第5話 雨の放課後 傘ひとつじゃ足りなかった
翌日の昼休み。
「ねえねえ」
弁当を開こうとした瞬間だった。
前の席から姫乃が振り返る。
「昨日の秘密、まだ聞いてないんだけど?」
来た。この追及、何度目だ。
「秘密だからな」
「えー」
姫乃は露骨に不満そうな顔をした。
「依澄くんとリリカだけズルくない?」
「ズルくない」
「ズルい」
「どっちだ」
「ズ~ル~いぃ。いいもん、『依澄くんとリリカが仲間外れにするぅ』って先生にいいつちゃうからっ」
「小学生か」
昨日も似たようなやり取りをした気がする。
姫乃はけらけら笑う。その横で、リリカも楽しそうに笑っていた。
「姫乃、諦めなって」
「やだ」
「即答だね」
「だって気になるし」
姫乃は頬杖をつく。
その隙に。
机の下で、こつん、と靴先が触れた。
俺は隣を見る。リリカは前を向いたまま、制服の生地越しに、彼女のつま先が俺のふくらはぎをじっとりと這い上がるように絡めとる。
その微かな熱に、心臓が跳ねた。
リリカは小さく笑っていた。
秘密。
昨日から、そんな言葉ばかり頭に浮かぶ。
俺の秘密。リリカの秘密。たぶん今は、そのどちらも守られている。
* * *
放課後。
最後のホームルームが終わった頃には、空はすっかり嫌な色の雲に覆われていた。
ぽつ。ぽつぽつ。
雨が降り始めた。
その数分後には、校庭を白く煙らせるほどの本降りだった。
傘を持ってきていない。天気予報に騙された。
そんなことを考えていると。
「依澄くん」
隣から声がした。リリカだった。
「傘ないの?」
「ない」
「やっぱり。あたしはあるよ」
そう言って折り畳み傘を見せる。小さめだった。どう見ても一人用。
……帰らないのか。そう聞こうとした俺を遮るように、彼女は平然と言った。
「一緒に帰る?」
「……は?」
思わず聞き返した。
「いや、無理だろ」
「なんで?」
「傘、小さい」
「確かに」
「だろ」
「でも駅までならたぶん大丈夫!」
一体、その自信はどこから出てくるのだうろか……
「いや……」
『無理だろ』と言いかけた俺の言葉をリリカが遮る。
「あたしと帰るの……嫌?」
上目遣いで俺を見る。
少しだけ不安そうな声。
昨日も聞いた。
この声には弱い。
「……嫌じゃない」
「ふふっ」
即座に笑顔になった。ずるい。本当にずるい。
* * *
昇降口で、リリカが傘を開く。
思った通り、小さい。どう考えても二人用ではない。
「近いな」
「傘一本だし」
肩が触れる。
制服越しに体温が伝わる。雨音が世界を閉ざしていく。
リリカの声も近い。
「依澄くん、これ、ちょっと楽しいね」
「楽しくない」
「そう?」
「落ち着かない」
「ふふっ」
楽しそうだった。
その時、強い風が吹いた。
雨粒が傘の下へ容赦なく入り込む。
「あっ」
リリカが小さく声を上げる。
見ると、ベージュのカーディガンに雨粒が散っていた。
それだけじゃない。
雨に濡れた制服のブラウスは、湿り気を帯びて肌に吸い付くように張り付いていた。薄い布地が水分を含み、そこからわずかに彼女の身体のラインが透けて見える。無防備な白さと、その下の柔らかな膨らみ。
思わず視線を逸らした。
「もっと入れ」
「大丈夫だよ」
「濡れてる」
「依澄くんも濡れるじゃん」
「俺はいい」
「よくないでしょ」
言いながらも、リリカは少しだけ俺の方へ寄った。
肩がぶつかる。腕も触れる。
湿った制服の布が、俺の腕にじわりと吸い付いた。彼女の体温が、雨の冷たさを越えて伝わってくる。
「ねえ、依澄くん」
リリカは少しだけ顔を寄せた。
傘の下。雨音に隠れるくらいの小さな声。
「……雨の日は、君と同じ傘に入りたい」
「っ……」
思わず息が止まった。
第三巻。文化祭準備の帰り道。
俺が書いた、あの千沙登の台詞だ。
「リリカ」
「なに?」
「それやめろ」
「ふふっ」
リリカは楽しそうに笑う。
「だって今、ぴったりじゃん」
そう言って、さらに少しだけ肩を寄せてきた。
近い。近すぎる。
また風が吹いた。今度は反対側。傘からリリカの身体がはみ出す。
ぱたぱたと雨粒が落ちる。
制服の袖、肩、髪の先。じわりと濡れていく。
「だから入れって」
「でも」
「いいから」
俺は傘を少しリリカ側へ傾けた。
その結果、今度は俺の肩が濡れる。
「依澄くん、優しいね」
「普通だ」
「そうかな」
リリカは笑いながら、俺の制服の袖をちょこんと掴む。
雨音に紛れそうなくらい小さな声で「ありがと」とこぼした。
吐息が聞こえそうなくらい近い。
雨の匂いと、春の空気。そして、隣で笑うリリカ。
傘はひとつ。どう考えても小さすぎる。
だから何度も肩が触れた。そのたびに、俺の心臓は雨音よりも激しく鳴り響く。
濡れたシャツが肌に張り付く感覚も、肩の触れ合いも、全部が近すぎる。
駅に着くまでの10分は……思ったいよりもずっと短かった。
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また次回、二人の放課後にお付き合いください。
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