川村 優 2
優さんは私から視線を逸らせた。
「彼女がここにいる事を知って、どうしても彼女に会いたくなった」
偶然、仕事がキャンセルになって時間ができた。この時間があれば、ここまで来ても夜には東京に戻れる、そう思ったら自然に体が動いて、気がついたら車を走らせていた。途中で大雨が降ってきて、高速を走る車の窓が見えなくなった。それでもスピードを落とさなかった。事故にならないのが不思議なくらいだった。
行っても会えるわけではない。会えなかったら、それでいいと思っていた。
会えなかったら、もうここには来ないつもりだった。
だけど、高速を降りたあたりで雨が止んだ。しばらくして畑の畦道に車輪を取られた。車を出そうとしていたら、そこに本当に偶然、谷川さんがやって来た。
会ってしまった事で、また始まってしまった。
「仁美に会ったら昔の気持ちが蘇って、会ってはいけないと思うほど、ここに来たいと思った。ここでの暮らしが楽しくて、週末や少しでも時間のある時は車でここまで来た。何回か途中で居眠りしそうになって、危ないこともあったよ。それでも止めることは考えられなかった」
今日東京からここまで、ほんの数時間の距離だった。だから、彼のスケジュールの中にあった余白は、ここにくるために使われたのだろう。やめていたゴルフスクール、存在しない出張やゴルフ……その時間でここに、谷川さんに会いに来ていた。
明は何回頼んでも、優さんのスケジュールを見せてくれなかった。会社情報が入ると言うのは建前で、もしかしたら、彼の予定表は嘘ばかりで、すぐにそれがわかる物だったのかもしれない。
大きなため息が聞こえた。
「ここにいると自然でいられる。誰かに追われることも、人の目を気にすることもない。格好つけることもいらない。仕事のプレッシャーもない。気持ちがずっと楽で、いつも好きなように笑えた。あんなに笑ったの、本当に久しぶりだった。」
いつの間にか、東京の生活よりここの生活が大事になった。ここで過ごす時間が長くなった。そのうちに東京での全てが、疎ましく感じられる様になる。
「ここ、のどかだろう?」
「え?」
突然声がかかって驚くと、優さんは私を見て笑った。
「ここの人たちは、まだいろんな事を古いやり方でやっている。それが改善できたら、谷川の農場もこの地域の農業全体がもっと良くなると思った。仁美の家も、まだまだ直せるところがたくさんある。そう思って少し手伝ったら、仕事がずっと効率的になって……いろんなことがうまくいくようになった。仁美だけなく、仁美の弟や親にも感謝されたよ」
優さんは満足げに頷く。
「ここの農業組合にも、アドバイザーとして加わっている。東京のシステムを真似したものを取り入れたら、かなり仕事がスムーズになって、みんなすごく喜んで感謝してくれて、俺もやりがいがあるよ」
その笑顔には自信がみなぎっていた。仕事が成功している充実感が感じられた。
こんな満足した顔を、東京では見ただろうかと思った。
「ここの人たちは、俺がいないとだめだ。仁美も、谷川の家族も、ここの組合も、俺が支えてやらないといけない。そうしないとダメになる」
そして優さんは私をしっかりと見つめた。
「ここには俺が、俺の力が必要だ」
その時、私はようやく優さんの本当の気持ちがわかった気がした。
優さんがいなくなっても、会社に大きなダメージはなかった。みんなが頼りにしたのは優さんではなく明だった。
もしかしたら、その空気は優さんがいなくなる前から漂っていたのではないだろうか。
だとしたらそれを、この人が気付いていないはずがない。
それをどんな気持ちで受け止めたのだろう。
彼が逃げたのは、谷川さんの事だけが理由ではない。仕事も大きな理由の一つだ。
仕事では、川村の会社には、東京には居場所がないと思っていた。
反対に、ここでは谷川さんを初め全員が優さんを頼りにして、優さんを賞賛していた。
この人は必要とされたかった。尊敬してもらいたかった。
自分の居場所が欲しかった。
きっとそれが、答えなのだ。
「子供ができたんだ」
私は顔を上げた。
優さんはまた前を見ていた。目を細めて遠くを見た。
「それを聞いて嬉しかった。今までで一番、嬉しかった。だけど、嬉しいのと同じくらい、どうしていいのかわからなくなった。彼女と俺の子供を捨てることなんてできない。会社も捨てられない。でも人に知られたら、もう終わりだと思った」
優さんは膝に両手をついて、手で顔を覆った。
「親父には言えない。言ったらきっと家を追い出されるし、社長にもなれない。だけど、その仕事にも俺の居場所はない。あいつらは明がいればそれでいいんだ」
悲鳴のような声だった。
「仕事は辞めたくない、だけど同じくらい逃げたいと思って、でも二つとも捨てたくなくて、諦められなくて、苦しかった……だけど結局逃げた」
俯いた顔の下から声が聞こえた。
ごめん。
あまりにも自分勝手な謝罪だった。
もっといい方法があったのに、この人は全部最悪の方法を選び続けた。
怒っても、叩いても、きっと私は許される。
だけど、そんなつもりにはなれなかった。
こんな人をずっとずっと思ってきたのは、私だ。
優さんがいなくなる前の日。
私と別れて家に帰って、どんなにお酒を飲んでも眠れなかった。浅い眠りの合間に夢を見てうなされた。目覚めたら、頭の中にたくさんのことが浮かんだ。
仕事のこと、親のこと、明のこと。
ここの生活のこと、谷川さんのこと、それから、子供の事。
川村の家にしがみつきたいのに、それは全部ダメになる。でも、それを自分から告白する勇気もない。限界を迎えた頭はこれ以上考えることを拒否した。
気がついたら家を出て、あてもなく東京の夜の街を歩いていた。そのまま高速バスに乗る。
自然と足はここに向かっていた。
そして、朝、谷川さんの家の前に立っていた。
多分、弱った彼に1番優しい場所が、ここだった。
彼の居場所はここだと、彼が自分で決めたのだ。
「少しは……好きでした?私のこと」
問いかけると、優さんは顔を上げた。
そしてため息をついて、私から視線を逸らせた。ついさっきそれなりの好意と言われていたことを思い出す。
「もちろん好きだよ。結婚してもいいと思ったくらいだから。でもそれは……」
「妹みたい、ですか?」
遮るように言ったら、驚いた顔をした。
「そうだね、妹に近いかもしれない」
「……妹とは手を繋いだり、キスなんてできないですか?」
それを聞いて、優さんはあっと思い出したような顔をした。
正確には、谷川さんと再会する前から、私達の間に恋人らしいことはなかった。優さんは苦い顔になって片手を後頭部に当てた。
「本当の妹ではないけど、それに近い存在だからね」
「だから、私とは何もしなかったのですか?」
そう聞いたら首を小さく横に振った。
「本当に春奈とはうまくやっていこうと思っていた。今はその気になれなくても、いつかって」
その後で優さんは首を横に振った。
「春奈を抱きしめようとすると、親父や……特に明の顔が頭に浮かんでくる。そうすると、体がこわばって、手が止まってそれ以上動かなくなる。どうしてダメなのかと、俺も悩んだ。ストレスとか色々原因があるかも知れないけど、わからない」
そうして私を見た。
「愛そうと思っていた。でも、できなかった」
「じゃあ、どうしてあの時はキスしてくれたのですか?」
少し驚いた顔をして、それから優さんは私を見た。そして苦笑いした。
本当に困ったような顔だった。
「この間も言ってたけど、あの時って?」
「あの日、明と3人でお祝いした日のことです」
「……ああ」
私から視線を移して、優さんは明の車へ視線を移した。しばらく明の車を、車の中の明をじっと見ていた。
それから私へ視線を戻す。
「春奈、明と付き合っている?」
「え?」
「さっきの明を見たら、そう感じたから。ものすごく怖い顔で、殺されるかと思った」
可笑しそうに笑う優さんに、私はキッパリと答えた。
「付き合ってはいないです、家族みたいな……私と優さんと同じ、姉と弟みたいなものです。」
「そう?」
私の言葉を信じていないように優さんが笑った。
「今も、怖い顔をしている。春奈のことが大切なんだ」
明の車に視線を向けると、とても怖い顔をしてこっちを見ていた。優さんは笑った。
「明は春奈のことがずっと昔から好きなんだな」
私が優さんを見ると、優さんはなんでもないことのように笑った。
「春奈は明を弟だと思っているけど、明は一度もそう思ったことはないよ」
その笑顔は、兄のようだった。
昔からの優しい兄のようで、嫉妬のかけらも感じられなかった。
「俺はね、それを知っていた」
「え?」
「明は春奈が好きだって。ずっと好きだったって知っていたよ」
優さんは笑った。
「だって、それがあいつの唯一の弱点だから」
優さんは私を見た。その目が私をしっかりと見つめる。
「春奈と付き合ったから、俺は明を本気にさせてしまったのかもしれないな」
「それは……」
どういう意味ですか、そう言おうとして言葉が止まる。
だって、優さんが笑ったのだ。
その笑顔の裏にたくさんの感情が流れて、消えていった。まるで泣いているみたいな笑顔は、最後に感情を全て隠してしまった。
「でもね、春奈」
私は顔を上げた。優さんは私を見て笑う。
「俺はね、春奈にキスしたことはないよ。一度も」
「え?」
優さんは立ち上がった。
「二ヶ月くらい前かな。探偵が俺を見つけて、母さんと水野さん夫婦が俺に会いに来た」
「え?」
「探偵って優秀だよな。あっという間に俺の居場所も事情も調べて、会いに来た。親父はやっぱり来なかったけど、4人で色々話したよ。ひとまず子供がいるから、結婚に納得してくれた。だけど、今後は川村家には立ち入らない事、会社は明に譲る事、遺産相続権はないと決められた。その他にも色々厳しい条件もあったけど、仕方ないと思っている。全部放り出したのは俺だから」
優さんは全てを失ったのに、それを当然の事として受け止めていた。あんなに社長に拘っていたのが嘘の様だった。
立ち上がった優さんは、空を見上げた。
この人はずっと大切にしていた物を、谷川さんのために全部捨てた。代わりに自由を手に入れた。自由と、失ったはずの恋を手に入れた。
「だからもう、春奈と会う事も関わることもない。それも弁護士が出した条件に入っていた。当然だと思っている」
そして、顔を下げて私を見た。
「だから、春奈と会うのも今日が最後だ」
別れの言葉なのに、その顔はとてもスッキリしていた。
妹だったとしても、あまりにも簡単な別れだった。
「せめてもの罪滅ぼしに、こっちで俺が作った野菜を定期的に川村家に届けている。それはなんとか受け取ってもらっているみたいで、良かったよ」
安心したように息を吐く。でも私には視線を合わせなかった。
「春奈には折を見て話すって母さんが言っていた。傷つくだろうから、うまく時期を見て話したいって。俺からもそうお願いした。まだ母さんからは何も聞いてないだろう?母さんが春奈にまだ俺の事を言えていなかったことを責めないでほしい。みんなが春奈のことを心配してやった事だから、その気持ちは理解してほしい」
それを聞いて怒りが込み上げた。
ふざけている。
私を一番傷つけたのは、この人なのだ。
なのに今更、周りを庇おうとする。
私を言い訳に、家族と自分も守ろうとする。
許せないと思った。だけど、激しく怒るかと思ったのに、あまり怒ることができなかった。
私の存在も、気持ちも利用された。1番傷ついたのは私だ。私はもっと怒っていいはずだ。
だけど、そんな気持ちは不思議と生まれてこなかった。
さっきまで話していた優さんは私の思っていた優さんではなかった。
明るくて優しかった優さんの姿はもうどこにもなかった。
そこにいたのは、優しさのかけらもない、くたびれた姿をした男の人だった。
でも、理由はそれだけではないと思う。
もしかしたら、私は自分で思うほど、この人のことを好きではなかったのかもしれない。
好きだと思い込んで、好きでいることに満足していた。
初恋の相手は、この人ではなくて「初恋」という存在だったのかもしれない。
だから、こうして初恋が終わっても、私は泣く事すらできないのだ。
私は目の前の人に向かって口を開く。
「怒っている」
「うん」
「絶対に許さない」
「わかっている…悪いのは全部俺だから」
私は優さんの目を見た。
優さんを探しながら、ずっと考えていたことがある。
もう一度優さんに会ったら何を言おうか、と。
いろんな言葉が浮かんでは消えていった。また会えたら嬉しくて、やっぱり好きだと言ってしまうかもしれないと最初は簡単に考えていた。だけど少しずつその気持ちが消えていって、そのうちに考えることができなくなった。
まだその答えは見つかっていなかった。
その時が来て、自然に口から滑り出たのは、とても冷たい言葉だった。
「もう二度と私の前に現れないで」
この人と、谷川さんとその子供と、仲良く笑い合える自信なんてない。
幸せそうにしている姿なんて、見たくない。それが不幸なものでも見たくない。
不幸になって欲しいなんて言えない。だけどお幸せに、なんてこの先どれだけ時間が経っても言える気がしない。
全て消しゴムで消すように、綺麗に消してしまえたらいいと思った。
この人の存在も、楽しかった子供の頃の記憶ごと、全部消えてしまえばいい。
初恋の記憶も全部、消えればいい。
私は優さんを見つめた。
「私は絶対にあなたたちのことを許さない。……だからもう私に関わらないで」
優さんは目を伏せた。
「許さなくていい。ずっと恨んでくれ」
それきり、彼は私の目を見ることはなかった。
初恋の人は、最後まで私をみてくれなかった。
最初から、最後まで、あの人は私を見ようとしなかった。




