第3話 図書室に逃げたのに隣のギャルが耳元で朗読してくる
その日の夜、俺は自室の机に向かったまま、何もできずにいた。
開きっぱなしの参考書。机に転がったままのシャーペン。スマホの画面には、意味もなく開いた天気予報アプリ。
勉強するつもりだった。少なくとも、机に座った時点ではそのつもりだった。
けれど頭の中に浮かぶのは、どうでもいい英単語でも数学の公式でもなく、美術室で聞いたリリカの声ばかりだった。
『……隣にいるだけで、世界が甘くなるなんて、そんなこと、知らなかった』
やめろ。再生するな。
しかも脳内で再生された音声が、ハイレゾ音源並みに鮮明なのが最悪だった。耳の奥に残った吐息の熱までが、呪いのように身体にこびり付いている。
俺の黒歴史が、隣の席のギャルに発見された。それだけでも十分に致命傷だ。
『……本当に大好きだったんだもん』
あの声を思い出すと、胸の奥が変なふうに重くなる。
黒歴史だ。俺にとっては間違いなく黒歴史だ。
けれど、彼女にとっては違った……ようだ。その事実が、どうしようもなく落ち着かなかった。
このままではまずい。明日からどうする。
普通に話すのか。無理だ。どんな顔をすればいいかわからない。
かといって、あからさまに避け続けるのも不自然だ。隣の席なのだから、完全に距離を取ることはできない。
……いや。でも。今は無理だ。
とにかく明日は逃げよう。逃げて、時間を稼ぐ。
最終的にどうするかは、そのあと考えればいい。
我ながら情けない結論だったが、その夜の俺には、それ以上まともな作戦が思いつかなかった。
* * *
翌朝。教室に入った瞬間、俺はリリカと目が合った。
「あ、依澄く――」
「おはよう」
最後まで聞かず、俺は視線を逸らした。
自分の席に鞄を置き、机の中から教科書を取り出す。必要以上に忙しいふりをする。ノートを確認し、ペンケースを置き直し、まったく意味もなくプリントの角をそろえた。
隣から視線を感じる。ものすごく感じる。
見ない。絶対に見ない。
「……依澄くん?」
「悪い、ちょっとトイレ」
「え、今?」
今だ。今しかない。
俺は椅子を引いて立ち上がり、そのまま教室を出た。
情けない。だが仕方ない。
昨日の今日で、耳元に黒歴史を囁いてきたギャルと平常心で会話できる男子高校生がいたら、そいつは多分、心臓が鋼でできている。
一時間目の前。二時間目の休み時間。三時間目のあと。俺は、とにかく逃げた。
リリカがこちらを向く気配を感じたら、トイレ、廊下、購買の前。
けれど、リリカの声で「依澄くん」と呼ばれるたびに、昨日の美術室が蘇ってしまう。
甘い匂い。耳に触れた髪。背中にかすめた柔らかい体温。
俺の精神は、朝からずっと限界だった。
そして昼休み。俺は弁当を鞄に入れたまま、行き先を図書室に変えた。
俺たちが通う県立蒼ノ原高校の図書室は、四階の端にある。昼休みでもそこまで人は多くない。俺にとって、数少ない安全地帯だった。……少なくとも、昨日までは。
窓際から少し離れた、文庫棚の近く。そこが俺のお気に入りの席だった。
椅子に座り、ようやく息を吐く。ここまで来れば大丈夫だろう。
図書館じゃ、規則で弁当は食べられないけど、まあ、それは仕方ない。
適当な文庫本を一冊手に取った。読める気はしない。それでも、本を開いているだけで多少は落ち着く。
そう思った、その時だった。
「やっぱりここだった」
耳元ではない。けれど、すぐ近くで声がした。
そこに、リリカがいた。
ベージュのカーディガン。ラベンダーグレージュの髪。淡いピンクのネイル。教室にいる時より少しだけ声を抑えた、秘密を見つけたみたいな笑顔。
「……なんでいる」
「依澄くん、静かなとこが好きなんでしょ? 図書室にお気に入りの席があるって……」
「言ってない」
「……ねえ。あたしが話しかけたら……迷惑?」
思っていたよりも不安そうな声だった。リリカは俺の反応を確かめるように、少しだけ目を伏せている。
迷惑かと聞かれれば、迷惑ではない。ただ、困る。ものすごく困る。
「……迷惑っていうか。その、昨日の今日で、どういう顔をすればいいかわからないだけだ」
リリカは、ぱちっと瞬きをした。それから、少しだけ頬をゆるめる。
「そっか。じゃあ、嫌われたわけじゃないんだ!」
リリカはようやくいつもの調子で笑った。
「じゃあ、隣座っていい?」
「なぜ隣」
「図書室だから、小さい声で話さないといけないでしょ?」
「だから隣なのか?」
「うん」
リリカは俺の向かいではなく、当然みたいに隣の椅子を引いた。
隣に座った彼女から、ふわりと昨日と同じ甘い匂いが漂う。寄せられた彼女の膝が、俺の膝に吸い付くように触れた。
ほんの一瞬。制服の薄い布越しだというのに、そこから熱い電流が走ったみたいに意識が一点に集中してしまう。
リリカが呼吸をするたび、ラベンダーの香りと微かな体温のゆらぎが、俺のパーソナルスペースを侵食していく。
「ねえ、依澄くん。昨日の約束、覚えてる?」
「約束した覚えはない」
「したよ。あたしが、千沙登ちゃんのセリフを朗読してあげるって」
リリカは嬉しそうに笑ったあと、机に肘をついて、俺の方へ少しだけ身体を寄せてきた。
リリカのカーディガンの袖が俺のシャツの袖に絡み、逃げ場を塞ぐ。
耳元に、彼女の息がかかった。
「……ねえ、悠生くん」
その呼び方はやめろ――そう抗議する間もなかった。
リリカのしっとりと柔らかな唇が、俺の耳元を熱く掠める。
「……もっと近くに来て。声、ちゃんと聞きたいから」
小さな、けれど心臓の裏側まで響くような、湿り気を帯びた囁き。
図書室の静寂を切り裂くその声は、俺の耳の奥に甘い麻酔を打ち込んだようだった。囁き終えたあとの、彼女の小さな吐息が首筋にかかり、俺の背筋は音を立てて震えた。
「……リリカ。それ、やめろ」
「それって?」
「だから、その……セリフを囁くの……」
「嫌だった?」
からかうような響き。けれど、ほんの少しだけ不安そうでもあった。
「……嫌というか、心臓に悪い」
「じゃあ、効いてるんだ。ふふっ」
リリカは笑って、もう一度だけ俺の耳元に近づいた。
今度は、さっきよりも慎重に。図書室の静けさに紛れるくらい、小さく。
「じゃあ、今日は一個だけにしてあげる」
語尾が耳に触れるみたいに溶けた。俺は思わず本で口元を隠す。たぶん今、顔が赤い。
「毎日やる前提で話すな」
「だって、依澄くんが続きを書きたくなるまで、あたし頑張るって決めたし」
「決めるな」
「それとも」
リリカは、俺の開いていた本のページを覗き込むふりをして、さらに密着してきた。
肩が触れる。腕が重なる。甘い匂いが、さっきより濃くなる。
「こういうの、嫌い?」
囁き声が、耳元に落ちた。
嫌いか、と聞かれれば、即答できる。嫌いではない。だから困っている。
もはや、自分の書いた致死量の糖分でセルフ毒殺されそうな気分だった。
図書室に逃げたはずなのに。
隣のギャルは、当たり前みたいに俺の隣に座っている。
しかも俺の黒歴史を、心臓を直接握り潰すような熱さで朗読してくる。
……最悪だ。
最悪なのに、昨日より少しだけ、逃げ場が狭くなった気がした。
♡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♡
ここまでお読みいただきありがとうございます!
リリカと依澄のやり取りを楽しんでいただけましたら、
ブックマークや評価、いいねで応援していただけると嬉しいです。
皆さまからの応援や感想が、作者の大きな励みになっています。
また次回、二人の放課後にお付き合いください。
♡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♡




