第5話 敦賀の風と女神のパリ丼
姉貴という名の「歩く天災」から解放された俺は、しばらく駅前の道端にへたり込んでいた。
道場での手合わせによる疲労と、脳をフル回転させた知恵熱。もうダンジョンに潜って魔物を狩るなんて気力は一ミリも残っちゃいない。神の力を宿したって、九頭竜の身内と過ごす一日は精神の削れ方が尋常じゃないんだ。
「……ふわぁ、疲れた。なぁ、セレナリア。少し寄り道してもいいか?」
『はい。私は貴方と共に在るだけですから。……それにしても、先ほどのご家族は……いえ、なんでもありません』
脳内の女神様は、まだ九頭竜家の異常性に脳を焼かれているらしい。無理もない。
俺はふらふらと、敦賀の街をあてもなく歩き始めた。駅前のアーケード、潮の香りが混じった風。
子供の頃、クソみたいな修行の合間に逃げ出した時も、この街の雑踏だけは俺を「九頭竜」ではなく、ただの「ガキ」として扱ってくれた。
『誠司、顔が綻んでいますよ。ここが貴方の育った場所なのですね。人々が、笑っています……。かつての私には、それがただの現象にしか見えませんでした。けれど、今の私には……それがとても瑞々しく感じられるのです』
「大げさだっての。ただの田舎町だよ。……けど、そんなしんみりした感想が出てくるのは腹が減ってる証拠だ」
馴染みの店の前に足が止まる。やってきたのは、地元で知らない者はいない老舗『ヨーロッパ軒』。
「おばちゃん、パリ丼一つ!」
やってきたのは、丼からはみ出すほどの薄切りメンチカツが3枚。秘伝のタレを纏ったソースの香ばしい匂いが、暴力的に鼻を突き抜ける。
融合が進んだせいか、最近は俺が感じた「味」もセレナリアに鮮明に伝わるようになっていた。
「いいかセレナリア。これが『食』ってやつだ。……行くぞ」
カツを一口、豪快に頬張った。
サクッとした衣の食感、溢れ出す肉汁、そして甘辛いソースの旨味が脳を直接揺らす。
『……っ!!』
その瞬間、脳内が静まり返った。
天界の小神だった頃も、異世界の「楔」だった数千年間も、彼女に「食事」という概念はなかった。エネルギーは魔力で補給するものであって、歯で、舌で、鼻で、命を咀嚼して「旨い」と感じる経験なんて、彼女にとっては初めての出来事だったのだ。
『…………っ、なん、ですか、これは。温かくて、刺激的で、脂の甘みが……。誠司、私、今、自分が生きている実感が、翼を広げる時よりも強く……!』
「ははっ、だろ?世界を救うよりパリ丼食ってる方が幸せだろ?」
『……否定、できません。私……今まで何を見落としていたのでしょうか……』
感動のあまり、彼女の意識が涙ぐんでいるような温かな波動が伝わってくる。世界を繋ぎ止める楔だった高潔な神様が、ソースメンチ丼一つに完敗している姿を想像して、俺は思わず吹き出した。
「お礼に、この星の旨いもん全部教えてやるよ。……ほら、もう一口。今度はご飯も一緒に……な?」
『……はいっ!お願いします!』
食事を終えた後は、腹ごなしに気比神宮の方まで足を伸ばした。朱塗りの大鳥居を眺め、自販機のジュースを飲みながら松並木を歩く。
かつてのセレナリアにとっては「守るべき対象」でしかなかった景色が、俺というフィルターを通すことで、彼女自身の「思い出」に変わっていく。
「セレナリア。世界を繋ぐなんて大層なことは、気が向いた時でいいんだ。まずはこの街で、美味いもん食って、ダラダラ過ごして……そうやって『今』を存分に味わえばいい」
『……はい。貴方という器は、本当に……呆れるほどに欲張りで、そして、優しいですね』
夕焼けが敦賀湾を赤く染める頃、俺たちの心には、ダンジョンで手に入れたどんな魔石よりも温かい満足感が満ちていた。
「……よし。腹も満たしたし、明日からはまた泥臭く稼ぐか」
『ええ。貴方の行く末を、私も共に。……ところで、先ほどの「ぱりどん」というもの、もう一杯いけたりしませんか?』
「は?」
感傷に浸りかけた脳内に、とんでもない提案が投げ込まれた。
『あの、ソースの染みた衣と白米のハーモニーが忘れられなくて……。もう一口、いえ、もう一丼分ほど、私の魂が求めているのです』
「……いや、落ち着けセレナリア。あのな、お前が『食べたい』って思うのは自由だけどな……」
俺は自分の、すでにパンパンに膨れた腹をさすりながら溜息をついた。
「実際に食って、腹が膨れるのは俺なんだよ!お前は意識だけだからいいけどさ、こっちはもう物理的に限界なんだっての!」
『うぅ、私が神としての力を完全に取り戻してさえいれば、概念干渉で瞬時にエネルギーを吸収し、次の「ぱりどん」を収容できたものを……!』
「神の権能をそんな大食い対決みたいなことに使おうとすんな!」
女神様の底知れぬ食欲《好奇心》に頭を抱えながら、俺は駅前のアパートへと歩き出した。
世界を繋ぐ楔だか何だか知らねぇが、この「居候」を満足させるには、世界を救うより膨大な食費と強靭な胃袋が必要になりそうだ。
◇
敦賀の街をぶらぶらと歩く俺の足取りは、先ほどまでの重さが嘘のように軽い。
道行く女子高生や綺麗なお姉さんに「よっ、お姉さん。これから俺と、パリ丼の魅力を語り合うお茶会なんてどう……?」と声をかけては、「ごめんなさい」「5分前なら大丈夫でした」と光の速さで断られる。10連敗を越えたあたりで、脳内のセレナリアが感心したように声を漏らした。
『……貴方のその折れない心、ある種の強靭さを感じます。人間の営みとは、これほどまでに試行錯誤の連続なのですね』
「試行錯誤じゃねーよ、これはただの挨拶だ。……挨拶なんだよ、察してくれ」
フラれ続けて夕暮れ時。駅前の商店街を歩いていると、視界の端に妙にキラキラとした一団が映った。
見覚えがある。枚方の地獄から自衛隊経由で放流された際、ボロボロになって再会を喜んでいたあの若造共――セナたちのパーティーだ。どうやらここには、悪名高い「不意打ち罠」の解除練習に来たらしい。
(……お、今回はトラップで飛ばされずに済んだみたいだな。よかったよかった)
そっと脇を通り抜けようとした瞬間、リーダーの少女――セナと目が合った。
「あ!誠司さん!?」
「げっ」
反射的に変な声が出た。セナはパッと表情を輝かせると、後ろにぞろぞろとメンバーを引き連れて突撃してきた。
(……え? 待て、あの時の「秘密」ってまさか、仲間にも言ってねぇのか!?)
焦る俺の視線を受け止め、セナは仲間たちの後ろから、いたずらっぽく人差し指を唇に当てて「しーっ」と微笑んでみせた。やっぱり全部バレてる! バレた上で、こいつは俺をオモチャにする気満々だ!
「聞いてくださいよ誠司さん!今日の探索、すごかったんです!」
そこからはもう、弾丸ライナーのようなトークの嵐だった。敦賀の罠は性格が悪いだの、でも練習になっただの。さらには、
「見てくださいこれ!宝箱から魔法金属の短剣が出たんです!20万は下らないってギルドの人が言ってました。遠征費引いても大儲けですよ!」と、ホクホク顔で戦利品を見せつけてくる。
若さ。そして圧倒的な高揚感。38層の絶望を知っているはずなのに、喉元を過ぎればなんとやら。今の彼女たちは冒険の楽しさに毒されている。俺はと言えば、そのマシンガントークの圧力に押され、ただ「うん、そうか」「へぇ、よかったね」と生返事を繰り返すだけの「そうだねマシーン」と化していた。
そして、事件は起きた。
「……それでね、やっぱり私たち、誠司さんの技術をもっと近くで見たいなって話してたんです。だから、今週末、ここのみんなと枚方ダンジョンに行ってくれますか?」
「うん。そうだね」
数秒後。俺の脳が「今の言葉の意味」を処理し終えたときには、すべてが手遅れだった。
「やったぁぁ!ありがとうございます!」
「九頭竜さん、よろしくお願いします!指導料はちゃんと払いますから!」
「打ち合わせ通り、土曜の朝9時、枚方エントランス集合でいいですね!?」
まるで精密な軍事作戦でも遂行していたかのような速度で、パーティーメンバー全員がガッチリと合意。有無を言わせぬ空気で決定事項が積み上げられていく。
「……え?あ、ちょっ……」
「じゃ、私たち装備のメンテナンスがあるんで!失礼します!」
嵐が去るように、彼女たちは風のように去っていった。残されたのは、夕暮れの街角でポツンと立ち尽くす俺一人。
『……誠司、返事は慎重にするべきだと、かつて誰かに教わらなかったのですか?』
「…………うるせぇよ」
脳内で呆れ返る女神の声に、俺は天を仰いだ。
「……枚方かよ。あそこ、あの『女神化爆発』のせいで今ごろ調査隊やら野次馬やらでパンパンじゃねーのか……?」
なし崩し的に決まった週末の予定。
クズの休日が、またしても賑やかで面倒な方向に転がり始めたのを、俺は胃のあたりの重苦しさ(パリ丼のせいではないはずだ、たぶん)と共に確信していた。




