バーの店員
私がそのバーの前についたのは、まだ夜の早い時間だった。
遅い時間は常連が多そうだから入りづらいし、女性一人なんて目立つだろう。
私は精一杯慣れたふりをしてその店に入った。
そのお店は静かで、家具は重厚なもので揃えられていた。高級なバーなのだと思う。
店内は暗い照明で、私は誰もいないカウンターに座った。
「何にされますか?」
マスターにそう聞かれて、戸惑う。あらかじめ考えておくべきだった。
私はお酒が弱い。
飲みすぎるとすぐに眠ってしまう。それで一度痛い目に遭ってからは、お酒に気をつけようと決心した。
お酒も詳しくないし、こんなバーで何を頼んでいいのかわからない。
黙っている私に、マスターが優しく笑いかけた。
「フルーツを使ったカクテルもありますよ」
視線があうと、わかっていますよ、と言うように笑いかけられた。
「それでお願いします」
「ノンアルコールにもできますが」
「……では、それで」
私が答えると、マスターは大きく頷いた。
出されたのはメロンを使ったカクテルで、甘くておいしかった。
マスターの後ろの棚にはお酒の瓶がたくさん並べてある。どれも知らないお酒ばかりだ。
それを見ていてふと、優さんはいつも何を飲んでいたんだろう、と思った。
私は彼がどんなお酒を好きなのかも、知らなかった。
ワインなのか日本酒なのか、ウイスキーなのかビールなのか。
そういえば、一緒にお酒を飲むようなことも、家族の集まりを除けばどのくらいあったのだろう。頭の中で数えようとして、すぐに答えが浮かばない。それぐらい少ない。
お酒だけじゃない。
私は優さんの好きなものをどのくらいわかっているのだろう。
ここに来ている事だって、知らなかった。そんなにお酒を飲みたがっていたことも。
お酒を飲む理由はたくさんある。
楽しい時も、嬉しい時もあるだろう。
反対に悲しい時や、辛い時、忘れたいような何かがある時もあるだろう。
優さんのお酒は、どんなお酒だったのだろう。
どんな気持ちで、お酒を飲んでいたのだろう。
「今日はお待ち合わせですか?」
ぼんやりしていたら、目の前のマスターから声をかけられて、驚いて顔を上げる。
「あ。いえ違うんです」
「お一人で?」
その言葉の中には、お酒も飲まないのにどうして?という素直な気持ちが込められていた。お酒を飲めない女性が一人で来るなら、あとは待ち合わせくらいしかない。
私は苦笑いした。
「実は知り合いが、よくこのお店に来ていたと聞いて」
「そうですか。ご紹介いただいたようでありがとうございます」
マスターは背中の棚を見つめた。
「ご紹介くださった方はよく顔を出してくださったんですか?」
それを聞いて私はバッグからスマホを取り出した。
携帯を操作して優さんの写真を出す。会社のホームページに載せているものだ。実は悲しいことに、優さんの写真はこれくらいしかなかった。家族会で撮ることもあったけれど、二人で撮るようなことはなく、顔のわかるような物がなかった。
マスターはそれを見て目を細めた。
「実は私の知り合いで」
わざと恋人とは言わなかった。もし女性と会っていたら、きっと話を誤魔化されてしまうと思ったから。
例えそれが辛いものでも、真実を知りたかった。
私はマスターの表情を見ながら話し続けた。
「この間……急にいなくなってしまったんです。それで知り合いと一緒に彼を探していて。よくこのお店に来ていたと聞いたので、何か手がかりがないかと思って」
私はため息をついた。
「そうですか」
「ここにはよく来ていました?あとここで待ち合わせとか、していませんでしたか?」
「待ち合わせ、ですか?」
私は頷いた。
「ここで誰かと会っていたりとか、待ち合わせとか……何かわかることがあれば知りたいんです」
話しているうちに力が入ってしまって私は慌てて口をつぐんだ。私の態度を見たら、知り合い以上の人だとわかってしまう。
マスターは苦い顔をした。
「お客様にとって大切なご友人だったんですね」
それに返事はできなかった。
『大切』なんて言葉では終わらないくらい、大切だった。
俯いた私に、マスターの声がかかる。
「大変申し訳ないのですが、個人情報の事がありますので、お客様のことはお話しできません」
「そうですよね」
わかっている。だけど、もし、何かあれば教えて欲しかった。
少しでも、優さんに繋がる何かがあれば、知りたいのだ。
「これは、私の独り言ですけれど」
顔を上げると、マスターが店内を見渡していた。ぐるりと店内を見回して、最後に小さく微笑む。
「お写真の方はよく当店にいらしていましたけれど、いつもお一人でした」
私は言葉を飲む。マスターは私にだけわかるように微笑むと視線を店内に戻した。
「どなたかとお待ち合わせをしていたり、ここで一緒にお酒を召し上がることもありませんでした。いつもお一人で淡々と飲まれていましたよ」
「どのくらいの回数ですか?」
マスターは苦笑いした。
「そうですね。最近は2週に一度くらいでしょうか。いつも2、3杯飲まれて帰っていかれます。お酒は強かったのでしょうね、いつも静かに飲まれて泥酔するようなこともありませんでした」
それを聞いて安心する。
宮野さんから聞いていた回数とほとんど同じだった。
「何かに悩んでいたんですかね?」
「え?」
私の言葉に、マスターは驚いたように顔を上げた。私はマスターを見て苦笑いする。
「だって、楽しい時は誰かと一緒に飲みませんか?一人でお酒を飲むなら、何か辛いことがあったのかなって。考えすぎですかね?」
誰にも言わずに、誰も誘わずに一人で飲むお酒は、悩みを忘れるために飲んでいたものではないだろうか。
そんな気がしたのだ。
「お酒を飲む理由は人それぞれですので、私には心の中まではわかりませんが」
マスターは店内を見回す。
「仕事が多忙だと、お話の合間に伺ったことがあります。お仕事で疲れたり、悩まれることもあったと思いますよ。それが責任ある立場であれば当然だと思います」
「そう、ですよね」
私は目の前のグラスを見つめる。なんだかとても悲しかった。
「ですが」
顔を上げると小さく笑ったマスターと目があった。
「その姿を他人に見せるかというと、大抵の男性は人にはそんな姿を見せたくないと思いますよ。……特にそれが大切な人であれば」
はっと気付かされた気がした。その言葉を理解して、思わず涙が浮かんで、慌てて飲み込む。
その場を取り繕うような言葉だと、すぐにわかる。だけど、それでも落ち込んだ私の気持ちを少しだけ、救ってくれた。悪いことばかり考えてしまう気持ちに、ストップをかけてくれた。
私はマスターに向き直った。マスターは私を見て小さく笑った。
「……ありがとうございます」
頭を下げると、マスターが苦笑いした。
「独り言が長くなってしまったようで、すみません」
「いえ、なんだか気持ちが晴れました」
私は棚に並ぶお酒を見渡した。
「あの人は、いつも何を飲んでいたんですか?」
マスターは棚からいくつかの瓶を取り出して並べる。聞いても知らないお酒ばかりだった。
「これ、強いんですか?」
素直に尋ねると、マスターは笑った。
「そうですね。強いしお値段も高いです。ですが、これをロックで飲まれていましたね」
その豪華な装飾の瓶を見つめて、私は顔を上げてマスターを見た。
「この、よく飲んでいたのと同じのをください」
マスターははっきりと嫌な顔をした。
「これは強いので、お客様にはお勧めできません」
だけど私は首を振った。
「では少なめでいいので。私、飲めないわけではないんです。だから倒れたりしないので」
迷惑はかけませんからお願いします。そうキッパリというとマスターは渋々といった感じでそれを氷の入ったグラスに注いだ。
「少なめにしておきます」
「ありがとうございます」
目の前に置かれた琥珀色の液体は、少しずつ氷に溶けていく。店内のライトに反射して綺麗に光った。なんともいえないいい匂いがする。
優さんは、このお酒が好きだったんだ。
こんな素敵なお店なら、一度くらい一緒に来てみたかった。そう思う。
それを彼が叶えてくれたかわからないけれど。
本当は匂いだけ楽しむつもりだったけれど、少しだけ飲んでみようとグラスを手に取る。
一口くらいなら、眠ってしまうこともないはずだ。
グラスを傾けた時、素早く隣から伸びてきた腕が乱暴にグラスを奪った。
驚いて手の持ち主へ顔を向ける。
その人はグラスを奪うと、私の隣に立ったまま、怖いくらいの鋭い視線で私を見つめた。そして奪った勢いそのままに、グラスを傾けてそれを一気に飲んだ。
「え?」
そして、それを飲み終わると、少し大きな音を立ててそれをカウンターに置いた。その音が静かな店内に響いた。
私は驚いて、その人の名前を呼んだ。
「明……」
明は口元を乱暴に拭うと、怒っているのを隠さない目で私を見た。




