同級生 谷川仁美
谷川さんはそこから近い自分の家へ私を連れて行った。
庭と駐車場に続く平家の広い家には、誰もいなかった。
昔ながらの家という感じだった。庭に面した大きな窓から綺麗な青空が見えて、縁側には眩しい光がさしている。
縁側の近くの部屋で座っていると、涼しい風が入ってきて、こんな時なのに気持ちの良い風だと思ってしまった。
この家のどこかに優さんの足跡がある気がして見回していると、谷川さんが戻ってテーブルにお茶を置いた。
「ありがとうございます」
谷川さんは私の正面に座って私を見た。その顔には僅かに微笑みが浮かんでいる。
記憶の中の彼女は穏やかに笑う人で、今もそうだ。
だけどその笑顔は笑っているのに凄みがあって、まるで私を威嚇するようだった。
飲み込まれる。
咄嗟にそう思って、机の下でまた強く手を握った。
「ここはにどうやって?誰かに話を聞きました?」
谷川さんの問いに、私は首を横に振った。
「誰にも聞いていません。私が一人で探してここまできました」
そう言ったら、驚いた顔をした。そんな事は予想していなかったのだろう。
「ここに来たって事は、もう全部わかっているのね?」
「大体は予想しています。でも、全部わかった訳ではないです」
私は視線を下げた。
「私がわかっているのは、おそらくこの半年から一年の間に優さんと谷川さんが再会して、優さんがここにくるようになった」
彼女は黙ったまま私を見て、それから静かに頷いた。
「そして突然、優さんは東京の暮らしを捨てて、ここに来た。なぜ突然いなくなったのか、なぜ全てを捨てたのか、それは私にはわかりません」
私は彼女に向き直った。じっと彼女を見つめると、谷川さんは私から顔を逸らせた。
「それは私も知らないの」
その言い方に、カチンときた。だから私は勢い込んだ。
「知らないのはおかしいです。優さんは谷川さんにどう説明したのですか?」
谷川さんは私へ視線を戻した。静かな能面のような顔だった。
「あの日の朝、優が家の前に立っていた。スーツを着て、荷物は何も持っていなかった。とても疲れた顔をしていた。そして全部捨ててきたって言ったの」
「全部……」
「全部捨ててきた。もう戻らない。戻る場所もない。だからここにいさせてくれ、って言っていた」
谷川さんは私を見た。
「もちろん私はあの人を受け入れた。何も聞かないで欲しいと言うから、聞いていない。でも、それでもいい。私はどんな優でも受け入れる、どんな時でも優の味方だから」
私たちの間を風が通っていった。
先に口を開いたのは谷川さんだった。
「優と私は大学に入る前に別れたの」
彼女は私をじっと見ていた。
「優の受験勉強のためだった。別れたくなかったけど、別れるしかなかった。私は勉強の邪魔をしたダメな恋人って思われて、川村家での印象が悪い。だから会いに行くことも連絡を取ることもできなかった。彼の事を諦めるしかなかった」
谷川さんは視線を下げた。
「でも私は優の事を忘れられなかった。大学で新しい出会いもあると思ったけど……やっぱり忘れられなかった。ずっと好きだった」
谷川さんは私から視線を逸らせて、窓の外を見た。
「大学を卒業して都内の企業に勤めたけど、親の病気をきっかけに2年前に母方の実家で農業を手伝い始めた。それまでは弟がやっていたけど、うまくいっていなかった。私も農業は初めてだから、最初は大変だったけど、そのうちに楽しくなって夢中で働いた。新しい事にもチャレンジしたいし、ネット事業に参加したいと思っていて、農業未来へつなぐ会を知ったの」
谷川さんが私を見た。
「農業未来へつなぐ会は同世代の農家で助け合いながら農業を盛り上げていこうっていうグループなの。そこに参加して通販を始めたり、新しい野菜の生産も始めたことで取引先も増えた。うちの弟はそういうビジネスの事はさっぱりだったから、私が代表になってつなぐ会と一緒に活動するようになって売り上げも上がった」
農業未来へつなぐ会のホームページに出ていたのは彼女の弟ではなく彼女だった。もしあそこに彼女の名前や写真がなければ、優さんも彼女に出会わなかったかもしれない。
そんな考えが浮かんで、消える。今となってはもう、わからない。
満足そうに笑う彼女に、私は静かに切り出した。
「二人の再会には、つなぐ会が関わっていますか?」
谷川さんは頷いた。
「半年と少し前かな。優はつなぐ会を経由して私を知って、会いに来てくれた。電話も何もなく、いきなり一人でここに来たの……驚いたなあ」
その時を思い出したのか谷川さんの顔に笑顔が浮かんだ。
「今でも覚えている。大雨の日で、雨が止んだ後に畑を見に外に出た。そうしたら狭い道で車のタイヤが畦道にはまって立ち往生している人がいた。白い車が泥だらけで、助けようと近づいたら車から人が出てきて、それが優だった」
谷川さんは目を閉じて微笑んだ。
「驚いたけど、嬉しかった。……ようやく会いに来てくれたと思った。やっぱり私と優は今も同じ気持ちだって」
まるでドラマのような再会のシーンだと思う。そんな風に再会したら、また好きになるだろう。
この二人も、きっとそうだったのだろう。
嬉しそうに谷川さんは微笑んだ。
「それから優は週末に会いに来るようになった。最初はすぐに帰っていたけれど、少しずつ時間が伸びて、そのうち畑仕事を一緒にやる様になった。事務仕事も手伝ってくれる様になった。一緒に働いていたら、暗い顔をしていた優がよく話すようになって、笑顔が増えた」
谷川さんは私を見て頷いた。
「あの人はすごい。他の農家の相談にも対応してくれて、みんなのために沢山アイデアを出してくれた。オンラインショップ、産直野菜の販売、ネットの広告……いろんな事を提案して、それが全部うまくいく。本当に驚いた」
谷川さんは頷いた。
「優は本当にすごい。すごい才能がある。その才能で私やみんなを助けてくれる。ここの人達はみんな、優に感謝しているの」
谷川さんは誇らしげに笑った。
私が楽しそうな優さんをみたのは、いつが最後だっただろう。もうずっとみていない。いなくなる前、優さんはいつも厳しい顔をしていた。
でもここでは、谷川さんの前では笑顔だったのだ。
「あの人は、あの家にいてはいけない」
谷川さんは私をじっと見つめた。片方の口角が上げられて、歪んだ笑みを浮かべる。
私はその挑戦的な態度に怒りを覚えた。
「なぜですか?」
「父親が厳しくて、仕事でも勉強でもうまくいかないと、すぐにその人はだめだと決めつける。その態度で優は萎縮して、自分の力を出せなくなる。でも、本当のあの人は才能があって、しっかりしている。もっとちゃんと彼を、彼の実力を見て欲しいとずっと思っていた」
その言い方に苛立った。
谷川さんの言い方は、自分だけが優さんを理解しているように感じる。
そんなことは絶対にない。
おじ様はしっかり優さんを見ていた。持てる力を伸ばそうとしていた。だから私は言い返した。
「そんな事はありません。ちゃんとおじさまは優さんを見ていました」
「本当に、そう?」
「え?」
「優はあなたにそう言ったの?」
谷川さんは笑った。私を見てとてもゆっくりと、笑った。
「彼は私にはそんな風には言わなかった。……彼はあなたにちゃんと話をしていたのかしら?」
馬鹿にしたような言い方だったけれど、私はそれに反論できない。
彼は私に何も話さなかった。『忙しい』ばかりで、私は優さんの仕事は忙しいけれど、全部うまく行っていると思い込んでいた。
本当の事を知ったのは、彼がいなくなってから。仕事で優さんが結果を出せなかった事も、いなくなって初めて知った。
優さんの周りの人から、聞いた。
谷川さんは大きなため息をついた。私を見てすぐに目線を外す。
「優、よく言っていたわ。弟と比べられるって」
「え?」
「昔も今も、あの親はわざと優と弟を争わせる。兄弟を争わせるなんて、あり得ない。あの人はそれで悩んで、そのプレッシャーに押しつぶされそうだった」
私は首を振った。
「二人で競うことで高め合える事もあります。それが目的だったと思います」
谷川さんは小さく笑った。
「ずっと近くにいる人間に、追い詰められる恐怖を想像できる?あの人はずっとそれを感じていたのよ。もうずっと、子供の頃から」
それに反論できなかった。
彼を探している間に、私はそのことも初めて知ったのだ。
谷川さんは大きく頷いた。
「あの人はあの家にいたら、ダメになる」
そこで彼女は笑った。
「だけど、ここではあの人はあの人らしくいられる。実力も発揮できる。その証拠にあの人がここでやる事は全部うまく行く」
谷川さんは私を見る。それから笑った。
「東京では、あの家では彼を支えられないでしょう?」
谷川さんが笑った。
「あなたはあの人を支えられない。あの家族も。でも私なら、あの人をちゃんと受け止められる。あなたたちが突き放したあの人を、支えられるのは私だけ」
その笑顔からは信念のようなものが感じられた。
彼女は自分だけが優さんを救うと、信じていた。
その時開いた窓から風が吹いて、彼女の髪をふわりと広げた。
髪の隙間から覗く耳にはダイヤのピアスがあった。
あの石よりもサイズは小さい。だけど本物だ。
これは、優さんのプレゼントだ。
そう思った。
「それは、優さんのプレゼントですか?」
気がついたら、口からそんな言葉が転がり出た。
あまりにもタイミングの悪い私の質問に、谷川さんは驚いた顔をした。だけど少しして首を縦に振った。
「何かプレゼントをしたいというから……指輪は仕事柄難しいし、私はネックレスが苦手だから、ピアスが欲しいって言ったの。私の誕生石はダイヤなので、ダイヤのピアス。それなら、いつも彼のプレゼントを身に着けていられるから」
彼女は真っ直ぐに私を見ている。
その顔は愛されている自信にあふれていた。
怖くてその顔が見られないのに、目を逸らせない。絡みつくような視線が、ただ怖かった。
「優には会社よりも社長の地位よりも、もっと大切なものができたから、諦めて」
目を見開いて谷川さんを見ると、谷川さんは私を見て笑った。
笑って、そっと右手を自分のお腹にあてた。
その動作にある考えが浮かんで、息を飲んだ。
スリムな体型なのに、大きめの丈の長い上着を着ているのがずっと気になっていた。
その理由は一つだ。
顔がこわばってしまった自覚はある。
私の顔を見て谷川さんは笑った。
「私たち、結婚するの」
昔と同じように彼女は穏やかに微笑んだ。
「向こうの親は反対していたけど……子供ができたから、なんとか許してもらったの」
そう言ってゆっくりと手のひらで自分のお腹を撫でた。
その事実は私の気持ちを深く抉るのに十分だった。
心臓が大きく鳴って、血の気が引くような気がした。
それは、彼が谷川さんとの間にそういうことをしていた、と言うことだ。
私はずっと、優さんはそういうことが好きではないと思っていた。
だから、私ともしないのだと。
でも、それは私としていないだけだと証明されてしまった。
私ではなくて、谷川さんとは、できる。
誰ともしていない、のと、私としていないのとでは大きな違いがある。
それは私の気持ちを突き落とすには十分だった。
「あなたと結婚するはずだったのに……こんなことになって、ごめんなさい」
そう言って、谷川さんは笑った。
その笑顔は少しだけ、歪んでいる。私をあざ笑うように。
勝ち誇った満足で溢れた微笑みは、私の心に突き刺さるようだった。
怖いと思った。
純粋な笑顔ではなかった。たくさんの感情や打算がその中に詰まっていた。
この人も自分がしたことの意味はわかっている。
この人は優さんに、家族や恋人や、仕事も地位も生活も、全てを捨てさせたのだ。
優さんにそう、望ませたのだ。
これは復讐なのかもしれない。そう思った。
二人を引き離した、川村の家に対する優さんと谷川さんの復讐かもしれないと。
変わらず彼女は笑って私を見る。だから私は必死でその目を見つめ返した。
負けられないと思って見つめ返すのに、同じくらい逃げたいと思ってしまう。
気がついたら、涙がでそうだった。
咄嗟に俯いた時、玄関のベルが鳴った。
「あら、お客様かしら?」
そう言って谷川さんが立ち上がる。
「ちょっと失礼します」
彼女が部屋を出た隙に涙を拭う。そして手近にあったバッグを掴んだ。
これ以上、彼女と一緒に話すのは耐えられない。
ひとまず家から出ようと思っていると、廊下を早足で歩く足音がして、飛び込むように人が入ってきた。
入ってきた人を見て私は驚いた。
「明」
そこにいたのは、明だった。
明は眉を寄せて不機嫌そうに私を、それから自分の後ろの谷川さんを見た。
「座って。お茶を出します」
「いえ、帰ります」
谷川さんの申し出を明は断って、私の手を掴んだ。その時谷川さんが笑って私たちを見た。
「せっかくだから一緒に話しましょうよ。もう少しで優さんも帰ってくるし」
ね、そう言って笑う。有無を言わせない空気だった。そうしてお茶を淹れて来ると言ってその場を離れた。
4人で話すのは厳しい。断ろうとしたら、それより先に明が私の隣に膝をついて腰をかがめた。
「どうしてここに?」
明は冷たい視線で答えることを拒否した。こんなに怒っているのは初めて見た。
「勝手なことをするなよ」
「ごめん」
「帰ろう。もうここにいても意味ない」
掴んだ手が強く引かれた時、外から車の音がした。
そのまま門を超えて、庭から続く駐車場に軽トラックが入るのが見えた。
「あ、あの人が帰ってきたわね」
お茶を持って戻ってきた谷川さんがそれを見て笑った。
私は思わずその視線の先を、追った。
あの人が誰かなんて聞く必要はなかった。
思わず明の手を振り払って立ち上がった。
「春奈!」
私を止めようとする明の手よりも少し早く、私は玄関へと小走りで向かう。
何を話すか、決めていない。
話したいことはたくさんあって、だけど言葉が出ないかも知れない。
ただ、あの人の姿が見たかった。
玄関に着いたとき、ちょうど玄関に向かって歩いてくる人の姿が曇りガラス越しに見えた。そしてその人影はためらうことなく、玄関を開けた。
「ただいま」
そう言ってこちらを見た顔は、笑顔だった。
だけど、私を見て、その笑顔は固まった。
「優さん」
私はぽつりとその名を呼んだ。
返事はなかった。




