第2話 その名前だけは書いちゃいけなかった
美術室の大きな窓から、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
通常の教室よりも少しだけ天井が高く、絵の具と古い木の匂いが混じった空気が漂っている。
窓際には石膏像がいくつか並び、棚には使い込まれた画板や筆洗い用のバケツが雑然と置かれていた。
そんな中で、俺――結凪依澄は、彩藤リリカと向かい合って座っている。
美術の授業、内容は人物デッサン。
席が近い者同士でペアになり、相手の顔を描く。
ここまでは、まあいい。授業なのだから仕方がない。問題は、俺のペアがリリカだということだった。
「依澄くん、そんな真剣に見られると照れるんだけど」
リリカが、くすっと笑った。
椅子に腰かけた彼女は、喋らなければ深窓の令嬢かと見紛うほどに、その横顔はどこか澄んだ静けさを湛えていた。
ラベンダーグレージュの髪が肩のあたりでゆるく波打ち、光を受けてほんのり紫がかって見える。
大きく柔らかいたれ目。長いまつ毛。左目の下の小さな泣きぼくろ。
普段は明るく笑っている印象が強いが、こうして黙っていると、少し雰囲気が変わる。
華やかなのに、どこか艶やかで。
……いや、何を冷静に観察しているんだ。
これはデッサンだ。顔立ちを把握する必要があるだけで、見惚れているわけではない。たぶん。おそらく。そういうことにしておく。
「もしかして、見惚れてる?」
「そ、そんなわけ……」
「えー、ほんとにぃ?」
俺をからかうように笑うリリカ。
「授業だから……な。ちゃんと見ないと描けないだろ」
「じゃあ、ちゃんと可愛く描いてね」
「デッサンなんだから、そういう注文は無しだ」
「えー。だって、依澄くんの目には、あたしがどう見えてるのかなって気になるじゃん?」
「……ちゃんと描けば、可愛くはなるだろ」
「え?」
「いや、今のは……そういう意味じゃなくて。素材の話というか、造形の話というか、デッサン対象として整ってるっていうか……」
言えば言うほど言い訳が苦しくなる。
リリカは一瞬だけきょとんとしたあと、ふわっと頬をゆるめた。
「ふーん。そっか。依澄くんには、あたし、可愛く見えてるんだ?」
「だから、そういう言い方をするな」
「でも、嬉しい」
その声が思ったより小さくて、俺は返す言葉をなくした。
もはや、俺にできることはただ鉛筆を動かすことだけだった。
だが、鉛筆を動かすたびに、視線を上げなければならない。
視線を上げると、リリカと目が合う。目が合うと、彼女はほんの少しだけ笑う。
そのたびに、手元の線が微妙に乱れる。
正直、かなり描きにくい。
美術室の中では、他の生徒たちもそれぞれのペアを描いている。
小さな笑い声。鉛筆が紙を擦る音。
そういう音に混じって、リリカの息遣いがときどき耳に届く。
距離は近い。
向かい合って座っているだけだから当然なのだが、相手がリリカだと、ただの授業でも妙に落ち着かない。
「依澄くんって、絵うまいんだね」
「別に普通だ」
「いや、普通よりうまくない? 線、きれい」
「……そっか?」
「うん。なんか、ちゃんと見て描いてる感じする」
その言葉に、少しだけ手が止まった。
ちゃんと見ている。
それは、たぶん俺の昔からの癖だ。
小説を書いていた頃、人の表情や仕草をよく見るようにしていた。
誰かが笑うとき、目元がどう動くのか。照れたとき、どこに視線を逃がすのか。
嘘をつくとき、声の高さがどう変わるのか。
恋愛経験なんてなかったくせに、そういう細かい観察だけで恋愛を書こうとしていた。
今思うと、無謀にもほどがある。
「依澄くん?」
「……なんでもない」
俺は鉛筆を再び動かす。
リリカの輪郭を取る。髪の流れを追う。目元の印象を崩さないように、線を置いていく。
描けば描くほど、彼女の顔を見なければならない。
見れば見るほど、リリカがただ派手なだけのギャルではないことがわかってしまう。
表情がよく変わる。けれど、笑っていない時の目は意外と静かだ。
誰かと話している時は明るいのに、ふと黙ると、少しだけ遠くを見るような顔をする。
……やめろ。観察しすぎだ。
「ねえ、依澄くん」
「今度は何だ」
「さっきから、ちょっと顔赤くない?」
「赤くない」
「ほんと?」
「美術室が暑いだけだ」
「え~、まだ四月だよ?」
「……本当だって」
「ふーん? じゃあ、なんであたしと目が合うたびに、そんなに喉仏が動いてるのかな?」
リリカが意地悪く目を細めて、俺の喉元をじっと見つめてくる。
図星を突かれた衝撃で、俺は次の言葉を見失った。
「あはは、依澄くん、わかりやすすぎ!」
彼女の鈴を転がすような笑い声が、熱くなった俺の耳元をからかうようにくすぐった。
俺はそれ以上答えられず、逃げるように紙に視線を落とした。
やがて授業終了のチャイムが鳴った。
その音を聞いた瞬間、俺は小さく息を吐く。
「はい、それじゃあ提出してください。右下に名前、もしくはサインを書いてから出すように」
教師の声に、俺は深く考えなかった。
右下、作品の隅。そこに名前を書く。
その動作は、指先が完全に覚えていた。
中学生の俺が、編集部の会議室で、緊張しながら書店用のサイン本を作り続けた、あの「作家の業」としての感覚。
俺は反射的に、鉛筆を走らせていた。
かつて何度も書いた、あの文字を。
――天玻璃 奏月。
「…………あ」
書き終えた瞬間、指先が、凍りついた。心臓の音が、耳元で鐘のようにうるさく鳴り響く。
何をやってる、俺。ここは編集部の会議室じゃない。
脳が拒絶しても、長年染み付いた癖が、あろうことか最悪のタイミングで発露してしまった。
「……え?」
背後で、リリカの声が小さく揺れた。
慌てて消しゴムを掴もうとした俺の手が、その一瞬で止まる。
「待って……それ」
背後から、熱い吐息が耳にかかった。
いつの間にか回り込んでいたリリカが、俺の肩に顎を乗せるような、逃げ場のない距離で覗き込んでいた。
さっきまでの軽い調子は消えている。信じられないものを見つけてしまったみたいに、彼女の声は慎重に低くなっていた。
近い。近いなんてもんじゃない。
制服越しに伝わる彼女の柔らかな体温と、その下でドクドクと速まっているリリカの心臓の鼓動。
耳をかすめる彼女の吐息は熱く、ラベンダーの香りが鼻腔を支配する。
柔らかい指先が、俺のデッサン右下――致命的なサインの上をそっと押さえる。
その拍子に、リリカの身体がさらに近づいた。
背中に、ふわりとした体温が触れる。
カーディガン越しの柔らかい感触が肩甲骨のあたりにじっくりと押し付けられ、俺の思考が一瞬で真っ白になった。
いや、待て。
今のは事故だ。
リリカはサインを見ようとして身を乗り出しただけで、こっちが勝手に意識しているだけだ。落ち着け。落ち着け俺。ここは美術室で、授業中で、周囲にはクラスメイトもいる。
なのに、耳元に落ちる吐息と、背中に残る近すぎる距離感のせいで、全然落ち着けない。
「ねえ、依澄くん」
リリカの吐息が耳にかかる。
近い。けれど、その声はいつもの距離の近さとは少し違っていた。
何かを確かめるような、探るような、小さな声。
「……アマハリ ソウゲツ?」
その瞬間、俺の心臓はたぶん二秒くらい職務放棄した。
「これは、えっと……」
何か言わなければいけない。
けれど、何も出てこなかった。
喉の奥が詰まって、頭の中だけが空回りする。
違う、と言えばいいのか。
たまたまだ、と言えばいいのか。
いや、たまたま天玻璃奏月なんて名前を書く高校生がいるわけない。自分でもわかる。苦しすぎる。
そもそも、リリカがこの名前を知っているはずがない。
知っているはずがない、のに。
「……依澄くん」
リリカが、俺の顔を覗き込む。
その表情は、いつもの人懐っこい笑顔ではなかった。
口元には笑みがある。けれど、目の奥だけが妙に静かで、俺の反応を確かめているように見えた。
まさか。
知っているのか。
いや、そんなはずがない。
リリカが、あれを読んでいるはずがない。
ラベンダーグレージュの髪。淡いピンクのネイル。ベージュのオーバーサイズカーディガン。
そんな彼女が、俺の書いた黒歴史純愛ラブコメを読んでいるなんて、どう考えても想像できなかった。
いや、見た目で判断するな。
ラノベを読むギャルだっている。世の中は広い。広すぎる。今だけは狭くあってほしかった。
「ねえ、依澄くん」
「……なんだ」
「その名前さ」
リリカは、何かを確かめるように、そっと目を細めた。
普段の人懐っこい笑顔とは違う。俺の反応を楽しんでいるようでいて、どこか大事なものに触れる前のように慎重な顔。
そして彼女は、俺の耳元にもう一度、ゆっくり近づいてきた。
近い。さっきよりも、さらに近い。
髪の毛が耳に触れ、彼女の吐息が首筋をじりじりと焼く。湿った声が、鼓膜のすぐそばに落ちてくる。
「……隣にいるだけで、世界が甘くなるなんて、そんなこと、知らなかった」
背中に、電気が走った。
その一文を、俺は知っている。
知っているどころではない。書いた。俺が書いた。中学二年の俺が、本気で、最高に甘いと思って書いた一文だ。
『君の隣は、世界でいちばん甘い』第一巻。
雨宿りの帰り道、ヒロインの小花衣千沙登が、主人公の朝凪悠生に初めて自分の気持ちを匂わせる場面の台詞。
やめろ。
なぜそのセリフを知っている。
なぜ耳元で言う。
なぜそんな、少し照れたみたいな声色で再現できる。
「っ……!」
俺は反射的に椅子を引いた。
がたん、と大きな音がして、美術室の何人かがこちらを見る。
リリカは一歩も動かず、俺を見上げていた。
その頬が、ほんのり赤い。
……なんでそっちが照れてるんだ。
照れるのはこっちだろ。いや、照れているわけではない。消えたい。
「リ、リリカ……お前……」
「知ってるよ」
彼女は、俺の言葉を遮るように言った。
声は小さい。けれど、ふざけた軽さはなかった。
「あたし、その本、何回も読んだ」
喉の奥が、きゅっと縮んだ。
「……読んだ?」
「うん」
「何回も?」
「うん。ほんとに、何回も」
リリカは視線を落とし、俺が書いてしまったサインを見つめた。
「大好きだったから」
その言葉は、妙に静かに響いた。
美術室はまだ騒がしい。提出を急ぐ生徒の声も、椅子の音も、教師の指示も聞こえている。
なのに、その一言だけが、やけにはっきり耳に残った。
大好きだった。
俺が黒歴史として封印しているものを。
思い出すだけで息が止まりそうになる名前を。
誰かに知られたら終わりだと思っていた物語を。
目の前のギャルは、大好きだったと言った。
「……からかってるのか?」
ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど硬かった。
リリカはすぐに首を振る。
「からかってないよ」
「でも、今、耳元で……」
「ごめん。それはちょっと、反応見たかった」
リリカは一瞬だけ悪戯っぽい笑みを浮かべると、すぐに真顔になった。
大きなたれ目の奥に、いつもの明るさとは違う熱があった。
「……本当に大好きだったんだもん」
俺は何も言えなかった。
俺にとって、あの作品は今でも直視できないものだ。
甘いセリフも、焦れ焦れの距離感も、主人公に自分を投影していたことも、今は全部が恥ずかしい。
「……このこと、誰かに言うつもりか?」
俺が訊くと、リリカは少しだけ唇を尖らせた。
「言わないよ。依澄くんが嫌なら」
「本当か?」
「本当。あたし、そんなことしない」
その返事は早かった。
早すぎるくらいだった。
「でも」
リリカはそこで、少しだけ悪戯っぽく笑った。
嫌な予感がした。
「依澄くんが、天玻璃奏月先生だったってことは……あたしだけの秘密ってことでいい?」
「よくない」
「え、即答?」
「秘密なのはいい。ただ、その呼び方をやめろ」
「天玻璃先生?」
「やめろ」
「奏月先生?」
「本気でやめろ」
「じゃあ、依澄くん」
「それでいい」
俺が息を吐くと、リリカは楽しそうに笑った。
その笑顔はいつものギャルな笑顔に戻っている。けれど、さっきの言葉がなかったことになるわけではない。
『……本当に大好きだったんだもん』
その一言が、胸の奥に引っかかったまま取れない。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「六巻って、もう出ないの?」
第六巻。
存在しない最終巻。
俺が書けなかった、悠生と千沙登が歩む未来……。
リリカの大きな瞳が、至近距離で俺を捕らえて離さない。
その目には、好奇心だけではないものがあった。
期待。
祈り。
それから、俺の語彙力では表現できない何か。
「……俺は、もう書かない」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そっか」
リリカは、残念そうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。俺が何気なく捨てたつもりの言葉が、彼女の中では、思ったより重く響いたのかもしれない。
けれど、リリカはすぐにいつもの明るさを取り戻す。
「じゃあ、依澄くんが続きを書きたくなるように、今度からあたしが千沙登ちゃんのセリフを朗読してあげるね」
「なぜそうなる」
「えー、だって、千沙登のセリフを聞いたら、また書きたくなるかもしれないじゃん」
「ならない。むしろ逆効果だ」
「そうかなぁ」
リリカは、俺の顔を覗き込むようにして、少しだけ身をかがめた。
長いまつ毛が伏せられ、左目の下の泣きぼくろが、いつもより近くに見える。さっきまで悪戯っぽく笑っていたくせに、その目元だけはほんの少し不安そうで、俺の胸の奥を妙に落ち着かなくさせた。
「あたしじゃ、ダメ?」
上目遣いで、そんなことを言うな。
言葉が喉の奥で詰まる。拒否しようとしたはずなのに、リリカの声が耳に残って、うまく息が吸えなかった。
俺は深く息を吐き、右下のサインを見た。
平穏な高校生活。
誰にも知られず、目立たず、静かに卒業する。
その計画は、どうやら四月の時点で崩壊したらしい。
隣のギャルは、俺の黒歴史を知っている。
しかもその黒歴史を、宝物みたいに大事そうに扱ってくる。
……最悪だ。
最悪なのに……ほんの少しだけ、胸の奥が熱くなっている自分がいることには、気づかないふりをした。
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リリカと依澄のやり取りを楽しんでいただけましたら、
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また次回、二人の放課後にお付き合いください。
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