閑話 泥濘《でいねい》に咲いた一番星 ――アステリオス回想――
それは、陽花の快活な声が響く現代とは正反対の、重苦しい「死の香」に満ちた時代の記憶だ。
アステリオスがかつて生きた世界において、空は祝福の色を失っていた。
『災厄』は太陽を食らい、地上には粘りつくような漆黒の霧が立ち込めた。地図は破かれ、道標は折れ、人々はただ暗闇に怯えて泥を啜る。明日など、誰も信じていなかった。――この男が現れるまでは。
「……あきらめるな。空を見ろ」
若き日のアステリオスの声は、今のように優雅な響きを湛えてはいなかった。
荒れた呼吸、血の混じった唾を吐き捨てながら、彼は折れた剣を杖代わりに立ち上がった。
彼の背中には、磨き上げられた今の大理石のような肌とは異なり、無数の切り傷と、泥と、凝固した返り血が塗りたくられていた。
人々は彼を狂人だと思った。光などどこにもないのに、この男はなぜ泥濘の中で空を見上げるのかと。
「暗闇が深ければ深いほど、星の瞬きは鋭くなる。……あれだ。あの青い光が北を指している」
彼は天文学者でも、ましてや予言者でもなかった。
ただ、誰よりも必死に、泥の中に膝を突きながら「逃げない光」を探し続けた執念の観測者に過ぎない。
彼が指し示した小さな光の粒。それは絶望に沈んでいた人々の目に唯一の『救い』として映り込んだ。
だが、その『導き手』への道は、あまりに過酷だった。
魔物に襲われる集落があった。アステリオスは迷わず剣を取った。
しかし、彼がどれほど神速の如き身のこなしで戦おうとも、救える命には限界があった。
ある時、彼は決断を迫られた。
迫り来る闇の奔流から、一千人の避難民を救うために、足の遅い数百人の村を切り捨てるという、地獄のような選択を。
「……行け。前だけを見て走れ。振り返れば、貴様らも闇に呑まれるぞ」
冷徹に告げる彼の頬を、見捨てられた者たちの呪詛と、救われた者たちの涙が濡らした。
この時、彼の鎖骨には最初の『聖痕』が刻まれた。
それは栄光の証などではない。彼が救いきれなかった者たちの悔恨と、自分を英雄として崇める者たちの重すぎる期待を、その肉体に物理的に刻みつけた「逃げ場のない枷」だった。
戦いは数十年に及び、アステリオスが往く道には、常に信仰の導火線が燃え上がっていた。
人々は彼を拝み、彼を神格化し、その髪に混じる銀糸の一房すらも『誉れ』として語り継いだ。
彼は死の間際、天を仰いで笑ったという。
自らの命を薪として燃やし尽くし、ついに闇を払った男。
その魂が肉体を離れた瞬間、数百万の人々の熱狂的な祈りは、彼を「人間」として眠らせることを拒んだ。
『導き給え、我らの星よ』
『アステリオス様、どうか、これからも永遠に』
その強すぎる信仰心は鎖となり、彼を至高の男神へと昇華させると同時に、完璧な偶像として「封印」したのだ。
――そして今。
陽花の体を通して、アステリオスは現代の清浄な空気を吸い込んでいる。
コンビニのプリンを頬張り、ジャージを弾けさせながら笑う少女の無邪気な心音。
(……皮肉なものだな。あれほど重かった死者たちの祈りが、この娘のたった一言、「やったー!」という叫びで霧散していくようだ。数千年の孤独が、コンビニのプリン一つに敗北するとはな)
アステリオスは、己の内に眠る『泥濘の記憶』をそっと閉じ、黄金の星紋を細めた。
かつて彼が背負った地獄は、今やこの少女を輝かせるための「包容力」という名の色気へと転じている。
「案ずるな陽花。汝の往く先がどれほど無軌道であろうとも……私が、最高の星となってやろう」
闇の中で一人、空を見上げたあの日の孤独な青年の心は。
今、世界一賑やかな家庭の、騒がしいお喋りの中に、静かに溶け込んでいくのだった。




