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神話の適合者《アダプターズ》 ――伝説の神を宿す――  作者: 渡部安恵


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閑話 日向葵《ひなたあおい》

『事務官・日向葵の平穏な朝と秘められた誓い』


 日向ひなた家の長女、あおいの一日は、完璧な「擬態」から始まる。

 鏡の前で髪を整え、ダンジョン協会の事務官らしい清潔感のあるブラウスに袖を通す。鏡に映るのは、真面目で、落ち着いていて、妹思いの優しい姉の姿だ。


(よし、今日も『善良な一般人』の顔ができてるわね)


 彼女には家族にも決して明かしていない秘密がある。

 それは、自分がこの世界とは異なる場所で生涯を終えた「転生者」であること。そして前世において、画面の向こう側の存在に文字通り命を削って捧げてきた「限界オタク」であったことだ。


 今の彼女にとって、最大の癒やしは太陽のように明るい妹・陽花はるかだった。

 階段を駆け下りる騒がしい音。リビングに響き渡る、突き抜けるような快活な声。


「いただきまーす!!」


 その声を聞きながら葵は静かに紅茶を啜る。

 目の前では、陽花が山盛りの白米と格闘し、母・美咲みさきが豪快に笑い、父・隆志たかしがデレデレと目を細めている。ああ、平和だ。前世で「推しの限定ガチャ爆死」や「公式の突然の供給過多による心停止」に怯えていた日々が嘘のような穏やかな家庭の風景。


「陽花、あんまり急いで食べると喉に詰まらせるわよ?はい、お茶」

「ふぁい!ありがとー、おねえふぁん!」


 頬をリスのように膨らませる妹を見て、葵の口元が自然と緩む。

 前世でボロボロになるまで働いて、趣味に全てを注ぎ込んで死んだ自分への神様からのボーナスタイム。それが、この温かい家族との日々だと思っていた。


(今の私は、ただの事務官。推し活は卒業したの。これからはこの可愛い妹の成長を一番近くで見守る……それが、私の今世の使命なんだわ)


 バッグに陽花はるかへの補助魔法薬を忍ばせながら、あおいは心の中で固く誓う。

 もう、何かに狂わされることはない。

 もう、画面や偶像に向かって「尊い……」と咽び泣く夜を過ごすこともない。


「行ってらっしゃい、陽花。無理しちゃダメよ?」


 玄関を飛び出していく妹の背中を見送りながら、葵は満足げに頷いた。

 この時、彼女は確信していた。自分はもう、あの狂乱の日々には戻らないのだと。


 ……数時間後、勤務先のダンジョン受付に、前世で全財産を注ぎ込んだ「宇宙一の推し」が、妹の皮を被って降臨するなどとは、一ミリも想像だにせずに。



 その時、西東京第3ダンジョンの受付ロビーは、文字通り「神域」へと変貌した。


 日向葵ひなたあおいは、いつものように山積みの書類と格闘していた。新手のエラー報告、低層ゴブリンの増加予測。どれもが退屈で、平穏な事務作業――のはずだった。

 だが、自動ドアが開いた瞬間。ロビーの空気が、まるで高密度の魔力で圧縮されたかのように重く、そして甘く痺れるような芳香に満たされた。


――ズ、クン。


 葵の心臓が、前世の記憶を直接殴られたような衝撃に跳ねた。

 この重力。この、魂を根こそぎ持っていかれるような圧倒的なカリスマ。


(……まさか、ね。そんなはずないわ。ここは現実よ。私の『推し』は、画面の向こうにしか……)


 恐る恐る顔を上げた彼女の視界に、「ソレ」は降臨した。


 夜空を切り取ったような紺碧のローブ。

 脇腹の際どいカッティングから覗く、しなやかに波打つ彫刻のような腹斜筋ふくしゃきん

 そして何より、深淵のネイビーブルーの中で黄金に輝く、あの――星の瞳。


「お姉ちゃーん!先に帰ってるねー!」


 至高の芸術品のような唇から放たれたのは、あまりにも聞き馴染みのある、元気いっぱいなアステリオの声。

 その瞬間、葵の中で何かが「パキッ」と乾いた音を立てて砕け散った。二十年間かけて築き上げてきた『真面目な事務官・日向葵』という名の理性の防壁が、瓦解した。


(……は?ちょっと待って。今、私の網膜に焼き付いてるの、何?)


 思考が、前世の「最期」まで捧げたあの情熱へと逆流していく。

 視界の先に立っているのは、190センチの精悍な肉体。私の人生を、情緒を、そして銀行残高を狂わせた、あの「黄昏の主宰者」そのものだ。


(アステリオス……様?え、本物?設定資料集32ページ、限定版予約特典の小冊子にしか載っていなかった『神官騎士・夜明けの礼装』完全準拠じゃない!?あの首筋の「聖痕」……生身の肉動に合わせて……拍動してる……ッ!!)


 葵の心臓が、限界オタク特有の異常な早鐘を打ち鳴らす。

 一房だけ混じる銀糸の髪、鎖骨を縁取る黒金のチョーカーの食い込み。すべてが「解釈一致」の権化。だが、何より彼女を狂わせたのは、その中身だった。


(なのに……中身が陽花はるかなの!?孤高にして冷徹、冬の星のように冷ややかな微笑みがデフォのはずのアステリオス様が……今、あろうことか『陽花の純真100%スマイル』で、私を「お姉ちゃん」って呼んだ!?)


 脳内を、前世でプレイし尽くした『スターライト・クロニクル』のデータが激流となって駆け抜ける。

 イベント限定ガチャで天井まで回しても掠りもしなかった、あの伝説の男神。

 それが今、あろうことか実の妹を依代(器)として、この現世に顕現している。


(公式が……私の家に……?)


 かつての推しが、かつてないほど「フレンドリーなワンコ系」となって目の前にいる。

 この暴力的なギャップ。公式が一生かかっても出さなかった「光属性120%のアステリオス」という最大級の爆弾《供給》が、実の妹という最高のフィルターを介して、あおいの脳髄を直接焼きに来ている。


(尊い……。何これ、尊すぎて概念が壊れる。これ、なんていうジャンル?逆輸入?憑依?それとも神の福利厚生!?ダメ、視界が霞む。こんなの、前世の私が100回死んでも辿り着けなかった『救済』じゃない……!!)


「ドバッ!!」


 致死量を超えた萌えが鼻血となって噴出し、デスクの書類を赤く染め上げた。

 だが葵は止まらない。法悦の表情で白目を剥きながらも、その瞳には「修羅のオタク」の火が灯っていた。


陽花はるか……ううん、アステリオス様……。その御姿、その筋肉、その笑顔……。アーカイブ……永久保存、しなきゃ……!」


 フラフラと立ち上がり、震える手でスマートフォンを握りしめると、葵は静かに席を立った。


「日向さん!?ちょっと、どこ行くの!まだ書類が――」

「……緊急事態イベントです。有給を使います。いえ、むしろ今すぐ私を解雇クビにしてくださっても構いません。私は今、人生の『真実』を追いかけなければならないので」


 背後で上司が絶叫しているが、もはやあおいの耳には届かない。

 今の彼女を突き動かしているのは、事務官としての責任感ではない。前世から積み上げ、今世でさらに熟成された「業」そのものだ。


(待ってて、陽花はるか……ううん、アステリオス様!今、お姉ちゃんが最高のバックアップ体制を整えてあげるから!)


 彼女は職場のゲートを飛び出すと、妹が残した「星屑の軌跡」を正確にトレースし、一心不乱に自宅へと走り出した。



 数十分後、日向家の玄関が「バンッ!」と凄まじい音を立てて開いた。

 肩で息をし、髪を振り乱し、鼻の下に乾燥しかけた血の跡をつけた葵がリビングに乱入する。その目に映ったのは、夢でも幻覚でもなかった。


「お姉ちゃん!?やっぱり体調悪かったんだ!アっくん、どうしよう、お姉ちゃんが死んじゃう!」


 心配そうに駆け寄ってくる、身長190センチの超絶美形。

 そのしなやかな胸板、夜空を映したネイビーブルーの瞳。そして何より、自分を呼ぶその声の響き。


(ああ……近い……。推しが……至近距離ゼロきょりで私を心配してる……。しかもこの、鼓膜を甘く震わせる芳醇な低音ボイス……。これ、前世でイヤホンが壊れるまでリピートし続けた『アステリオス(限定盤・添い寝ボイスCD)』のあの声じゃない……!?現実リアルにフルボイスで実装されるなんて、何この神運営……!!)


 葵の脳内で、公式設定資料集のページが再び猛烈な勢いで捲られる。


(アステリオス:孤高にして至高。その微笑みは冬の星のように冷ややかで……。嘘、目の前の彼は今、捨てられた大型犬みたいな顔で私を覗き込んでる……!?私だけの特別……!?違う、中身が妹だからだわ!でもそれがいい!むしろそれが最高のご褒美よ!!)


「神……実在、したッ!公式が……我が家に……。最大手《供給源》は……実の妹だったの……ッ!!」


 溢れ出る感謝、歓喜、そして理性の完全崩壊。

 二度目の「ドバッ!!」という景気良い音と共に、あおいの鼻から鮮血がリビングの床に鮮やかなアーチを描いた。


 だが、彼女の指先は死んでいなかった。


 意識が遠のき、膝から崩れ落ちるその刹那。彼女は地面に激突する0.5秒前まで、煽りのアングルからアステリオスの「心配そうにこちらを覗き込む顔(超ド級の慈愛スマイル)」を、4K動画で完璧に記録しきったのである。


「お姉ちゃあぁぁん!!」


 泣き叫ぶ妹(外見:最高神の声)。呆れ果てて言葉を失う脳内の本尊。混乱の極みに達し、おろおろとするだけの父。

 そんな惨状の中で、意識を失いゆく葵の口元には、この世のものとは思えないほど深い法悦の笑みが浮かんでいた。


(……勝ち、確……。今日からここが、私の聖域エルサレムよ……)


 平和だった日向家は、ここに終焉しゅうえんを迎えた。

 代わりに幕を開けるのは、推しが妹になった姉による、国家予算(と給料)を注ぎ込むノンストップな愛の暴走劇である。


「罵倒して……陽花、もっとその神の御声で私を罵倒して……!それすらも、私の北極星になるのだから……ッ!」


 床に沈み込みながら、葵は幸せそうに呟いた。

 脳内のアっくんが「この女、もう手遅れだ」と絶望していることなど、彼女の耳には一切届いていなかった。

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