その人の名前
その日、私は一人で新幹線に載っていた。
目的地は、昨日見た段ボールに書いてあった県。そこを目指していた。
昨日の夜はほとんど眠れなかった。電車の短調な揺れは、普段なら眠気を誘うくせに、今日は全く眠くならない。
気持ちを落ち着かせようと、窓の外を見て息を吐く。
新幹線を降りて電車とバスに乗って、ようやく目的地についた。バス停を降りて、辺りを見渡す。
今日、そこにその人がいるとは限らない。わからなければ道ゆく人に聞いてもいいし、最悪その人が留守でも、帰ってくるまで待ってもいい。
私はここに答えがあると思っていた。
確信があった。
私が昨日川村家で見たのは、優さんの高校の卒業アルバムだ。
確認したかったのは、優さんの当時の恋人。
坂村さんと話をして、優さんの最初の彼女の事を思い出した。
数回見かけた彼女の事は大人びた穏やかに笑う人、としか覚えていなかった。
あの時は名前も顔もしっかり覚えていたのに、忘れてしまった。
彼女がどこかに関わっていると思った。だから会って話したいと考えたけれど、名前も顔も思い出せない。名前がわからないと人にも聞けない。でも写真をみれば、絶対に思い出す。
卒業アルバムなら、名前と顔がすぐにわかる。
だから、優さんの卒業アルバムを見にいった。
坂村さんやエミに聞けば、彼女のことは教えてもらえるだろう。でも、エミには優さんを探すのは辞めると宣言した後だったし、坂村さんに至っては、明に連絡が入ることもあり得るから聞き辛い。名前を確認して他の友人から彼女の連絡先を教えてもらおうと思った。
ひとまず、名前と顔の確認をして、あの日はそれで終わるはずだった。
だけどもう一つ、大きな手がかりがあった。
昨日、川村家で見た段ボール。
その中にあった紙に書いてあった名前は「農業未来へつなぐ会」だった。
その名前を初めて聞いたのは、もっと前だった。今となっては、どうしてもっと早く調べなかったのかと後悔した。そうしていたら、もっと早く結論に辿り着いていたはずだ。
未来へつなぐ会のS N Sでは参加する農家を塾生としてたくさん紹介していた。
その中に私が知っている人がいた。
ついさっき、卒業アルバムで確認した名前と同じだった。
名前と共に載せられた写真には、大人びてはいたけれど、卒業アルバムの笑顔の面影があった。
つなぐ会の塾生紹介のページで、彼女が住んでいる県として書いてあったのは、あの段ボールと同じ県だった。
ここでその名前を見るとは思わなかった。
でも、それで全てが繋がった。
いなくなった優さん。
川村家にある段ボールと農業未来につなぐ会に関わる野菜。
その会に参加する優さんの元恋人。まだ好きなのに、後味悪く別れた最初の彼女。
彼女の住むところから送られる野菜。
きっと、そこに、優さんはいる。
彼女のすぐ近くに……おそらく彼女のところに、いる。
だから彼女に会いに行くことにした。
川村家の人は、既に優さんがどこにいるか知っているのだろう。あの段ボールが川村家にあるという事は、差出人が誰であれ、そこに優さんが関わっていて、川村の家がそれを受け入れているということになる。
わかっていて私にそれを伝えていないのは、思いやりだ。私が悲しむだろうから。
つまり私が絶対に悲しむ事実があるということだ。
それなのに、わざわざその場所に行くと言ったら止められるだろうし、絶対に明がついてくる。
それは避けたい。どうしても一人で来たかった。
優さんに会ったら、自分がどうなるか自信が持てない。
きっと泣いたり、怒ったり、醜い姿を見せてしまう。
それを誰にも見せたくなかった。
目的の場所について、私は辺りを見渡した。見える範囲にはずっと畑が続いている。人影はなくて、私はあまりの何もなさに不安を覚える。履き慣れない新しいスニーカーが、この場所には不釣り合いだった。うっかりしたらすぐに畑の中に足が取られそうで、私は足元を確認して歩いていく。
行くあてがないから、とりあえず道に沿って歩いて、電柱に書いてある住所を地図と照らし合わせる。自分の進む方向に自信が持てないから、人がいたら聞いてみようと思っていると、少し離れた畑に明るい黄色が見えた。
その黄色い服の人は道に沿って歩いている。どんどん私から離れていった。
思わず駆け出した。
私はその人に向かって走りながら、声を張り上げた。その人以外、周りに人がいないから、どうしても捕まえたくて、走って追いかけた。
「あの!すみません」
大きな声で呼びかけると、何回目かで立ち止まって、その人が振り返った。
黄色い服を着た人だった。
畑の中で体をかがめていたから、全身が見えなかった。立ち上がったその人は華奢な体つきの女性だった。その人はボブカットの髪を揺らせながら振り返って、私を見つめる。
風が吹いて、彼女の着ている黄色い上着が風で膨らんだ。体格よりもゆったり作られた服が膨らむ様は、まるで風船のようだった。
彼女の顔を見て、私は動きを止めた。自分の顔から笑顔が抜け落ちるのがわかった。
向こうは私の顔を見ても顔色ひとつ変えなかった。体を動かすことができない私と反対に、彼女は私の方へ歩いてきた。
私が誰かなんて、この人はわからなかったと思う。
わからなくて、当然だ。
昔、この人は私を見てもいなかった。まだ小さかった私を、親戚の子供くらいにしか思っていなかった。数年後にこうして会うなんて、思わなかっただろう。
その顔は私が昨日SNSで見た写真と同じだった。成長していても、その顔には昔の面影がある。
穏やかに微笑む人。
昔のあの人のそばにいた人。
その人の名前を私は知っている。
谷川仁美。
優さんの初めての彼女の名前だ。
「私、立花春奈と言います」
彼女の目の前に立って、私は自分の名前を告げた。それだけではわからないのだろう。訝しげな顔をする彼女に向かって、もう一度口を開く。
「川村優さんの事で来ました」
彼女は静かな表情は変えずに、でも少し目を見張って口を開いた。
「それは」
「え?」
私は慌てて顔を上げた。谷川さんは困ったような顔をした。
「学校の後輩としてきたの?それとも川村の家の人間として来たの?」
「どちらでもないです」
私は谷川さんに向き直った。
「私のことを、優さんから聞いていますか?」
谷川さんは表情ひとつ変えなかった。ただじっと私を見ていた。
私はそのまま口を開いた。
「私は優さんの婚約者です」
目の前の彼女を見る。自分を強く保とうと、ぎゅっと手を握りしめた。
「川村優の婚約者です」
息を整えた後で、もう一度口を開いた。
「優さんは、ここにいますよね?」
それは肯定されるのを確信した言葉だった。
きっと、優さんはここにいる。
谷川さんの近くにいる。
疑念だったけれど、会ったらそれは確信となった。
谷川さんの返事を私はじっと待つ。
彼女の目をじっと見つめた。目を逸らしたら負けると思ったから、その目を見つめ続けた。
長く感じる時間が過ぎて、谷川さんは静かに笑った。
綺麗な笑顔だけど、それを見たら背筋が凍るような気になった。
何か重いものを隠し持った人の笑顔だと思う。
こんな風に笑う人を、みたことがなかった。
笑った後で、彼女は口を開いた。
「いるわ」
谷川さんはもう一度しっかりと笑った。笑って私を見た。
「優はここにいるわ」




