元婚約者 立花春奈
苦い初恋の終わりから、あっという間にひと月がたった。
変わった事といえば、髪を切った。髪を切ったら新しい洋服やそれを着ていく所が気になる様になった。それから英語の勉強を始めた。同期につられて始めたけれど、意外と楽しく続けられている。
もっと気が沈むかと思ったけれど、意外とこんな小さな出来事の積み重ねで、気持ちは変わっていった。でも実際は、そんなものなのかもしれない。
まさに落ちる所まで落ちた状態だから、あとは上昇するしかない。
たくさんの新しい出来事と時間が私の傷を癒していた。
今日は新しい洋服を着て、浜田さんとランチに来た。高級ホテルの人気のアフタヌーンティーを浜田さんが予約してくれた。店内にはほぼ女性ばかりで、華やかな雰囲気だった。
私はそこで優さんの事を報告した。
長い話を浜田さんは黙って聞いてくれて、話し終えると大きなため息をついた。
「色々大変だったね」
浜田さんは私を見て首を振る。
「私なら優のこと、思い切り殴ってしまうかもしれない」
その過激な発言に私は思わず笑ってしまった。
「私も殴りたかったです」
「本当失礼な人よね。そんな人だと思わなかった」
浜田さんは大きなため息をついた。その後で気遣う様に私を見た。
「早く忘れたいと思うけど、実際は難しいと思う。だから無理はしないで」
その優しい瞳に、気持ちが落ち着く気がした。彼女の言葉に、心が温かくなる。
「でも、気持ちは吹っ切れました」
私は笑った。
「今までは何をするにも、優さんの目を気にしてました。特に付き合ってからは、それが強くなって、嫌われない様にってことばかり考えていました。だけど今は誰の事も気にしないで、自分の好きにやればいいと思えて、気持ちが楽です」
「優の目を気にしていたの?」
「好きになって欲しくて、頑張っていた気がします」
付き合ってから好きになってもらうなんておかしいけれど、事実だった。浜田さんも昔の谷川さんもロングヘアで、第一印象は物静かそうな女性という雰囲気だった。だから私もそんな女性になろうと、髪を伸ばしてどこか二人を意識して振る舞っていた気がする。
今ならわかる。
あのまま結婚しても、私たちは上手くいかなかった。谷川さんの事がなくても、きっとどこかで破綻していた。
「でも、今はその必要はないので、自分の思う通りにしようと思っています」
ずっと私の気持ちを捉えていた優さんはもういない。彼に好かれる必要もない。
だから好きにやってみようと思う。
私は私の通りに生きていい。
誰かを思い浮かべて行動する事も、真似をして生きる必要もない。
浜田さんはそんな私を見て、心配そうな顔をした。
「弟とはどうするの?」
「それは……」
思わず言葉を濁してしまった。
今回のことで、私を傷つけたことはたくさんある。
優さんが私を裏切った事以外に、川村家の人が私に嘘をついていたことも私を傷つけた。
川村家の人が嘘をついた理由は、優しさだ。優しさであっても、嘘をつかれた方は辛い。
あの人たちの顔を見ると、まだ辛くなる。だからもう少し気持ちが落ち着くまでは距離を置きたかった。
でも、明はそれを納得しなかった。
「こういう時こそ、そばにいて守ってやりたい」
その気持ちもわかる。明が本当に心配してくれているのも、わかる。
だけど、今はひとりでいたい。そう伝えて、納得してもらった。
明といると、過保護な明が私を守ってしまう。そして私はそれに甘えてしまう。
甘えるのは楽なのだ。
でも今は逃げずにしっかり自分の足で立っていたい。
甘えずに、自分の力で歩きたいと思う。
あの時の長い長い話し合いを思い出して、私は少し苦い顔になる。
「たくさん話しましたけれど、しばらくは一人の時間が欲しいと伝えて、多分納得してくれたと思います」
「私でもそうする。それが当然よね」
浜田さんは笑った。
あの出来事を無かった事にするには、まだ時間がかかる。もしかしたら、もう一つ恋をするくらいの時間がないと忘れられないかもしれない。
「新しい恋でもすれば、忘れますかね?」
そう言ったら、浜田さんはとても驚いた顔をした。それで私は我に返って、慌てて否定する。
「あ、すみません、変な意味ではなくて。気持ちを変えるって意味です」
浜田さんは大きな瞳をきらりと光らせて私へ顔を近づけた。
「じゃあ、紹介しようか」
浜田さんは今度結婚予定の彼の友人を紹介してくれる、と言い出した。
「え、いや、別に今は本当に一人でいいので」
「私たちと一緒に4人で食事に行こうよ。あんまり考えずに気軽に来ればいいから。恋人でなくて、男友達だと思えばいいよ」
男友達、という響きはちょっと新鮮だった。私にはそう言える人はいない。でも、いてくれたらとても良いと思う。
その言葉に気持ちが軽くなって、私は頷いた。
「本当に気軽に行ってもいいですか?」
「いい人だよ。……あの弟ほど格好良くはないけど」
からかうように笑う浜田さんに私は苦い顔をした。
「別に顔で選んでいる訳ではないです」
「ごめん。わかっているけど、つい」
浜田さんは笑った。からかうけど、やっぱり心配してくれているのだと思う。押し付ける訳ではなく勧める態度は嬉しい。こうして外に出る機会を作ってくれるのも、優しさだ。
先輩だけど、いい友人だと思う。
今までは私の生活のどこかに優さんの存在があった。
でも、もう彼はいない。
彼がどこにもいない自分だけの世界を、私はこれから作っていく。
その世界を自分の好きな人や物で溢れさせたいと思う。
浜田さんと別れてホテルを出ると、ちょうど携帯がなった。見ると相手は明だった。電話に出ると、明も今は外にいて、しかも近くだという。今いる場所を伝えたら、
「ちょっと待っていて」
そんな返事とともに忙しなく電話が切れて、5分もしたら走ってくる明が見えた。
シンプルなシャツにパンツという格好が素敵に見えるのは、顔立ちとスタイルがいいからだ。その姿は、周りの女性の目を引いていて、私まで注目されてしまい、恥ずかしくなる。
だからつい、そっけない対応をしてしまった。
「どうしたの?急に」
「俺も近くで人と会う予定があったから。ちょうど今終わって近くにいるなら会いたいと思って」
「仕事?休日に?」
「んー、まあそんな感じ」
相変わらず忙しいなあ、と思う。今は会社の中心にいる明は、このまま会社を継ぐだろう。以前より忙しくなったと思う。
彼が川村に入って本当にやりたいことが何かは、いまだにわからないけれど、きっとこの人はやり遂げると思った。
明はそんな、とても強い人だ。
私は隣に当たり前のように立つ明を見上げた。
「しばらく距離を置くって言わなかったっけ?」
思わず責めるように言うと、明は私の顔を見て、それから惚けたような顔をした。
「俺はまだ納得していないから」
その態度に思わず言葉を失って、視線で非難すると苦笑が返ってきた。
「髪、切ったんだ」
「そう、この間ね」
明がそっと私の髪を自分の指に絡めて私を見る。その視線に熱いものがあるのがわかって、いたたまれない。
「何?似合わない?」
「いや、すごく似合ってる。いいと思うよ」
手放しで褒めるのが恥ずかしくて、顔が赤くなる。それを隠すように体を翻して先に歩き出す。
明は私の隣を歩き始めた。
「食事はした?」
「浜田さんとしてきた」
「じゃあ、……どこか行く予定だった?」
私は少し悩んで、渋々答えた。
「買い物とか、しようかと思って」
「どこに?」
私は少し迷って、答えた。
「何も決めてない。だから適当に」
今日、浜田さんといろんな話をした。彼女はおしゃれで、洋服もつけているアクセサリーも素敵だ。それを素直に伝えたら、よく買い物をするお店を教えてくれた。私には背伸びするお店だけど、お手頃価格の物もあるらしい。近くにお店があるから帰りに寄ってみたらと提案してくれた。
明と買い物に行ったことはないけど、大抵の男の人は女性の買い物に付き合うのは嫌だと思う。優さんはそうだった。
だからこれで明も諦めると思ったのだ。
「わかった。俺も行く」
「え?」
驚いて聞き返すと、明は大きく頷いた。
「俺も時間あるし、付き合うよ」
「え?」
あまりにも想定外な申し出に驚いて隣を見上げると、明は楽しそうに笑った。
「俺も予定はないし、一緒に行くよ。車だから荷物が増えても大丈夫だし」
いいだろう?と顔を覗き込む明に、私は苦い顔をした。それを見て明は嬉しそうに笑う。
なんだか負けた気がして、私は黙って歩き出した。
笑いながらその隣を明が歩いてくる。
「浜田さんと何の話をしていたの?」
「秘密」
まさか今度友人を紹介してもらう約束だとは言えない。だけど、明はとても嫌な顔をした。
「男を紹介するとか言われたんじゃないだろうな」
なぜわかったのだろう。立ち止まって驚いて明を見上げると、明がため息をついて苦い顔をした。
「余計なことをする人だな」
その顔があまりにも苦いから、おかしくなって笑ってしまった。
「いいじゃない。新しい友人を作っても。男友達ってなんだか良い響きだし」
「はっきり言っておく。男友達なんて存在しない。絶対に裏に好意がある」
「そんな事ないって」
「春奈が知らないだけだよ。……女性のお節介って、本当に良いことがない」
大袈裟にため息をつく明に私は苦笑いした。
「何それ?そんな経験があるの?」
私の言葉に、明は肩をすくめた。
「そうだね。かなり苦労したよ」
その様子に思わず笑ってしまうと、明はため息を吐いた。
「春奈を一番大切にしているのも、一番思っているのも俺だよ」
笑われたのが心外とばかりに、首を振った。
でも、その言葉がスッと心に入り込んだ。
私がずっと優さんのことを好きだった時間、明はずっとそばにいてくれた。
いろんな場面で、私の側にいてくれた。
あの日、優さんと別れた後、私を車に乗せて東京に連れ帰ってくれたのも、明だった。一人だったら、ちゃんと家に帰れたか疑問だ。私は抜け殻のようになっていたから、帰り道の事を何一つ覚えていないくらいだった。
家の前で車を降りようとしたら、急に腕を掴まれて体を引き寄せられた。
反射的に逃れようとしたら、それを遮るようにしてまた抱きしめられた。
「明、離して」
「一度泣いておけ」
「え?」
「今泣かないと、この先泣けなくなる。だから今、ここで泣け」
それを聞いたら、自然と涙が出てきた。
明は泣き止むまで、何も言わずに抱きしめてくれた。その手が暖かった。
今ならわかる。あの時泣くことがとても大事だった。
自分の存在をこれ以上ないくらい否定されて、傷ついた私は泣くことも忘れていた。だけどあの時泣かなかったら、きっとその後もうまく泣くことが出来なくて、いつまでも気持ちがリセットされなかったと思う。
優さんを探す事を、明は何度も止めた。答えを知っている明は、私が傷つくのがわかっていた。優さんを探す私のそばにいたのは私を守るためだ。
それ以外にも私が気付いていない所でこの人は動いている、私のために。
だけど続けたのは私で、勝手に傷ついたのも私だ。
でも、どんな時も私のそばで、黙って支えてくれた。とても感謝している。
「わかってるよ」
「え?」
今度は明が驚いた顔をする。私は明に笑いかけた。
「明が私のこと守ってくれた事も、大切に思ってくれている事も、わかっているし、感謝している」
私は明の顔を見上げた。
「もう少し、待っていて欲しいの」
「待つ?」
聞き返した明に私は頷いた。
「明が私のこと大切に思ってくれているのはわかるし、私も明の事を頼りにしてる。明は、私の事を裏切ったりしないって、思っている。だけど、今はどうしたら良いのかも、自分がどうしたいのかもわからないし。……この気持ちがどんなものかは、まだわからなくて、わかるまでもう少し時間が欲しい」
こんな言い方では、何が言いたいのか伝わらないと思う。だけど、私の言葉を明は聞いていて、そして笑った。
「どのくらい?」
「……わからないけど」
明は笑った。
「これまでも随分待ったから、俺は待つのは慣れているし、苦じゃないよ」
だけど、と顔を私に向けた。
「できるだけ早くしてくれないと、さすがに待ち切れない」
「う、うん」
明は少し背をかがめて私の目を見つめた。
「待ちきれなくなったら容赦なく迎えに行くから。覚悟して」
私はその目をしっかり見つめて、頷いた。
「わかった」
それでようやく明は笑顔になって、私の手を引いた。繋がれる手に、少し迷って手を引こうとしたら、逆に強く握り返された。
「行こう」
結局この人のペースだな、と思わず苦笑した。
ちょっと驚かせたくて繋がれた手に力を込めたら、それに明の目が丸く見開かれた。
私と目があって、それから本当に嬉しそうに笑った。
その顔がとても嬉しそうだったから、私の心も温かくなる様な気がする。
微笑み返そうとして、まるで恋人みたいだと思って、途端に恥ずかしくなる。
どうしていいのかわからなくて、思わず視線を下げると、笑い声がした。
見上げると、明が私を見ていた。だからつい、怒った様な声を出してしまった。
「何?」
「……なんでもない」
笑いを堪えながら明が返事をする。
この気持ちの事は、まだわからないことばかりだ。
どんな形になるか、どんな名前がつくのかも、わからない。
でも、それが何であっても、明が私にとって大切な人である事に変わりはない。
あの日の真実を知った時、私はそれを嫌だと思わなかった。
それはきっと、そういう事なのだろう。
私はその答えを、ほとんどわかっている。
でも、今はまだわからなくていい。
だけど、いつかこれが二度目の恋になったら。
その時はきちんと自分から伝えよう、そう思った。




