川村 優 1
私と優さんは軽トラックに乗って近くの神社に向かった。
家に帰ってきた優さんは私を見て、色々察したのだろう。驚いてはいても、取り乱しはしなかった。
「二人で話をしようか」
とても静かにそう言って、それに私は頷いた。
だけどそれを拒否したのは明だった。
二人にはさせられないと強く主張する明を説得するのは大変だった。でも明がいると、私たちは正直に話せない。なんとか明を説得して、谷川さんの家の近くで話すことにした。
私と優さんがトラックで移動する後ろを明が自分の車で追いかけて、今も車の中から小さな神社の中のベンチに座った私たちをじっと見ている。遠くからでもその鋭い視線には身がすくむ思いがした。
明は私が優さんのトラックに乗るのを嫌がったけれど、私はそれを振り切った。それも怒っている原因かもしれない。
それを思って、大きなため息が出た。
どう話そうかと考えていると、先に口を開いたのは優さんだった。
「ここにはどうやって来た?明に連れられて?」
それを聞いて、軽い衝撃を受けた。
それは明が、そして川村家が優さんの居場所を知っていたという事だ。明が一人でここに来た事からも、それは理解できる。でもその可能性を考えていても、やはり悲しくなった。
「春奈?」
返事のない私を心配したのか、優さんが私の顔を覗き込んだ。
その顔は見慣れた優しいもので、子供の頃に見た兄のような顔だった。
昔はよくこんな顔を見た。
こんな優しい笑顔が好きだった。でも、私にこうして笑いかけてくれたのは、とても久しぶりの事の様な気がする。
「春奈?」
もう一度声をかけた優さんに、私は小さく頷いた。それにほっとした様に顔を緩めた優さんを見て、また懐かしくなる。
「優さんがいなくなって、一人で優さんのことを探したの」
そう言ったら、不思議そうに私を見た。
「優さんに会いたくて、いろんなところを探して、いろんな人に話を聞いた。浜田さんや坂村さん、あのバーにも行った。優さんを長いこと探して、ようやくここまできた」
見上げると、視線があった。優さんは小さく穏やかに笑った。
「誰からも何も聞いてない?」
私は首を振った。優さんは困ったように笑った。
「そうか……春奈が一人で俺のこと、探したのか」
「探した。大変だった」
「そうか、悪かったね」
優さんは苦笑いした。
「何から話そうか」
「え?」
「聞きたいこと、たくさんあるだろう?」
笑って問いかける彼の頬には無精髭が生えていた。くたびれた作業着を着て、よく見たら靴も汚れていた。ここまで乗ってきたのも、汚れた軽トラックだった。東京にいた頃より太ったかもしれない。何より雰囲気が変わっていた。
東京にいる時はいつも形の良いスーツを着ていい靴を履いて、綺麗に磨いたスポーツカーに乗っていた。大きな企業で先頭に立って働いていた人が、こうして今ここにいるなんて想像もしなかった。
だけど、彼の顔はその時よりずっと穏やかだった。いなくなる前日に見た、張り詰めた様子はもうない。まるで大きな荷物を降ろしたように見えた。
私はため息と共に口を開いた。
「色々聞きたいことがあって、どれから話していいかわからない。だけど、どうしても会いたかった」
結末がよくない物だとわかっていても、不思議と会いたくないとは思わなかった
この人が私に会いたくなくても、それでも私は会いたかった。
「会って話したかった」
私は優さんを見た。笑おうとしたのに、泣きそうになってしまった。
「本当の優さんの話が聞きたかったの」
込み上げる涙を堪えたら、とても苦い顔になってしまった。
優さんは笑った。そのまま顔を上げて空を見上げる。
「限界だった」
空を見上げて、目を閉じた。
「仕事も何もかも行き詰まって、もう無理だと思って……だから無責任だとはわかっているけど、逃げた」
顔を戻して私を見た。
「これ以上耐えられなくて、逃げたんだ」
その顔を見たら、今度こそ泣きそうになった。
「俺には才能なんてない。親父みたいな経営者にはなれない。働いてからそれがようやくわかったよ」
そう言って私を見た。その顔が困ったように私を見る。
「ずっと親父の会社を継ぐのが夢だったけどね、俺には無理だ」
それを聞いて心臓がドクッと大きな音を立てた。
優さんの顔は笑顔のままだった。だからこそ、余計にその言葉の裏側が見えるような気がした。
「最初に限界を感じたのは、大学受験の時。勉強も、合格しないといけないプレッシャーも全てがきつかった。浪人の間も次は絶対に合格しないといけない、2度目の失敗は許されないって、精神的にもかなり追い詰められた。こんなに辛いのなら、親父の跡なんて継がなくてもいいって思った」
驚いて目を見張った私を優さんは見て、呆れたように笑った。
「春奈にはわからないか。親父は『たった一度の失敗』も許せない厳しい人だよ。親父は春奈には……春奈だけじゃないか、明にも優しかったから、言ってもわからないもしれないな」
そして私から顔を逸らせて笑う。
「でも、あの人は俺には厳しかった」
おじ様は優さんにだけ厳しかったわけではない。それは期待の裏返しで、一番優さんに期待していた。
少し離れた私から見れば、おじ様にとって優さんは特別だった。おじ様の初めての息子で、とても大切な存在だった。
とても残念だけど、その気持ちは本人には伝わらなかった。
優さんは隣でとても静かな顔をしていた。
昔の事をこんな風に振り返ることができるのは、もうそれと関係のない世界に来たからかもしれない。
「二度目に限界を感じたのは、仕事を始めてから」
優さんはぼんやりと前を見ていた。どこを見ているのかわからない空虚な目だった。
「社長の息子として恥ずかしく無いように頑張った。でもそんな簡単にいかなかった。仕事の結果はすぐには出ない。いい結果を出したいと焦ると、もっと上手くいかない。焦ると同期や後輩との関係もギスギスして、それなのに結果は出ない。全てが悪循環だった」
彼の仕事の話をきちんと聞いたのは、これが初めてだった。だけど全てがうまくいかなかった事は、その顔を見れば理解できた。
「大きな失敗をした」
優さんは私をみて笑った。
「親父は俺を社長にする為に、手っ取り早く俺に実績を作らせたかった。金も人材も好きに使っていいから、大きな仕事を成功させろと言われた。でも悩めば悩むほど、何も考えが浮かばない。何も考えられない。でも……これがうまくいったら、社長になれると思ったからどうしても結果を出したかった」
その結果を、私はすでに知っている。わかっていても、その先を聞くのが怖かった。
「なんとか考えて捻り出した物は、悪い物ではなかったと思う。だけど、だめだった。企画段階で親父にダメ出しされた。それで終わり。呆れた顔をされた。……あの時の親父の顔、忘れられないな」
ハハ、と優さんは笑った。手のひらを目に当てた。手で隠れていない口が、歪んで見えた。
「多分、あの人はあの時に俺のことを諦めた」
優さんは笑った。
でも、泣くのを堪えた子供の様に見えた。
顔を逸らそうとしたら、優さんは私を見た。
「でも、俺を救ってくれたのは、春奈だよ」
「え?」
信じられないことを聞いた気がした。思わず優さんを見つめる。
「ちょうど春奈が俺に告白してくれたから」
優さんは本当に天真爛漫に笑った。
「春奈と付き合ったら、親父の機嫌も良くなるかも知れないって、本当に軽い気持ちだった。そうしたら俺の事も考え直すかもしれないって」
優さんは変わらず、笑ったままだった。朗らかな笑顔は、悪い事をしたと思っていない。
「春奈と付き合ったら、やっぱり俺のミスにはお咎めなしだった。良かった、まだ俺は社長になれると思った」
私を見ることもなく、もう一度優さんははっきりと笑った。
優さんは私に構うことなく話し続けた。
別に私が話を聞いていなくても、ここにいなくてもよかったのかもしれない。
目の前にいるのに、この人は私の顔を見ていない。だからこの人は気が付いていない。
私が今、どんな顔をしているのか。
優さんを見て、どんな顔をしているか。
何を考えているのか、知ろうとはしていなかった。
「3回目の限界が来たのは、明が川村に入ってきた時」
笑顔はいつの間にか消えて、苦しそうな顔に戻っていた。
「昔からあいつは優秀だから、なんでも簡単にできてしまう。だから俺は不安で、抜かされないように必死だった。常にあいつと比べられて、その重圧に耐えられなかった。あいつと一緒に仕事しても、絶対にうまく行かないと思っていたら、やっぱり予想通りだった。明の企画は面白いくらい成功する。プレゼンも上手いから、すぐに重役にも気に入られる。何より親父も俺の意見より、あいつの意見を大事にして、俺よりあいつを頼りにする」
笑顔はいつの間にか歪んでいた。眉がよって苦しそうに唇が曲げられる。
優さんは笑って私へ顔を向ける。私と目があって優さんは真顔に戻る。
「あいつが会社に戻ったのは俺が仕事でミスした後だったから、親父があいつを呼び戻したと思った。俺でなくあいつを後継ぎにしようとしているとか、親父と明の二人で俺を除け者にするつもりだとか、そんな事ばかりずっと考えてた」
優さんは首を振った。眉が寄せられて、苦い顔になる。
「あいつはすぐに大事な仕事にも加わり始めた。いつの間にか会議もあいつが中心になって、接待もゴルフも俺でなくて明が呼ばれ始めた。俺が今まで積み上げてきた物が全部無くなった。……でも俺はどうしても、明に勝ちたかった。社長だけは譲れないと思った」
優さんは膝の上で握りしめた右手を何度も振り下ろした。鈍い音が何度もした。体中から悔しさが溢れてくる。
「だから、春奈と結婚の話が出た時、これは使えるかもしれないって思った。親父は春奈には甘いから、もし俺たちが結婚したら、絶対に俺を社長にすると考えた。そうだろう?自分の子供と自分の子供のように可愛がっている春奈が結婚するなら、あの親父だって優しくなる」
そうして私を見た。
「……そうしたら副社長まで一気に昇進した。あまりにも俺の考え通りで、笑ったよ」
優さんは思い出したのか、笑った。
「ついに俺は明に勝った」
おかしくてたまらないように、優さんは声を出して笑った。
「あの時の俺はね、社長になれるなら何を利用してもいいと思っていた」
私はそれを呆然と聞いていた。
声をあげて笑う優さんを私はじっと見つめる。
その顔を怖いと思った。笑っているのに、目が笑っていない。甲高い声はまるで神経を逆撫でするようで、感情が壊れたようだった。
笑うほど、今までのこの人の優しさや、子供の頃の楽しかった思い出が消えていく気がした。
この人の価値が下がる。
思い出が汚される。
こんな顔の人を、私はずっと好きだったのかと、怖くなった。
「どうしようもないだろう?」
優さんは私を見た。
そうして顔を歪めて、笑って私を見た。
「ひどいだろ?」
そこまで言って、優さんは真剣な顔になった。
「俺は自分のために春奈を利用した。出世のために春奈と結婚しようとした。ひどいだろ?」
その目がじっと私を見つめた。
「ごめん。春奈。利用して」
じっと私を見て、それから頭を下げた。
私はそれを驚いて見つめた。
こんな風にこの人が他人に頭を下げたのを、初めて見た。
何か言おうとして口を開いたけれど、うまく声が出せなかった。
「私が追い詰めたのが、原因ですか?」
優さんは私を見た。
「あの日私があんな事を言ったから、それがきっかけで逃げたのですか?」
逃げた、という言葉に優さんは僅かに反応した。本人としては許せない言葉だったのかもしれない。
そのせいだろうか、私から視線を逸らせて口を開いた。
「限界だった、全部。だからもう耐えられないと思った」
静かに、首を振った。
「春奈のせいじゃない」
優さんは視線を逸らせたまま話し続けた。
「春奈のことは、もちろん好きだよ」
顔を上げた優さんは申し訳なさそうな顔をした。
「会社のためにお見合い結婚をするよりは、昔から知っている春奈と結婚する方がずっといい。気心も知れているし、それなりに好意もある。だから今は妹に近い感情でも、いつかきっと夫婦としてやっていけると思った」
それなりの好意。その言葉に私は反応した。
「強い気持ちがあって結婚する訳じゃない。だけど誰もが思い合って結婚するわけではない。結婚したら、ちゃんとしようと思っていた。それは本当だ。春奈を妻として愛そうって、二人で幸せになろうって決めていた。信じてくれ」
だけどそのすぐ後で優さんは、視線を私から逸らせた。
「でも……仁美と再会したら、彼女以外の人とそういう事をすることが、考えられなくなってしまった。できなかった。春奈の事は嫌いではない。でも…できない。できなかった」
優さんは自分の手を見つめた。信じられない、というように顔を振る。
私は唇を噛み締めて膝の上で手を握りしめた。
返事のない私を優さんは振り返って、驚いた顔をした。
「ごめん……」
今にも涙が出そうだった。だから泣いてはいけないと、きつく唇を噛み締めた。
優さんは困った顔で私へ手を伸ばして、私の前髪に触れたところで、その手を素早く引いた。
咄嗟に顔を上げると、視線があった。
だけど、優さんはすぐにその目を逸らせた。
優さんは苦く、苦く笑った。
「悪いのは全部、俺だ」




