家政婦 水野
日曜日の午前に川村家の門のインターフォンを押すと、聴き慣れた声が聞こえた。そして門の先の玄関に立っている人を見て、私は思わず笑顔になった。
「水野さん」
「お久しぶりです。春奈様」
水野さんは昔からいる川村家の家政婦さんだ。夫婦で川村の家に勤めている。子供の頃から私たちを知っている人だ。
家に入ると早速応接室に通そうとした水野さんに向かって、私は首を振った。
「おじさまたちはいないんでしょう?だから台所でいいよ」
「まあ、そうですか」
苦笑いしながら水野さんは私を台所に連れて行く。
「明おぼっちゃまから、少し待っていてくださいとのことです」
「仕事忙しそうにしてる?」
「そうですね、昨日帰ってこられたのは、日付が変わっていたみたいで。今準備されています」
「そう……」
私は思わず視線を下げた。
「疲れているなら無理しなくて良いのに」
ぽつりとそんな言葉が口から出た。
今日は明と出かける予定だ。だけど、遊びに行くわけではなくて、例のもらったリストに書いてあった人に会いに行くのだ。
明は乗り気ではなかった。
「兄さんの事は俺のせいってわかったのだから、もう良いだろう」
自分が仕事で追い詰めたのが原因だから、会いに行く必要はないと言うことだ。
正直に言えば、リストにあった人もおかしな人はいなかった。全部仕事関係だと思う。
だけど、やっぱり納得がいかなかった。
明と仕事が原因なら、家族で話し合えば済む。急にいなくなる理由にはならない気がした。
まだ他に理由がある。
明は意味がないと言っていた。
でも私は探したかった。
ゴルフスクールに行っていたはずの時間。それが嘘であったように、出張も架空のものだった可能性がある。
一度明にそれを確認したけれど、はぐらかされた。
だからきっと、出張も嘘だったのだろう。
まだたくさんわからないことがある。それを知りたかった。
だから辞める訳にはいかない。
それから一人で勝手にゴルフスクールに行ったことは当然のように怒られた。そのせいで、これから人に会いに行くときは絶対に明と一緒に行くことを約束させられてしまった。
私の方が年上なのに、理不尽だ。
だけど明はとても忙しいから、予定を合わせるのは時間がかかった。
今は優さんがいなくなって、もうすぐ三ヶ月になろうとしていた。
「いいんですよ。春奈様」
水野さんは笑った。
「おぼっちゃまは春奈様とのお出かけをとても楽しみにしてますから。多少疲れていても絶対に行きますから安心してください」
待っている間にどうぞ、そう言ってマドレーヌを出してくれた。
水野さんは料理上手だ。作るものは食事でもお菓子でもなんでも美味しい。子供の頃から川村家に遊びに来るといつも水野さんの作ったお菓子を食べていた。子供部屋で遊ぶのも好きだったけれど、こうして台所で水野さんが料理しているのを見るのも好きで私はよく台所に入り浸っていた。
「久しぶりだな、水野さんのマドレーヌ」
遠慮なくマドレーヌに手を伸ばすと、笑ってお茶を出してくれた。
「あ、懐かしい味だ。やっぱり美味しいな」
「またこうして顔を出してください。旦那様も奥様も会いたがっていましたよ」
「ああ、そうね」
私はお茶を濁した。
優さんがいなくなった時の優さんの母親、明子さんの嘆き様はすごかった。
驚き、悲しみ、落胆。それから申し訳ないと謝られたけれど、どこかに私への戸惑いもある気がした。気のせいかもしれない。だけど、私への印象は良くないと思う。
明子さんも心のどこかで私のせいで優さんがいなくなったと思っている様な気がして、怖い。気にしすぎているのかも知れないけど……気になってしまう。
あれから何回か川村の家にお邪魔しているが、家族の誰かと話して短時間で帰っていた。今までのように川村家の人たち全員と食事をしたり長時間一緒に過ごすのは、ちょっとまだ厳しい。
「今日は優おぼっちゃまのことでお出かけですか?」
心配そうに水野さんが尋ねてきて、私は笑って頷いた。
「そうなの。私がどうしても気になって勝手にやっているの。明は付き合ってくれているけど……忙しいからいいのに」
過保護なのよ、そうぼやいた私に、水野さんは笑顔になった。
「明おぼっちゃまは昔から春奈さまと一緒に何かするのが好きでしたね」
「そうだっけ?」
「そうですよ。いつも春奈さんの後ろをついて歩いてましたし、お勉強も習い事も同じことをやりたいって言っていましたよね」
言われてみればそんな気もする。だけど、すぐになんでも明の方が上手くなってしまった。子供の時も私と同じ本を読んだり、勉強をしていたから、自然と成績も良かった。
結局私たち3人はみんな同じ様なことをしていたけれど、最終的にどれも一番上手にこなすのは明だった。
「でも今はなんだか明の方が年上みたい」
そう言ったら水野さんは笑った。
「しっかりされていますからね」
「可愛げがない気もするけど」
「でも、優おぼっちゃまがいなくなって、家の中もどうなるかと思いましたけど、明おぼっちゃまが色々と配慮してくださって、上手く行っています」
「そう、なんだ」
水野さんは冷蔵庫からいろんな材料を出しながら、嬉しそうに笑う。
「会社でも立派に勤めている話を聞きます。旦那様も頼りにされてますし、本当に素晴らしいですね」
こんなこと他でも聞いたな、と思って、会社で聞いたのだとすぐに思い出す。
家でも会社と同じだ。
優秀な弟。兄の抜けた穴を十分すぎるほど埋めてしまう、弟。
やりきれない気持ちが浮かぶ。
私と話しながら、水野さんは床に置いてある段ボールからレタスを出して洗っていく。食事の準備かな、と思う。大きなレタスを一枚一枚綺麗に洗う。緑が鮮やかでみずみずしくて美味しそうだった。だからつい私は水野さんに声をかけた。
「レタス、サラダにするの?」
「え?」
何気ない一言に、水野さんは驚いて大きな声を出す。
その拍子にレタスが手から零れて床に落ちた。
そしてころりと床で転がる。
「あ、ごめんなさい。急に話しかけたから」
水野さんの声が大きかったから、驚かせすぎてしまったことに焦って、立ち上がってレタスを拾うと、水野さんも謝ってきた。
「申し訳ありません。私もぼーっとしてしまって」
歳ですかね、そう言って苦笑いした。
そうしてレタスを受け取って、流しに向き直った。
水野さんの足元にはレタスの詰まった段ボールが置いてある。結構な量だった。これだけの量を使うのは大変だ。私はサラダくらいしか作れないけど、料理上手な水野さんならいろんな料理にできるだろうなと思った。
「たくさんレタスがあるのね」
静かに声をかけると水野さんは苦笑いした。
「そうです、頂き物で」
食品会社だからたくさん取引があるのだろう。東京から少し離れた関東の県の名前が書かれた段ボールをぼんやりと眺めた。
水野さんが振り返って私を見た。
「流石に明ぼっちゃまに声をかけてきましょうか。お待たせしすぎですね」
「悪いからいいよ。庭を見てる」
私は立ち上がった。そして、水野さんと目があった。
「今度、水野さんの食事をゆっくり食べにくるね」
私がそう言うと、水野さんは笑った。
「たくさん美味しいものを作ってお待ちしてますね」
流しに置いた大きなボウルの中に、レタスが浮かんでいた。




