どうしても手に入れたいもの
親の会社に入ったのは、どうしても手に入れたいものがあったから。
俺の兄貴は、世間一般的に言う「金持ちのおぼっちゃま」だった。悪い人ではないけど、何かにつけて親を自慢したり、それとなく上から目線だったり、ブランド物を見せびらかしたり、甘やかされて育った人間の持つ嫌な面もちゃんと持っていた。
外面のいい兄貴の嫌な一面は、家族や春奈の前では上手に隠される。だから春奈は兄貴の事をとても優しい良い人だと思っていた。
彼女の兄貴への気持ちはただの憧れで恋ではないと、いつか気が付くだろうと俺は簡単に考えていた。
その時の俺は自分の彼女への気持ちを少し軽く考えていた。
自分がどれだけ彼女の事が好きなのか気がついた時、彼女は『兄の恋人』になっていた。
兄貴の恋人にはあまりいい思い出がない。
初めての彼女は、俺には全く良さがわからない人だったけれど、兄貴は好きだった。だけど、彼女と付き合ってわかりやすく兄貴は成績が落ちた。そんな事もあって、彼女に対しては父も母もいい印象がない。
確かに成績が落ちているのに、試験前に連日遊びに行ったり、頻繁に彼女が堂々と家に上がり込んでいたら、親の目が厳しくなるのも当然だと思う。
「遊ぶなとは言いませんけど、今は少しやめておいた方がいいと思いますよ」
彼女が家に遊びに来ていた時、俺は彼女に注意した事がある。
俺のことを無口な弟くらいにしか思っていなかった彼女は、目を丸くしていた。その口が何かを言う前に、俺は先に被せるように言った。
「もう少し考えて行動してもらえませんか」
兄貴に親が注意するのを聞くのが面倒だった。だから忠告しただけだ。返事はなかったけど、はっきりと嫌な顔をされた。俺は面倒になって彼女を置いてその場を去った。
それ以来、彼女は俺に話しかけることは無くなった。
嫌われたなと思った。
兄貴の大学受験の時の騒動は俺にとっては、想定内だった。付属の大学もギリギリ行けるかどうかの成績で遊び歩いていたのだから当然だろう。
流されやすい兄貴は、はっきりと彼女に流されていた。
親が彼女との付き合いに言及したのも理解できる。
おそらく、彼女と兄貴が付き合い続けた未来も考えた行動だったと思う。別れて無事に大学に入って、親の会社に入った時、ようやく兄が落ち着いた事に母はほっとしていた。
俺も大学を卒業する頃に親父から
「お前は他社に勤めるのか?」
そう聞かれた時、俺はあっさりと答えた。
「俺は好きな事しようかと思っている」
兄貴が親父の会社を継ぐのは昔からの夢だったから、それを奪うつもりはない。社長なんて自分には向かないと思っていたのもある。
「そうか」
親父はそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、兄貴の仕事で親父が悩んでいる事を、俺は運転手の宮野さんから聞いた。
「社長、悩んでいるみたいですよ」
悪い事をしたと思って、それから俺は親父とよく話す様にした。親父は俺と兄貴で会社を継いで欲しいと思っていたから、その期待を裏切った埋め合わせのつもりだった。
仕事の愚痴くらい聞こうと言う、最初はとても軽いものだった。
もし、後悔があるとしたら、俺はあの時に春奈に思いを告げておくべきだった。
心のどこかで、春奈は兄貴に告白しないと思っていたのかも知れない。
そんな勇気がないと思い込んでいた。
ちょっと、考えが甘かった。
その話を聞いて自分の気持ちがぐんと重くなったのを感じて、ようやく自分がどれだけ彼女を好きだったかわかった。
でも次に感じたのは違和感だった。
兄貴は春奈に恋愛感情は抱いていない。それは見ればわかる。なぜ付き合ったのか考えて、答えはすぐにわかった。
少し前に兄貴が仕事で大きなミスをしていた。
あまりにもひどい兄貴の企画を凍結した後、今後の兄貴の扱いに親父は頭を抱えていた。
でもその事で、春奈にも兄貴にも甘い親父は、兄貴の失敗を責められなくなった。逆に言うと兄貴は親父の気持ちと春奈の愛情を利用した。自分のために。
「明、うちに来ないか?」
困りきった親父が俺に声をかけたのは、そのすぐ後だった。
その頃になると、親父の愚痴は兄貴の仕事に関するものばかりだった。最初はこの話し合いは軽く話を聞くだけのものだったのに、最近は重い話になることも多かった。だから兄貴のサポートは面倒だと思った後で、俺は考え方を変えた。
兄貴が俺の1番大切なものを奪ったから、俺は兄貴の1番大切にしている物を奪おう。
親の会社を継ぐという兄貴の夢を。
「いいよ。俺も川村で働いてみたいな」
即答した俺に親父は驚いていたけれど、喜んですぐに手配してくれた。
俺は親父に一つ条件を出した。
俺と兄貴の仕事を評価して、より優秀で社長に向いている方を後継にしてほしい。
それを親父は黙って受け入れた。
川村に入ったら、忙しい日々が待っていた。
親父から話を聞いていたから、業務内容はある程度頭に入っていても、いきなり最前線には立てない。俺は下っ端仕事も厭わず、文字通り走り回って仕事をした。
約束通り、俺と兄貴には定期的に仕事が与えられた。はっきりと競わせているとわかるやり方と容赦のない仕事の量に、俺は少しだけ親父を恨んだけれど、これから社長になる事を考えたら、簡単だと思う。俺は夢中でそれをこなした。
運のいいことに周りも協力的で、助けてくれる人も多かった。そのおかげで仕事が順調になった。結果が出始めて俺の評価が上がると、少し兄貴の態度が硬化した。
俺を警戒するように見ていた。
わかっていて、俺は気付かないフリをした。
一つ気がかりがあった。
春奈のことだ。
俺は兄貴と付き合って春奈が幸せなら、それでいいと思っていた。
でも、幸せには見えなかった。
二人に恋人同志の甘い雰囲気はない。いつも少し離れた距離は、多分恋人らしい触れ合いがない証拠だ。
そのせいか、兄貴と付き合ってから春奈は笑顔が減った。いつも困った様に笑う。笑いながら兄貴の顔を伺う。
それを見て、俺は思う。
自分なら、あんな顔はさせない。
諦めようとしていた気持ちが、燻っているのを感じた。
もし、それがとても低い可能性でも、彼女を取り戻せるなら……。
今度は絶対にそのチャンスを逃さない、と決めた。
彼女を取り戻したいと強く思ったのも、この頃だった。
親の会社に入った理由は、どうしても手に入れたいものがあったから。
それは会社のはずだった。
だけど、いつの間にか、そこに彼女も含まれていた。
会社を手に入れたら、彼女も取り戻せる様な気がしていた。
二人の結婚の話が出た時、約束の1年が終わるまでは結婚を伸ばしてもらうように親父に頼んだ。
親友の娘と結婚するには、兄貴が頼りないと思っていた親父は賛成してくれた。
でも、兄貴と春奈の関係が良くない事に悩んだ母親が二人の同居話を進めてしまった。
夜遅く親父と一緒に帰宅してそれを聞いて、俺は驚いた。
「どうしてそんなことをした」
親父も怒っていた。だけど母は悲しそうな顔をした。
「一緒に住んで、長い時間一緒にいれば、あの二人も変わると思って」
俺はため息をついた。
母親なりに二人の心配をしていたのは知っている。心配してしまうほど、二人に距離があったことも認める。
だけど、あまりにもおかしい話だ。一緒に住んだら解決するようなことではない。
お節介にも程がある。
それで簡単にうまく行くはずもない。
俺は何か言おうとして口を開こうとした時
「明、諦めろ」
親父は俺の肩を叩いた。申し訳なさそうな顔をしていた。
この人が俺の気持ちを理解していたことを、俺はその時に知った。
そして、これ以上はもう無理だということも理解した。
二人の結婚を祝う会をしようと提案したのは、純粋に祝いたかったからだ。
今の関係がどうであれ、ずっと兄弟のように育った二人が結婚するなら、祝わないと言う事はない。
幸せになって欲しいと思う。
だけど、実際はきちんと二人を祝うことで、自分の気持ちに区切りをつけようとしたのかもしれない。
3人で食事に行こう、と言ったら、春奈は驚いた顔をした。
「俺だって流石に兄さんと春奈の結婚はちゃんと祝おうと思っているよ」
可能な限り軽く言っているように見せたけれど、上手くできたかわからない。
いつものように笑うのは、ちょっと難しかった。
俺は春奈のことを姉だと思ったことなんて、一度もない。
この先だって、思えない気がした。
でも、俺は純粋に二人を祝うつもりだった。
あんなことをするつもりは、なかったのだ。




