婚約者 立花春奈
優さんとは小さい子供の頃からずっと一緒だった。
優さんと私と明と3人で兄弟のように育った。
初めに優さんに抱いたのは憧れで、それがいつの間にか恋へと変わった。
優さんが私に愛情を感じたのは、果たしていつだったのだろう。
私と優さんが付き合う様になって、変わったこと。
名前で呼ばれる様になった。彼の車の助手席は、私の指定席になった。会いたいとねだることが、以前より気軽になって、そして簡単に口にしてもいい立場になった。
その全てが私を浮かれさせたから、大切なことは全て見逃してしまっていた。
私たちの付き合いは、とても礼儀正しいものだった。泊まりがけの外出はしない。出かけても親が心配するような遅い時間になる前に、ちゃんと家に送り届けてくれる。
川村の家で会ったり食事する機会が多いのは、向こうの親も私に会いたがるからだ。
彼と付き合えることも、結婚することも私はとても嬉しかったから、私は満足だった。
だけど、一つだけ不満があった。
私たちの間に恋人らしいことがなかったのだ。
手を繋いだこともない。旅行に行ったりして、長い時間を二人きりで過ごした事もない。恋人ならしているような事は、ほとんどしていない。
性交渉も含めて。
別にそれでもいいと思っていた。
私はそういう行為をしたことがない。だからそちら方面に積極的ではない。
していないことも悪くはないと思う。片方、もしくは両方が『初めて』を大切にしたいと思っていて、お互いが納得しているならいいと思う。
だけど、今の時代には珍しい事かもしれない。むしろそこも相手を選ぶ大事な要素になっているとも聞く。
でも、私は優さんが好きで、ただ近くに居られればよかったから、そこには拘っていなかった。
だけど、ふとした時に、抱きしめあったり、手を繋いだり、体に触れたいと思うことはあって、その延長にそういう行為があるのなら、それでもいいと思っていた。
その奥にあるのは、ただ純粋に優さんが好きって気持ちだけだった。
だけどいつの間にか、それをとても不安に思うようになってしまった。
その理由は私たちの関係が恋人というより、兄と妹から変わっていない気がしたからだ。
いつも少し離れた距離のまま、私へ伸びてくる手はいつも、頭の上で止まる。まだ付き合う前の私たちと、距離感は全く変わっていない。
今はもう、抱きしめても誰も文句は言わないのに。
それをどれだけ、もどかしく感じただろう。
それに私が抱く好きでたまらなくて、思わず手を握りたくて、少しでも近くにいたいという強い感情が、彼からは感じられなかった。
だから不安だったのだ。
ちゃんと愛してもらっているのか。大切に思ってくれているのか。
好きなのは私だけで、彼はそうではないかもしれないと、不安だった。
友人の黒木エミが一度言っていたことがある。
「抱きしめたり、キスをすると、自分がその人にどれだけ愛されてるのかわかる」
それを聞いて私は顔を顰めた。
「そうかな?」
エミは力強く頷いた。
「そういうことをして、もっと相手を好きになるし、お互いをより大切に思う様になるよ」
話題が話題だから、私はあまり話せなかった。だけどエミは気にせず続けた。
「抱きしめられた時の感覚で、ああ、この人だってわかるの」
そう、力説した。私が曖昧な返事をすると、私の目を見た。
「反対に、相性が合わないって言うか、抱きしめられて違うなって思う事もある。こんなこと言い難いけど、やっぱり事前に確かめた方がいいと思うな」
それが頭に残っていた。
その言葉に振り回されているわけではない。
だけど、もし、私たちが体を繋げたら、言葉にはできない愛情が伝わって、ようやく私たちも恋人になれるような気がした。
今の関係から変われる。きっと私たちはうまくやっていける。そう思った。
でも、そう思った1番の理由は、私は優さんが好きだから、抱きしめたり、抱きしめられたりしたいと思っていただけかもしれない。
不満に思ってしまうのには、優さんにも責任がある。
優さんだって、私にそういった事をする気持ちがないわけではないと思うのだ。
なぜなら、一度だけ、私たちはキスをしたことがあるのだ。
それは私と優さんが結婚して同居することが決まった、少しあとの事だった。
結婚のお祝いを明がしてくれて、高級ホテルの予約の取れないことで有名なレストランをしかも個室で予約してくれた。
明がそんなことをするなんて思わなくて驚いた。だって結婚が決まってから何回も顔を合わせていたのに、一度もおめでとうと言ってくれなかったのだから。
驚いていたら
「俺だって流石に兄さんと春奈の結婚はちゃんと祝おうと思っているよ」
そう、怒った顔で返された。
だけど、それは本心だったらしく、食事の他にお酒もいいものをたくさん頼んでくれた。
「これ、美味しいシャンパンだよ」
そう言って乾杯にはシャンパンを出してくれた。
私も浮かれていたから、自分がお酒は強くないのはわかっていても、シャンパンを飲んでしまった。それがとても美味しかったから、ついグラスを空けてしまった。
その後も明がとても高いワインを出してくれた。優さんがワインを好きなのかもしれない。二人ともお酒が強いから、何本か開けていたと思う。
「このお料理にはこれが会いますよ」
ソムリエが私にも勧めてくるから、私もついつい飲んでしまった。少しずつだから大丈夫と思っていたのに、私はすぐに潰れてしまった。同居する準備で毎晩夜遅くまで調べ物をしていたのが響いたかもしれない。
食事が終わってデザートを食べる前に眠ってしまったのだ。
後で聞いた話だと、二人は眠った私を家に連れ帰ろうとしたけれど、運悪く仕事でトラブルがあって二人ともすぐに会社に戻らないといけなくなってしまったらしい。
だけど私は眠ったままで起きそうにもない。
そこで慌ててそのホテルに部屋をとって、私を泊めてくれた。
そのあれこれは全部うろ覚え、いや、ほとんど眠っていてわかっていない。酔っ払って何もできない私の代わりに、忙しいはずの二人がやってくれた。
思い出しても恥ずかしい。
翌日には私は仕事の邪魔をしたと反省した。反省、なんてものではすまない。
あれ以来、私はお酒には気をつけよう、飲むなら1杯までと決めたのだ。
だけどその夜の事で、一つだけよく覚えていることがある。
優さんは眠った私を抱えて、ホテルの部屋まで届けてくれた。
もちろん寝ていたけれど、横抱きにしてもらって運ばれている感覚は覚えている。ふわふわと揺れる感覚と、安心感。抱きしめてくれる腕が大切に私を扱う。部屋に入って、優さんは私をそっとベッドに降ろした。
寝ていると思ったのだろう、私を横たえるとそのまま体の向きを変えてドアへと向かおうとした。自分から優さんが離れていく気配がして、私は寝ぼけながらも手を伸ばしてその人の袖を掴んだ。
「優さん?」
薄く目を開けようとした時、その人が振り返った。
だけどその姿は見えなかった。
振り返った優さんは手を伸ばして、私の額に被せて私の視界を塞いだ。
何?
驚いてそう聞こうとした時、私の唇は柔らかい唇で塞がれた。
え?
重なっただけの唇はすぐに深いキスに変わった。そのキスがとても気持ちよくて、だから、私も夢中でそのキスに応えた。開こうとした目は、また閉じられて、そのキスに溺れた。
とても心地よくて、もう、ずっとこうしていたいと思った。
だけど最後に強めに私の下唇を噛んでから、その唇は離れた。
私の目を塞いだままで、優さんがどんな顔をしているか、わからなかった。眠くて目を開けられなかったのもある。
「おやすみ……」
耳元でそんな声がした。
起きなきゃいけない、そう思うのに体はベッドに沈んだままで、そして目を閉じたままの私はそのまま眠ってしまった。
唇に甘い痛みを残したまま。
翌日起きたら、もう昼の時間で休日だったことを心底感謝した。急いで優さんに電話したら、もう外で仕事をしているのか後ろから車の行き交う音がした。眠ったことを謝ると
「ごめん、あんなにお酒が弱いと思わなかった。これから気をつけるよ」
そう、いつもの明るい声がした。じゃあ、と電話を切ろうとする声を急いで止めた。
「何?」
「ええと、あの」
昨日のキスのことだけど……。
そう言おうとして、やめた。
恋人なのに、ありがとうとか言うのもおかしいなと思ったからだ。
「なんでもない」
そう言って電話を切った。電話を切ったら、思わず顔が緩んでしまった。
電話を切った後で、指をそっと自分の唇に添えた。
昨日の甘い痛みがまだ残っている様な気がした。
それを恥ずかしいと思いながら、顔がほころんだ。
嬉しかったのだ。
初めて、優さんの気持ちを確かめることができたと思った。
あんなに気持ちのこもったキスをしてくれるのに、私への気持ちがないなんてことはない。
経験のない私でもそう感じるくらい、情熱的なものだった。
だからきっと、優さんは私を思ってくれているって。
私を愛してくれているって。
そう、確信したのだ。
でもそれから、恋人らしいことなんて、何もなかった。
キスも、一度もなかった。その先なんてもっと、なかった。
それが私は不満だった。
一度してくれたら、もう一度してほしいと思うのは欲張りなのだろうか?
私はいつからこんなに欲張りになってしまったのだろう。
私はとても、焦っていた。
もうすぐ夫婦になるのに。このままで私達は夫婦になれるのだろうかって。
こんな状態で、ちゃんと妻になれるのかって。
あんなに情熱的なキスができるのに、どうしてあれから何もしてくれないのか。
私に悪いところがあって、今はもうキスができない気持ちになってしまったのかもしれない。
考えれば考えるほど、泥沼に足を取られる様だった。
ちょっと思い詰めていたと思う。
彼の仕事はどんどん忙しくなって休日もほとんど会うこともできなくて、話す時間もなくて、あえないから、不安がどんどん大きくなっていた。
だから、あんなことになってしまった。
私は堪えきれずにその思いを、優さんにぶつけてしまったのだ。
彼がいなくなる前の日だった。
二人で外に食事に行って、帰る時だった。
レストランの個室で食事していて、帰る前に部屋の中のドレッサーにかけていた上着をとって優さんに渡した。
優さんがジャケットを羽織る。背中側の襟が立っていたから、後ろに回ってそれを直した。
「ありがとう」
優さんは顔だけ振り返って笑った。
それを見たら堪らなくなって、私は思わずその背中に抱きついた。
「春奈?」
驚いた声の優さんの体に回した腕に、力を込めた。
「帰りたくない」
「どうしたの?そんなわがまま言って」
そう言って私の手を振り払おうとするから、私は首を振った。
「今夜は一緒にいたい」
額を彼の背中につけた。恥ずかしくて、彼の顔を見る事ができなかった。
「帰らなくても、いいでしょう?」
「また、そんな」
しばらくして聞こえたのは、わざと明るく振る舞っている声だった。
「そんなこと、おじさんたちに怒られるよ」
「怒られてもいい」
「ダメだよ……まだ結婚前だし」
「今はそんなこと気にする人いないよ。私だって…優さんならいい」
言いながらとても恥ずかしい。だけど私はキッパリと言った。
「優さんなら、良い」
優さんはそれにグッと詰まったような声を出した。
「私、優さんの恋人だし。もうすぐ結婚するし」
「結婚してからにしよう」
煮え切らない彼の返事に、私は思わず大きな声を出した。
「じゃあ、キスして」
捕まえている彼の体が、それに大きく反応した。あからさまに困った声がした。
「いや、今日はやめよう」
「どうして?」
「どうしてって」
その時の私はちょっとおかしかった。
優さんが答えから逃げているのがわかって、これを逃したら、きっと一緒に住む時まで逃げられる。一緒に住んでからも今と同じになってしまうかもしれない。
これ以上は耐えられない。私はもう限界だった。
これだけは引けないと思って、だからとても、とても意地になっていた。
こんなに恥ずかしいことを恋人に言わせる優さんに、苛立ちもあった。
この間あんなキスをしたくせに、今日はできないなんて納得できない気持ちもあった。
それを全部解消するには、ただ、抱きしめて、キスしてくれればそれでいい。
逆に言えば、それだけしてくれたら、私はこの先も頑張っていられる。
ただ、それだけでよかったのだ。
優さんは首をふった。
「ごめん、今日はそんな気分になれない」
「じゃあ、いつならいいの?」
「……わからないよ」
私は苛立って大きな声を出した。
「この間はしてくれたじゃない」
彼の言葉に被せるように私は言ってしまった。
「この間キスしてくれて、とても嬉しかったのに」
私は俯いて首を振った。
「どうして今日はしてくれないの?」
返事はなかった。
しばらくして顔を上げると、優さんは黙って前を見ていた。
その顔を見たら、何も言えなくなってしまった。
優さんは静かに私を振り返った。信じられないものを見るような顔だった。
だから私は急に、冷静になった。
自分が言いすぎたことにも、意地になっていたことも理解した。とても恥ずかしいことをしている事も。冷静になったら、逃げ出したいくらい恥ずかしい。
「あ……」
何か言おうと口を開いた時、優さんは私の肩に手を置いて、首を振った。
「今日は、辞めておこうか」
私は黙って頷いた。
見上げた優さんの顔は驚くほど空虚だった。
感情がなかった。
浜田さんが言っていた顔は、あの顔だと思う。
全てを拒絶するような顔だった。
あの時、あの人は私を拒絶したと思う。
それが、優さんがいなくなる前の日のことだった。
いなくなる前の日の優さんの様子を聞かれて、私はいつも通りだったと答えた。
誰に聞かれても、そう答えた。
いつもと同じで、私たちの間には何もなかったって。
だけど『いつも通り』ではなかった。
私たちの間には決定的なことがあったのだ。
彼がいなくなった理由に、私は心当たりがあった。
私の行動が、決め手になったと思う。
あの人を追い詰めたのは、私だ。
そしてあの人は、そんな私を拒絶したのだ。
だから、いなくなってしまったのだ。
彼を追い詰めたのは、私なのだ。




