
お姉ちゃんがかけてくれる『風の加護』の効果もあるけれど、それだけじゃない。踏み込むたびに、足の裏から大地のエネルギーを直接吸い上げているような、そんな底知れない力が全身を巡っているのを感じる。
「陽花、動きが良すぎるわね。……でも、無茶は厳禁よ?」
「あはは、ごめんごめん!でもさ、今日はお姉ちゃんがいるから、背中を任せて全力で走れるんだもん!」
私が笑って振り返ると、お姉ちゃんは一瞬、眩しそうな顔をした。
けれどすぐに、その視線はじっと私の手元――服の袖に隠れた「星の紋章」へと注がれる。その目はいつもの冷静な事務官のものというより、何か……言葉にできない熱を孕んでいる気がした。
けれど、そのバックアップは完璧だ。
2層のゴブリン集団も、3層の牙を剥くラットたちも、私の剣とお姉ちゃんの精密な魔法の前に、まるでスローモーションのように退けられていく。
「陽花、次は4層。ここからは魔物の攻撃性が一段上がるわよ」
「オッケー!お姉ちゃん、もっとスピード上げても大丈夫?」
「ええ。あなたの『導き』についていくわ」
4層に降り立った瞬間、私たちは足を止めることなく駆け抜けた。
迷路のような通路を、私は自分の「直感」だけを頼りに突き進む。こっちが正解、こっちは宝箱、こっちは罠――。
不思議なことに、頭の中に地図が浮かんでいるわけじゃない。ただ、「星が瞬いている方向」へ向かえばいい。そう、アっくんが私の中で静かにナビゲートしてくれているような感覚だ。
「すごいわ、陽花。一度も行き止まりに当たらないなんて。協会の精鋭パーティーでも、こんな最短ルートは通れないわよ」
「へへーん、これが私の『探索者レーダー』だよ!」
お姉ちゃんの称賛を背中に受けながら、私たちはついに、5層の最深部――ボスへと続く巨大なホールの前に辿り着いた。
時計を見ると、入り口からここまで通常の半分以下の時間しか経っていない。汗一つかいていない私とは対照的に、お姉ちゃんは高揚した様子で少し頬を上気させていた。
そこは、これまでの狭い通路とは打って変わって、まるでドーム球場の中央に放り出されたような巨大な円形ホール。壁一面に埋め込まれた発光苔が、ぼんやりと青白い光を放っている。
本来なら、ここに挑戦者が集まって作戦会議をしたり装備を整えたりする、緊張感に満ちた場所なんだけど……。
「ねえ、お姉ちゃん。今日、なんか私、無敵な気がするんだ。……このままボス部屋、行ってみない?」
私は手に馴染んだショートソードを軽く振りながら提案した。
正直、体が軽いなんてもんじゃない。お姉ちゃんの魔法のおかげなのはもちろんだけど、なんだか体の芯に、まだ使い切っていない巨大なバッテリーが隠されているような不思議な全能感があった。
「……陽花。5層の主はオーガ。準備はいい?」
お姉ちゃんが改めて確認するように問いかけてくる。
「うん!今日なら、なんだってできる気がするよ!」
「ボスね……。本来なら数人のパーティーで挑む相手だけど、今の陽花の高い敏捷性と私のバックアップがあれば、勝算は……87%以上ね。いいわ、行きましょう。危なくなったらすぐに私が緊急通報をかけるから、深追いは厳禁よ?」
お姉ちゃんが事務官らしい冷静な分析を終えるより先に、私の足は召喚陣に向かって駆け出していた。
「よーし、決まり!ぱぱっと勝って、帰りにコンビニの限定スイーツ買っちゃおう!」
私はホールのど真ん中、床に刻まれた幾何学模様の召喚陣に飛び込んだ。
中心にある一番大きな魔力伝導石。そこに、いつもの「えいっ!」という軽いノリで、手のひらを置く。
その瞬間。
――ズクン、と。
手の甲にある「星の紋章」が、外の冷気とは対照的に、焼けるような熱を帯びた。
同時に、地面から響く重低音がホール全体を震わせる。ドォォォォォンッ!!
「え……?何これ、光が……紫色!?」
いつもなら初心者にも優しい爽やかな青白い光が漏れるはずなのに、今、私の足元から噴き出しているのは、吸い込まれそうなほど深く禍々しい紫色の魔力光だった。
「陽花、離れて!!それは通常の召喚じゃない!!変異種、あるいはイレギュラーの予兆よ!!」
お姉ちゃんの悲鳴のような叫び。けれど、離れようとした私の足は、まるで強力な磁石で固定されたように一歩も動かない。
――ズズ、ズズズ……!!
紫の光の中から這い出てきたのは、岩を削り出したような漆黒の肉体に、血管のような紫の紋様がのたうつ怪物だった。
「……ッ、オーガ変異種!?近接特化のボスが、魔法適性まで持っちゃった最悪の個体じゃないの!!」
お姉ちゃんがすぐさま私の前に割り込み、杖を構えて緊急通報の準備を始める。けれど、黒い巨体は待ってくれなかった。
オーガが手にした巨大な棍棒。その先端に、禍々しい高熱の火球がボウッ!と生成される。
「いけない!陽花、伏せて!!」
逃げ場のない圧倒的な暴力。でも、私の体は恐怖で竦む代わりに、内側から爆発しそうなほどの熱量に支配されていた。
心臓の鼓動と重なって、頭の中に「彼」の声が響く。
『……ふん。ただの亜種ごときが、我が器の前に立ち塞がるとはな。片腹痛いわ』
その傲慢な響きに、私の意志とは関係なく口角が不敵に吊り上がった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。……アっくん、貸して!」
カッ!!と視界が真っ白な光に塗りつぶされる。
骨がミシミシと鳴り、視界がぐんぐん跳ね上がって、オーガと同じ高さまで到達する。着ていたジャージが、バリバリッ!と派手に弾け飛んだ。
光の渦の中から、私は一歩を踏み出した。
自分の体なのに、まるで大型のネコ科の猛獣になったみたいなしなやかなバネを感じる。手足は岩のように硬く精悍な肉体に作り替えられ、まばたきをするたびに、視界の中で黄金の星が煌めいている。
自分の内側から溢れ出す圧倒的な力が、周囲の空気を甘く痺れさせていくのが肌で分かった。
アステリオス――降臨。
「…………っ!!」
ついさっきまで「危ないわ!」と叫んでいたお姉ちゃんの顔が、一瞬でガタガタと震え出した。
……けれど、それは恐怖じゃなかった。
お姉ちゃんは緊急通報の端末をゴミ箱にでも捨てるような勢いで放り出し、代わりに腰のポーチからプロ仕様のスマートフォンを神速の指捌きで抜き取っていた。
(お姉ちゃん……!?逃げる準備じゃなかったの!?)
無言でカメラを起動し、高速連写モードに切り替えるお姉ちゃん。その瞳には、オーガへの警戒なんて一ミリも残っていない。ただ一点、顕現した「私」の腹斜筋と、たなびくマントの陰影だけを追いかけている。
『……おい。あの女、またカメラを構えておるぞ。あれは、本当に味方なのか?』
脳内でアっくんが本気で引き気味に呟く。
私は迫り来る棍棒と火球を見据えながら、190センチもあるアステリオスの身体を低く沈ませた。
「アっくん、まずはあのボスを片付けちゃおう。お姉ちゃんの撮影タイムを邪魔させないようにね!」
私は星屑の軌跡を空中に描きながら、漆黒のオーガに向かって爆発的な一歩を踏み出した。
◇
漆黒のオーガ変異種が放った、爆風を伴う巨大な火球。
それがアステリオスとして大きくなった私の身体に向かって迫る。いつもの160センチの感覚なら、即座にサイドステップで回避して反撃の隙を伺う場面だ。
「よし、避けて……!」
私が体を捻ろうとした、その瞬間。
『動くな、陽花。避けずともよい』
脳内に響くアっくんの、重厚で絶対的な制止の声。
同時に、私の左手が意志とは無関係に、すうっと前方に差し出された。まるで「止まれ」と命じる王のように。
「え、ちょっとアっくん!?直撃しちゃうよ!」
火球が掌の数センチ先に迫る。
けれど、次の瞬間、物理法則が書き換わった。
――シュンッ……!
爆発も、熱風もなかった。
オーガが放った破壊的な魔法の塊は、私の掌に触れる直前、まるで霧が晴れるように「ただの魔力」へと分解され、大気の中に溶けて消えたんだ。
「ええっ!?消えちゃった!?」
『主宰者の前で、不純な魔の行使など許されぬ。我が権能……汝の言う「アっくんパワー」の片鱗だ』
オーガが驚愕に目を剥き、今度は立て続けに氷の槍を放ってくる。けれど、それも私の周りに展開された見えない「星の結界」に触れた瞬間、パリンと小気味良い音を立てて還っていく。
魔法が通用しないと悟ったオーガが、咆哮と共に近接戦闘へ切り替えた。
巨大な棍棒を頭上に掲げ、力任せに振り下ろしてくる。その一撃は、岩盤を粉砕する破壊力を秘めている。
「おっと……!」
私は今度こそ避けるつもりだったけど、アっくんの意識が私の四肢に「流れ」を教え込む。
棍棒が振り下ろされる軌道に、吸い付くように自分の腕を添わせる。
力に力でぶつかるんじゃない。
合気道のように相手の勢いをそのまま旋回させ、円を描くように受け流す。
――ドォォォォォンッ!!
勢いを殺されるどころか、加速された棍棒はオーガ自身の足元の地面を粉砕した。
バランスを崩し大きくよろめく漆黒の巨躯。
「今だっ!」
私は腰のショートソードを抜き放った。
でも、刃を向けた瞬間、アっくんが冷静にツッコミを入れてくる。
『陽花、その鉄のなまくらでは、こ奴の表皮を削るのが関の山だ』
「えっ、じゃあどうすればいいの!?」
『我の魔力を流してみろ。この「器」と汝の魂が混ざり合えば、星の輝きすら刃に宿る』
言われるがまま、私は手に持った剣に、心臓の奥で脈打つ熱いエネルギーを流し込んだ。
途端、ボロいショートソードが、夜空から降ってきた流星のような青白く鋭い光を帯びる。
「うわぁ、綺麗……。いくよ、アっくん!」
踏み込み一閃。
星屑の軌跡が空中に一文字を描く。
光の刃はオーガの硬質な皮膚をバターのように斬り裂き、そのまま巨体を両断した。
――…………。
一瞬の静寂。
背後でオーガ変異種が霧となって消滅していく中、私の手の中でショートソードが「パキリ」と乾いた音を立てた。
アっくんの強大な魔力に耐えきれず、剣そのものが光の塵となって消えてしまったのだ。
「ああっ!?私のショートソードがぁっ!!」
『致し方あるまい。次はもっとマシな獲物を用意せよ』
私が消えた剣の残骸にショックを受けていると、背後から「ズビッ、ズズズッ……!!」という凄まじい音が聞こえてきた。
「…………(ガタガタガタ)」
そこには、スマホを両手でガッチリ固定し、鼻から鮮血を滝のように流しながらも、一秒たりともシャッターチャンスを逃すまいと目を見開いているお姉ちゃんの姿があった。
「お、お姉ちゃん!?鼻血出てるよ!また倒れちゃうよ!」
「だ、大丈夫……。有給の元を取るまでは……死ねない……。今、アステリオス様が……合気道のような優雅な動きで……そしてあの流星の斬撃……供給が……供給が止まらない……ッ!!」
お姉ちゃん、意識が飛びそうになりながらも、スマホを支える指の筋肉だけが鋼鉄のように硬直している。まさにオタクの鑑、いや、執念の塊だ。
『…………陽花。あの女、やはり敵より恐ろしいぞ。早めに帰らねば、我の魂まで吸い取られかねん』
アっくんの怯えたような声に同意しながら、私は大興奮でスマホを連打するお姉ちゃんを、とりあえず担いで帰ることにしたのだった。
◆
『嵐のあとの静けさと消えたショートソード』
漆黒のオーガが完全に光の塵となって消滅し、ホールの静寂が戻ってきた。
私の手の中に残ったのは、魔力の負荷に耐えきれず粉々になったショートソードの柄だけ。
「あーあ……。お小遣い貯めて買ったお気に入りだったのに。おまけに、ドロップアイテムもなしかぁ」
期待していた魔石やレアな武具どころか、そこには塵一つ残っていなかった。
アっくんの攻撃が強力すぎて、戦利品まで一緒に浄化《消滅》しちゃったのかもしれない。
『不満か?汝の命が助かっただけでも、本来なら我に跪いて感謝すべきところだぞ』
「いや、助かったのは嬉しいけどさ!修理代……っていうか買い替え代、どうしようかなぁって」
私が脳内のアっくんとそんな世俗的な会話をしていると、背後から「ヒッ、ヒッ……」と過呼吸一歩手前の音が聞こえてきた。
「お、お姉ちゃん……大丈夫?」
振り返ると、そこには鼻にティッシュを詰め込み、顔面を真っ赤に染めたお姉ちゃんが放心状態で座り込んでいた。手の中のスマホだけは、宝物のように大事に胸に抱え込まれている。
「陽花……いえ、アステリオス様……。今の、今の『流星の斬撃』……。スローで見返したら、たぶん銀河が見えるわ。これ、あとで私のパソコンに転送して……。クラウドと、物理HDDと、耐火金庫の中のSDカードに……バックアップを……」
「お姉ちゃん、とりあえず帰ろう?ね?鼻血止まってないし!」
私はアステリオスの大きな身体を生かして、羽毛でも扱うみたいにひょいとお姉ちゃんを横抱きにした。
「……っ!!あ、あああ……アステリオス様に、抱か……抱か、れ……(白目)」
『おい陽花!この女、また心停止しかけておるぞ!揺らすな、刺激を与えるな!』
脳内のアっくんがパニックになっているけれど、私は気にせず、そのままの姿で一気に地上まで駆け上がった。
◇
『日向家の「なごみ」な日常』
そして月曜日。
昨日の大騒動が嘘のように、私はまたいつものジャージ姿で、学校へ行く準備をしていた。
「陽花、今日は忘れ物ないわね?あと、その……あんまり無理して変身しちゃダメよ?お父さんの心臓が持たないからね」
「わかってるって、お母さん。昨日はたまたま変な魔物が出ただけだから!」
チラリとリビングのソファに目を向けると、そこには魂が抜けたような顔で天井を仰いでいるお父さんの姿があった。
お父さんは、昨日私がアっくんの姿でお姉ちゃんを「お姫様抱っこ」して帰宅したのを見て、そのまま寝込んでしまったのだ。
「……ありえない……。私の大事な葵が、あんな……あんな、男のフェロモンを煮詰めて結晶化させたような色男に抱かれて帰ってくるなんて……!」
「隆志さん、だからあれは陽花だってば」
「分かっている!分かっているんだが、脳が拒絶するんだ!『陽花だから安心しろ』という理屈と、『いや、あれはどう見ても悪い男にたぶらかされている葵だ』という防衛本能が、私の中で関ヶ原の戦いを起こしているんだよ……っ!!」
お父さんはガタガタと震えながら、こぼれそうな涙を拭っている。お母さんに「娘が抱っこされて寝込むなんて情けないわよ!あんたもあれくらい鍛え直したら?」と豪快に笑い飛ばされていたけれど、お父さんのジレンマは相当根深いらしい。
「行ってきまーす!」
私は、まだぶつぶつ言っているお父さんを置いて家を出ようとした。すると、玄関で待ち構えていたお姉ちゃんにガシッと肩を掴まれた。
お姉ちゃんの目は昨日よりずっと澄んでいる。……いや、澄み渡った青空の向こう側に、深淵な宇宙《オタクの情熱》が透けて見える、悟りを開いた人の目だ。
「陽花。これ、今日のお弁当。……それと、これは新しいショートソードを買うための軍資金よ。昨日、私のために武器を壊してしまったでしょう?」
「えっ!?いいの!?事務官のお給料をそんなに使っちゃって……」
「いいのよ。……その代わり、今度の休み、また一緒にダンジョンに行きましょう。次は、あの、マントが翻る角度と、逆光を浴びた時の腹斜筋の陰影を重点的に……」
「お姉ちゃん、それお小遣いじゃなくて完全に『推しの撮影料』だよね!?っていうか、今の発言で昨日の鼻血が貧血じゃなくて興奮だったの確定しちゃったよ!?」
お姉ちゃんは無言のいい笑顔でサムズアップを返し、私はその気迫に気圧されながら家を飛び出した。
結局、ドロップアイテムは何一つ手に入らなかったけれど、私の日常は少しだけ賑やかに動き出した。
『……やれやれ。神たる我を呼び出す対価が、新しい鉄の棒と「お姉ちゃんの満足」とは……。先が思いやられるわ』
脳内で呆れ果てているアっくんの声を聞き流しながら、私は快晴の空の下、今日も元気に登校する。
ま、なんとかなるよね!




