弟 川村明
明はグラスを空けると、財布からお札を一枚出して乱暴にカウンターに置いた。そして私の腕を掴むと店からでた。
店を出ても私の腕を掴んだまま、無言で歩いていく。その後ろ姿からは怒りが伝わって、なんだか怖くなる。
「明」
信号待ちで声をかけても、返事はない。
困って彼の手から腕を引こうとしたら、それより先に握られた手に力がこもった。
「明、怒ってる?」
返事はない。
「ごめん」
謝ると隣でため息が聞こえた。
よくわからないけど、私の何かが彼を怒らせたらしい。どうしていいかわからなくて、私はため息をついた。
「一人で何してるんだよ」
「え?」
「酒を飲めないのに、あんなところに一人で行って、しかもあんな強い酒を飲もうとして」
腕を掴んでいた手が離れる。そしてそのまま下に降りて、私の手を握った。離れようとするのを拒否するような強い力だった。
「ごめん」
もう一度謝ると明がこっちを向いた。だけど、黙ったまま信号が青になると、繋いだ手を引いて歩き出した。
今度は歩くペースがずっとゆっくりになった。私は明の顔を見上げる。
「どうしてあそこにきたの?」
その質問に明は呆れた顔をした。
「昼間宮野さんに話を聞いただろう?もしかしたら春奈が一人で行くかもって心配して、俺に連絡してきた」
そう言って立ち止まった。
「兄さんのこと、調べてるの?」
明がじっと私を見る。
「調べるって言うほどでもないの。優さんの事を知っている人に話を聞いているだけ」
私は息を吐いた。
「いなくなった理由を知りたくて。もしかして私に悪いところがあったかもしれないって」
「春奈に悪いところなんてないよ」
被せるように明が口を出す。私は苦笑いした。
「それは明の意見でしょう?優さんの意見じゃない。実は私に不満を感じてたのかも」
「この間のピアスのことを気にしてるのか?」
私は明から視線を逸らせた。
この間のピアスのことは気になっている。
だけど、それだけじゃない。きっと同じような事がたくさんあるはずだ。私が気づかないだけで。
「それもあるけど」
「けど?」
「優さんのことを知りたいの。私の知っている優さんと人から聞く優さんは違う人みたいだった。だから本当の優さんを知りたい」
私は俯いた。
「本当の優さんを知ったら、いなくなった理由もわかる気がする」
「知ってどうする?分かっても春奈のところには戻らないかもしれない」
顔を上げると、明は静かに私をみた。
「わかってるよ」
私はため息をついた。
「優さん、悩んでいたみたい」
「え?」
明は驚いた顔をした。私は苦笑いした。
「大学の時に優さんと付き合ってた浜田さんに会って聞いたの。優さんが悩んでいたと言ってた。……もしかしたら私との結婚で悩んでいたのかもしれない」
「春奈が原因と決まったわけじゃないだろう」
「私だよ」
結婚間近に失踪するなんて、もう絶対に修復不可能だ。本人もそれは分かっているはずだ。
でも、やったのだ。
私と結婚するのが、嫌だったとしか考えられない。
他の原因であれば、失踪しなくて良いと思う。
私との結婚は、親の期待も背負っていた。今更止めることは難しかっただろう。結婚を止めるには、逃げるしかなかった。
だから真実を知っても、私は幸せになれない。
きっと傷つく。
それでも、知りたいのだ。
明は何も言わなかった。私も俯いたまま黙っていた。
しばらくしてため息が聞こえた。顔を上げると、明が苦い顔をしていた。
「春奈のせいじゃない」
それを聞いて私は思わず笑ってしまった。
「ありがとう……気を使わせて、ごめん」
慰めに、お礼を言う。だけど明は首を大きく横に振った。
「兄さんが悩んでいた理由、俺は知ってるよ」
「え?」
私は驚いて明を見た。明は私から視線を逸らせて、息を吐いた。
「兄さん、仕事で大きなミスをした。それが原因で、それ以外、理由なんてない」
キッパリと言って私を見た。
「ミスって、何?いつの事?」
明はとても嫌な顔をした。あまり話したくないのか、珍しくためらっている。
「言えない話なの?」
明は大きくため息をついた。
「1年…それより少しくらい前かな」
少し驚いた。私と付き合いだしたのも、その頃だった。
私と付き合った後なのか、それとも前なのかとても気になった。大事なことのような気がした。
「春奈と付き合う前だよ。だから春奈は関係ない」
私の気持ちがわかっているかのように、明が先回りする。
「兄さんのミスに春奈は関係ない」
「うん……」
私は頷いた。また明のため息が聞こえた。
「俺が川村に入る少し前だった。親父は兄さんに大きな予算を与えて好きなように企画を考えろと言った。この先社長にするための実績作りだ。だけど、……うまくいかなかった」
優さんが出した企画は、特定の病気で治療している人に、食事指導を組み込んだ健康教室やヨガ健康教室の紹介と食品の配達などを行うものだった。最近健康志向が高まっているし、確かに悪くないと思う。
だけど、その領域の専門ではない私でも、他社でもありそうな企画だと思った。特別目新しく感じない。
明は私と目があって苦笑いする。
「春奈もイマイチだと思うだろう?やっぱりうまくいかなかった。兄貴には悪いけど、悪くはないけど、他社で同じようなものがすでに存在したし、その割に他と比べて展開がいまいちだった。親父も同じ意見だったみたいで、その企画はなしになった」
「それで、どうしたの?」
明は苦い顔のまま少しだけ笑った。
「親父は困っていた。……でもそれ以上に兄貴はかなり落ち込んでた」
それは簡単に想像がついた。
明は肩をすくめた。
「そのまま企画倒れになってたけど、俺が会社に入って、それをアレンジしてやり直した。今は社内診療所と連携して、グループ内の健康プロジェクトとして動かしてる。だけど社内でしか機能しないから、お金になる企画じゃない。兄さんの企画を潰さないようにするので精一杯だな。それ以上は難しい」
「そうなんだ」
確かにあまりいい話ではない。
「俺が川村に入ってから、親父は俺と兄貴に競わせるように企画を出させたり、大きな仕事をやらせた」
「どうしてそんな」
「俺にも兄貴にも実績を積ませる為だよ」
それでも理解しきれない私に明は苦笑いした。
「親父は兄貴を社長に、俺を重役にしようと思っていた。だから兄貴は周りに社長として認めさせる実績を作る必要があった。俺は途中入社だから、兄貴よりも、もっと結果を出す必要があった」
続けられた明の話では、川村の会社は代々家族経営だけど、おじ様の代からは才能のある人をどんどん抜擢してきたという。実力主義を導入した結果、会社の事業は拡大した。
その分、重役達は仕事に厳しい。いくら社長の家族とはいえ、実績も実力もないのに社長にはできない。重役が黙っていないからだ。
二人を思えばこそ、おじ様は二人に課題を出した。
しっかり課題をこなして、目指す地位を自分で掴んで欲しいと思っていたのだと。
「だから俺たちはたくさん企画もしたし、任された大きな仕事もやった。数も多いし、内容も濃いから、俺も余裕がなくなるくらい大変だったよ。でもなんとかうまくこなしていると思う」
明は息を吐いた。それはみんなの話から納得できた。でもそこで明は顔を苦いものにした。
「だけど」
「けど?」
「兄さんの企画はいいものはなかった。残念だけど」
「そう……」
「それが影響したかも知れない。その後もあまり良い形で仕事をできていない感じだった。そのうちに親父も兄貴には仕事を任せなくなった」
私は俯いた。明はそんな私をチラリと見て、それからまたため息をついた。
言わなくてもわかる。
その意味は優さんも分かったはずだ。
「悩む原因は、俺だ。後から入った俺の評価が上がることに、焦ったのだろう。追い抜かされて社長になれないと思ったんだ。だから、春奈のせいじゃない」
「そんな」
そんなことない、そう言おうとしたら、明は被せるように続けた。
「弟に自分のボツ企画の尻拭いをしてもらって、俺の仕事がうまく行って、自分の仕事は躓いてたら、笑っていられないよ。兄としてのプライドはなくなるだろ?」
その時私は昼間みた会社での光景を思い出した。
みんなが明を頼りにしていた。
優さんがいなくなって困っていると言いながら、その後でみんな同じ事を言っていた。
『明がいるから、大丈夫』『明は頼りになる』
もしかしたら、会社での優さんの立場はとても弱くなっていたのではないだろうか。
次期社長とのはずなのに、いつの間にか弟に追われて焦ったかも知れない。焦るだけでなくて、プライドも、もしかしたら気持ちも壊れたかも知れない。
繋がれていた手に力が入った。明を見ると、苦しそうに顔を歪めていた。
「兄貴は今までと同じ様にしていたけど、穏やかではいられなかったはずだ」
そして息を吐いた。
「少なくとも、弟には負けたくなかったと思う」
明は表情を隠すように俯いた。
その顔は昼間みたおじさまの顔によく似ていた。
そして優さんにも。
優さんと明は兄弟だけど、似ていない。だけど今みたいに顔を俯かせると、兄弟だと頷けるほど似ている。
明の苦い顔に優さんの顔が重なった。
「兄さんが悩んでいたのは仕事だ。そんな風に兄さんを追い詰めたのは、俺だよ」
明は顔をあげて私を見た。暗い瞳だった。
感情が感じられなくて、その目を何故だか怖いと思ってしまった。
「春奈は悪くない。悪いのは、俺だ」




