【5】星の海、咲きこぼれ
真っ黒な平面だった。
いや、それは黒ではない。
黒と見まがうほどの濃紺に塗りつぶされたキャンバス。
その闇の中
中央に浮かぶ
明るく輝く金色に染まった満月。
***
ルナがついてきていないことに気づき、ウェルトンは慌てて順路をもどった。
ここ、国立美術館には、絵画・彫刻・書・工芸など様々な分野の多様な作品が展示されている。
今日はルナを情操教育の一環として連れてきた。
彼自身は、芸術を嗜まない。
だが、昨日、詩人でもある友人が、子供の頃にそういうものに触れるのも大切なのだよと言い、珍しくコーナー様がまともなことを言っている、明日はつららでも降るんじゃないのか!? いや、世紀末の大洪水が起きるに違いない! 恐ろしい! などと周囲が騒いでいたので、ふむ、どうやら今度は本当のことを言っているらしいと判断したのだ。
今日は、全く人気がない、というか、自分と少女しか来館者がいないため探しやすい。
なんでも、都で何か恐ろしいことが起こるという予言が昨日あったそうで、今日は家で大人しくしている人が多いらしいから、そのせいだろう。本当にあったのならば、確実に彼の耳に入るはずなので、完全なガセだ。都を騒がせるとはけしからんと思うが、国立美術館がすいているのはありがたいのでよしとする。
ようやく少女を見つけたのは、有名な絵画『星の海、咲きこぼれ』の前だった。
くいいるように絵を見つめる少女の後ろには、忠実な番犬のごとく、魔獣が控えている。
その絵は、大昔、もはや竜族ですら言い伝えでしか知らないほどの過去に、描かれた作品であり、世界の失われた記憶に繋がると、考古学者達が賢明に解析している古代遺産でもある。
作者が不明なことや、『星の海、咲きこぼれて』という言い伝えられている題名と月一つしかないという絵の内容の不一致など、この作品は謎が多い。人々の関心も高く、名画と名高い。
さすが俺の娘。いいものに目をつけたなと、ウェルトンは頷き、ルナの肩をたたく。
「ルナ」
振り返った少女を腕の中に抱きかかえ、尋ねる。
「気に入ったのか?」
それに頷いた少女に、そうか、と微笑む。もう少し見ていたいから、先に行ってくださいと言う少女に、いや、お前の気が済むまでつきあうと言い、二人と一匹はかなり長い間、そのままでいた。
その姿を柱の影から国立美術館長が震えながら見守っていた。
あの、あのウェルトン様が芸術鑑賞だなんて!
俺の後には灰しか残さぬ。芸術など畑の肥料にしてくれる、な火の竜族長様が。
当館が引き取りを希望していた屋敷の文化遺産を、こんなものの保存に使う金があったら、領民のために使う、と燃やそうとしながら言い放ったあのお方が!
何とかコーナー様の取りなしで売却してもらえたらよかったものの。今でもあの時のことを思うと冷や汗が出る。
いや、あのときコーナー様からぼったくられた仲介料のことを思ってもだが。
とにかく、そんな最重要危険人物な、あのウェルトン様が来るなんて。
ああ、神よ!
今日は恐ろしいことが起こるというあの噂は本当だったのですね!
おい、お前達!
何をしている。今日は臨時休館だ!
非常態勢を取れ!
ウェルトン様は私が見張るから、お前達はあの方を刺激しないように、できるだけ離れていろ!
その言葉に従い、部下達は一目散に館外に避難した。
本当に忠誠心あふれる部下達だと、館長は涙した。
だから、それを見ることができたのは、彼と彼女と魔獣と館長だけだった。
突如として、歌が聞こえ始めた。
澄んだ愛らしい歌声が、荘厳な石造りの建物に響き渡る。
聞き慣れぬ言葉で紡がれる、慈愛に満ちたその歌が響く中、
少女が見つめていた絵画に変化が起きた。
月が、輝き、浮かび上がり、絵画から抜け出したのだ。
まばゆい月が、次第に球体へと膨らんでゆく。
いや、それは月ではない。
それは……
黄金の固まりがほどけ、そこから現れたのは
膨大な数の文字の羅列であった。
その羅列もまた次第にほどけ
金に輝く文字が徐々に散らばってゆく。
まさに、星の海。咲きこぼれた星々が、少女の歌声に合わせて、ほどけ、散らばり、煌めきながら、少女の周囲に舞う。
再び、文字が羅列となり、球体となり、月となり、絵画にもどると同時に、
少女の歌も終わった。
後に残されたのは、
満足げな少女と
目を丸くした男と
腰を抜かした館長と
さすが私のご主人様! と誇らしげな魔獣だった。
「今のはなんだ?」
ウェルトンが呆然と呟く。
「歌絵です。定められた歌に反応するよう細工され、魔術によって描かれた絵画」
そうか、と呟き、ウェルトンはルナに笑いかけた。
「いいものを見させて貰った。ありがとう。ルナ。¥」
顔を赤くした少女に、よしよしとその頭を撫で、それから魔獣に命じる。
「館長を押さえろ。」
ひいっと後ずさる館長の上に黒の魔獣がのし掛かり、ぐわっと口を開く。
魔獣の肩越しに、少女を下ろした男がこちらに向かってくるのが分かった。
ひたすら怯える館長に、ウェルトンは告げる。
「今、見たことを口外してみろ」
その瞳に映る業火の炎に館長は、必死に首を振る。
「い、いいません。だれにも。決して!」
やっぱり今日は厄日だった、と後に館長は疲れた顔で妻に語ったという。
屋敷に帰ったルナは、上機嫌なウェルトンに尋ねる。
「何も聞かないの?」
絵画の説明を見て、こちらの世界では、どうやらあの絵画を使う術は失われているらしいと分かっていたが、歌わずにはいられなかった。あの絵画を発動させるのに、魔力はいらない。ただ、心のこもった歌声だけが、あの絵画を目覚めさせられる。本来の姿が忘れ去られ、長く眠りについたままらしい絵画は、どこか寂しげで、思わず歌ってしまったのだ。男に詰問されることを覚悟の上で。だが、男は何も尋ねてはこなかった。
「あの歌のことか? 俺は芸術方面には疎いが、あれが素晴らしいものだということは分かったぞ。ありがとう、ルナ。お前は俺の自慢の娘だ」
そういって、ルナの質問の意味が分かっているのかいないのか、ただ笑う男に、だから、こういう男だから自分は歌ってみせたくなったのだと再確認して、少女も微笑んだ。




