あの日のこと
「おめでとう」
俺の声に春奈は隣に座る兄貴と顔を見合わせて笑った。
「ありがとう」
照れているのを隠すように、春奈はシャンパンに手を伸ばした。こんな風に嬉しそうに笑っているのを見たのは久しぶりだと思う。一口飲んで、ちょっと目を丸くして美味しい、と俺に笑いかけた。美味しいと喜んでくれたことを嬉しく思う。
「シャンパンって美味しい」
「評判のものを取り寄せてもらったんだ。どう?兄貴?」
兄貴はグラスを飲み干すと、首を縦に振った。
「まあまあじゃない?」
そのそっけない返事に被さるように春奈の声がした。
「すごく美味しい。飲みやすいし」
ね、そう言って同意を求めるように俺を見た。急いだようにまた一口飲む。
春奈がお酒を飲むことに俺は驚いた。
いつもお茶しか飲まないから、飲めないのかと思っていた。
「春奈もお酒が強いね」
そう言ったら、春奈が驚いた顔をした。
「兄貴は外だとワインやウイスキーが多いけど、春奈はいつも何を飲むの?」
次に飲む酒を決めるために兄貴に話を振ったら、わかりやすく二人の顔がこわばった。
誤魔化すような春奈の返事を聞いて確信した。
二人でお酒を飲むこともなかったのだと。
「へえ。次はとりあえずワイン飲んでみる?兄貴のために色々用意してもらったから」
そう言ってソムリエを呼ぶ。
「うん、飲んでみようかな」
春奈は急いで目の前のシャンパンを飲みほした。
無理をしてお酒を飲んで楽しそうにする春奈に、兄貴の対応は素っ気ない物だった。それを見ていられなくて、空いているグラスにワインを注いで、話題を変えた。
だけど、それがよくなかった。
メイン料理が終わった頃には春奈の口数が減って眠そうにしていた。飲みすぎたのだ。
デザートの準備を見ながら、俺は兄貴に声をかけた。
「兄貴、春奈が寝そうだ」
そう口に出した時、携帯の鳴る音がした。音のした方を見ると、自分の携帯が鳴っている。
「悪い」
そう言って携帯を手に席を外す。
電話は社内のシステム障害の報告だった。
そろそろ22時という時間で、これから対応はキツイけど仕方ない。きっと帰れないな、と思った。
「俺はすぐ行くけど、副社長も呼んだほうがいいだろ?」
電話の向こうは明らかに戸惑った声を出した。
「ああ、まあ。そうですかね。いや……明さんだけでいいですよ。副社長来ても、ねえ?あの人システムわからないし」
俺は思わず苦笑いした。
「俺、いま副社長と一緒なんだよ。だから流石に報告しないのもおかしいし、行くと言われたら止められない。田辺さんから副社長に連絡させて」
「田辺さんか。あの人にこの時間かけるのもキツイですね……やっぱり副社長はやめません?」
「まあ、無理だろ。社長には俺から連絡する」
こう言う時に言わないと、兄貴はうるさいし面倒だ。
「わかりました。早く来てくださいね」
電話を切ってから、親父に報告をして部屋に戻ると、春奈は椅子に寄りかかったまま眠っていて、起きる気配もなかった。その姿勢が不安定で落ちないのが不思議なくらいだった。思わず姿勢を変えようと思った。
それなのに、隣にいる兄貴は黙って携帯を見ていて、春奈を見ようともしない。酔い潰れた春奈を兄貴ははっきりと持てあましていた。
俺は兄貴に声を掛ける。
「もうすぐ田辺さんから連絡が入ると思う」
「え?何かあった?」
「システム障害。完全に止まったみたい。今晩中に戻さないとまずい。親父には連絡したから。俺はすぐ会社に戻って対応する」
その時兄貴の携帯も鳴った。電話で報告を聞いて兄貴はため息をついた。
「俺も行かないとダメだ」
「いや俺が行くからいいよ、兄貴は……」
そう言って春奈に視線を戻す。優もその視線を追って、内容を理解したのか苦い顔をした。俺は兄貴に声を掛ける。
「春奈を連れて帰って。うちに泊めてもいいし」
「でも会社は俺が行かないとダメだ。すぐに行こう。春奈。春奈?」
そう言って兄貴は春奈に声をかけた。だけど返事はない。俺は兄貴と顔を見合わせた。
兄貴が口を開いた。
「明、春奈を家まで送っていって。そうしたらお前は帰っていい。システム障害は俺が対応する」
それに俺は思い切り苦い顔をした。
会社は俺が行かないとダメだし、兄貴は求められていない。
反対に春奈の世話は兄貴にしかできない。
「いや、俺も行かないと。そう返事もしたし」
「俺がいけば明はいいだろ。……それとも俺じゃダメだって言いたいのか?」
「そうじゃないけど。兄貴より俺の方がシステムの事わかっているし。大体兄貴、あのシステムのことわかる?システム部のやつはいても、上にもわかる人間がいないと話にならない。……兄貴だってそう思うだろ?」
優はそれに返事はしなかった。
だけど一気に不機嫌になった顔を見て、言い方を間違った、と思いながらため息をついた。
「とりあえず会計しよう」
個室に入ってきた店員に会計を頼むと、兄貴が店員を引き留めた。
「申し訳ないけど、このホテルの客室を一部屋急いで取ってくれないかな」
「兄貴?」
俺の質問を兄貴は無視した。
「シングルで、部屋は取れるならどこでもいい」
かしこまりました、そう言って店員が部屋を出ると、兄貴はハンガーにかけていたジャケットを羽織る。
「家まで送っている時間ないから、春奈をここに泊まらせる。お前は春奈を部屋まで連れて行って。俺は先に会社に行くから」
それに俺はあからさまに嫌な顔をした。
「いや、それこそ兄貴の仕事で俺がやるのはおかしい。婚約者の事くらい、ちゃんとしてくれよ。春奈が可哀想だ。あっちは俺がいく」
婚約者を他の人に運ばせるとか、何を考えているのかと思った。
「いや、春奈を任せる」
「だから、春奈のことは兄貴だって。何度も言わせるなよ」
だけど兄貴は苛立った顔で俺を見た。
「責任者は俺だ。だから俺がいく」
「それを言うなら、あのシステムは兄貴より俺の方がわかっているから、俺が行く」
俺たちはしばらくお互いを見つめていた。
少しして部屋のドアを開けて店員が入ってきた。
「あの、お部屋の準備ができました」
そう言って歩いてくると、俺たちのちょうど中間の位置で立ち止まる。そして部屋の鍵を差し出した。俺たちを交互に見つめて、様子を伺う。どちらに渡したらいいのか、迷っている。
この人に渡してくださいと言おうとしたら、椅子に座って寝ていた春奈の体が動いた。腕がだらりと落ちて、体が椅子から滑り落ちそうになった。
「春奈!」
咄嗟に俺は春奈に駆け寄った。腕を抑えると、体を支え直して椅子に深く座らせた。
「落ちなくてよかった」
思わずそう呟いた。そして息を吐いて、顔をあげた。
その時兄貴と視線があった。
兄貴が俺をじっと見ていた。
俺と春奈を見ていた。
暗い目だった。その目でずっと俺と、春奈を見ていた。
感情が見えない瞳だった。
でも一つだけわかった。
俺と春奈を同じ目で見ていた。
「兄貴……」
俺が何か言うより先に、兄貴が身を翻して、走るように部屋を出て行った。
「おい!」
その後ろ姿を追おうとしたら、俺の目の前に店員が立ちはだかった。そして困った顔で声をかけてくる。
「あの……」
鍵を差し出す店員に、俺はどうしようもなくて、黙って鍵を受け取った。
結局、俺は春奈を抱き上げて部屋まで運んだ。
その体は華奢で小さくて、抱き上げるのに緊張した。そっと抱きしめるように腕を回すと春奈が体を寄せてきて、気持ちが揺さぶられる。
思わず腕に力が入って抱きしめそうになって、それを必死で抑えた。
だけど、部屋に連れて行ったら、それで終わりにするはずで、あんな事をするつもりはなかったのだ。
でも、そうしてしまったきっかけはわかる。
ベッドに春奈を運んで、部屋を出ようとした俺の袖を、春奈が掴んだ。振り返った俺に、彼女は声をかけた。
「優さん?」
そう呼びかけた春奈に罪はないと思う。
誰だって自分を抱き上げて運んでくれるのは婚約者だと思う。
だから、そう呼びかけてもおかしくはない。
でも、それが許せなかった。
俺の名前を呼んでほしいと思った。
だから、俺は彼女にキスをした。
目に手を当てたのは、俺の顔を見られたくないから。
俺だとわかったら、拒絶されるかもしれない。それは耐えられない。
自分だと知られたくなくて視界を塞いだくせに、そのキスは長くて深いものになった。
矛盾していると思う。
その理由はそのキスがとても気持ち良かったから。
奥に差し込んだ舌を彼女が受け入れてくれて、それが嬉しかったから。
そのせいで思わず我を忘れてしまうほど、夢中になってしまったから。
いつしかそれが激しいものになっても、俺は止めるつもりなんてなかった。
俺はどこかで彼女の目が覚めればいいと思っていた。
今、春奈にキスしているのは俺だと、わかって欲しかった。
会社に戻ると、社内は混乱していた。早速システム部へ向かうと、そこは戦争状態だった。
「ああ、明さん。遅いですよ」
さっき電話してきたやつが、俺を見るなり泣きついてきた。まだ少ししか時間が立っていないのに、すでに徹夜明けのような様子になっている。結構優秀なやつなのにと思った。その社員に手にしているコンビニの袋を手渡すと、早速開けて栄養ドリンクを手にした。
「差し入れありがとうございます」
俺は社内を見渡した。システム部の中には何人か呼び出されて戻ってきた人がいて、俺はその人たちに挨拶して回る。
「副社長は?」
空いている椅子に脱いだジャケットを引っ掛けると俺は腕を捲った。
その社員は肩をすくめた。
「ちょっと前に来て、顔を出しましたよ。いても微妙なんで、とりあえず部屋に戻ってもらいました。本人もさっさと出て行っちゃいましたし」
それを聞いて、思わずため息をついた。
自分の兄ながら、ダメな人だなと心の中でつぶやく。
学生の頃に感じていた兄貴の「わかりやすく嫌なやつ」ぶりは健在で、少し嫌味な上から目線のせいか、兄貴の人望は驚くほどなかった。仕事もイマイチなのに偉そうだとあからさまに不満を持つ奴もいた。
もっとうまくやれよ、と俺はため息をつく。
俺はその社員のパソコンを覗き込んだ。
「よし、とりあえずできることから行こう。早く終わらせるぞ」
「ですね。徹夜は勘弁です」
「まあ、この調子だとギリギリだな」
隣に座って、パソコンに向かった。
「明さん」
「どうした?」
顔を向けると、隣の社員がいつになく真剣な顔で俺を見ていた。
「俺、あの人じゃなくて、明さんに社長になってほしいです」
俺はちょっと驚いた。
システム部は俺にとっても大切な場所だ。川村に来てまだ慣れない頃から、目の前のこの社員を含めたシステム部はよくサポートしてくれた。1番仲良くしている部署と言ってもいい。
だけどこんな時に、こんな事を言われるなんて思わなかった。
俺は苦笑いした。こう言う話は誤魔化すに限ると思った。
「とりあえず、この仕事に集中しよう」
その社員も肩をすくめた。
「ですね。でも」
「でも?」
その社員は笑顔になった。
「さっき言った事。俺だけじゃなくて、みんな思っている事ですから」
今度こそ、俺は困って笑った。これにどう返事をすればいいのか、難しい。
人望のない兄貴の出世には反感を持つ人も多い。だけどこんなふうにはっきりと言われたのは初めてだ。
俺は兄貴に勝つ必要があるけれど、それは周りには知られたくない。
追い詰める人間は、できる限り平静でいなければいけない。
俺は肩を竦めた。
「その気持ちはありがたく受け取っておく」
「お願いします」
「応えられるかは、約束できない」
「みんなが全力で応援します」
「とりあえず、今やることは、早く復旧させる事」
「はい」
俺はパソコンに向かいながら考える。
この会社に入ったのは、欲しいものを手に入れるためだった。
いつの間にか欲しい者が増えて、会社は2番目に欲しい物になった。
1番の目的は自分にとって大切な人を取り戻す事、になった。
驚く事に、川村に入ってがむしゃらに働いたら、嫌がっていた大会社での一見窮屈な仕事が楽しくなってきた。必死に働いたら、助けてくれる人が出てきて、仲間意識を持って働くのは、新鮮だった。
仕事で結果を出せば、次は大きな仕事を任されて、それをこなす事にやりがいを感じる。
性格的に大きな会社で人に揉まれて仕事をするのは似合わないと思っていた。
だけど、意外にこの仕事は自分にも合っている気がしてきた。
俺と兄貴の仕事での争いは今の所、俺の連勝記録が伸びるだけに終わっている。兄貴の結果は散々だ。
最近兄貴が俺に対して警戒している。
俺が今何をしているのか、今度は何をやるのか、常に気にしている。
意識していると言うことは、兄貴が追い詰められている証拠だ。
キーボードを叩きながら、小さく頷いた。
会社は俺が貰おう。
兄貴が俺の1番大切な者を奪ったから、俺は兄貴の1番大切にしている物を奪おう。
親の会社を継ぐという兄貴の夢を。
誤字脱字報告いただきました。ありがとうございます。




