第1話 学年一のギャルが俺の黒歴史を耳元で囁いてくる
「……もっと、恋人みたいなことしたい」
唐突に耳元で囁かれたその甘い響きに、俺の心臓が、変な音を立てた。
四月の教室。放課後前の美術室。窓から差し込む午後の光が、机の上に置かれたデッサン用紙を白く焼きつけている。
そのどれもが、さっきまでごく普通の日常だったはずなのに、今は全部がやけに遠い。
犯人は、隣の席のギャル、彩藤リリカ。
ラベンダーグレージュの髪が頬に触れそうなくらい近くで揺れている。
春の埃っぽさを塗り替える、柔らかくて清潔な、女の子の匂い。
耳たぶに残った、しっとりと湿った吐息の熱だけが、やたらに生々しく自己主張していた。
しかもその台詞は、俺が中学二年の時に書いた黒歴史ラノベの、ヒロインが放つ最大級の決め台詞だった。
『君の隣は、世界でいちばん甘い』第四巻。
クリスマス前、部屋でふたりきり。ヒロインの小花衣千沙登が、真っ赤になりながら主人公の朝凪悠生へ、初めて自分から一線を越えようとする場面――。
やめろ。思い出すな。
自分で書いたくせに、今さら自分の言葉に殺されそうになっている。
偶然? だとしたら、クラス替えで隣の席になったばかりのギャルから突然告白されたことになるが……いやいや、そんなことがあるはずない。
俺だって自分が決してイケメンじゃないってことは理解しているし、社交的な性格でもない。
ギャルに告白されるなんて、ありえない出来事だということくらいわかる。
偶然じゃないとしたら、彼女は知っているということになる。
俺が、天玻璃奏月だったことを。
脳内が一瞬でパニックになる。なのに、隣のリリカは、俺の反応を確かめるみたいに、少しだけ楽しそうに笑っていた。
俺は深く息を吸った。
きっと、たぶん、これは悪い夢だ。
そう思いたくなるくらい、高校二年の春、最初の席替えの日から、俺の運勢は最悪だった。
* * *
高二になった俺は、何の気なしに文系クラスを選択した。
新たなクラスで臨む、新たな高校生活。
別に何かを期待していたわけではない。むしろ、期待なんてしないほうがいいと思っていた。
俺――結凪依澄は、これから先も平凡な高校生活を送るはずだった。
しかし、そんな俺の予想は見事に裏切られることになる。
偶然、隣の席になった彩藤リリカによって。
窓際から二列目。前から三番目。
黒板も見やすく、教師からもほどよく死角になり、昼休みに本を読むには悪くない位置だ。
ただし、隣が学年一の有名ギャルでなければ、の話だが。
「ね、依澄くんってさ。本, 好きなの?」
休み時間。まだ四月の教室は、クラス替え直後特有の落ち着かなさに満ちていた。
そのざわめきの中で、隣から甘い声がした。
リリカが、俺の机に少し身を乗り出してきている。肘が、俺の広げていたノートの端をわずかに押さえていた。
近い。
オーバーサイズなベージュのカーディガン越しだというのに、彼女の柔らかな体温がジワリと伝わってくる気がして、俺は思わず背筋を伸ばした。
「……まあ、そこそこ」
「そこそこって言うわりに、休み時間ずっと読んでない?」
「校内じゃ、スマホ、使えないからな。他に暇をつぶす方法が思いつかない」
「ふーん」
リリカは、俺の机に置かれた文庫本を覗き込むようにして、さらに少しだけ顔を近づけてきた。
袖から覗く、淡いピンクのネイルが施された白い指先。それが、トントンと俺の文庫本を軽く叩いた。
彩藤リリカ。
大きく柔らかいたれ目。長いまつ毛。左目の下の小さな泣きぼくろ。
絵に描いたような、教室の中心にいる人気者の女の子。
俺のような、平穏と沈黙を愛する人間とは住む世界が違うはずだった。
「ねえ、それってラノベ?」
「……いや、推理小説」
「へぇ。依澄くんって、ラノベは読まないの?」
心臓が、嫌な感じに一拍遅れた。
「……読まないこともない」
「読むんだ?」
「昔は少し」
「ふーん」
リリカはそれ以上追及せず、少しだけ目を細めてにこっと笑った。
その笑顔がやけに柔らかくて、俺は視線を本に落とした。
……なんで俺に話しかけてくるんだ。
目立たず、騒がず、平穏に。それが俺の高校生活の方針だった。
なにせ俺には、絶対に掘り返されたくない過去がある。
中学時代、ペンネーム『天玻璃奏月』でラノベ作家をしていたこと。
それがなぜか商業化され、五巻まで出てしまったこと。
恋愛経験ゼロの中学生男子が、何をどう勘違いしたら『君の隣は、世界でいちばん甘い』なんてタイトルの純愛ラブコメを書けるのか。
高校では誰も俺を知らない。天玻璃奏月は死んだ。そういうことにしているのだ。
「おーい、リリカ!」
教室の後ろから、明るい声が飛んできた。
リリカの親友、橘木姫乃だ。
ハイトーンブロンドのツインテールを揺らし、短いスカートで「楽しめば勝ちじゃん?」と笑う、そういうギャルの概念が具現化したような女子。
リリカは姫乃と楽しそうに放課後の予定を話し、自分の席に戻っていった。
カーディガンの袖が机に触れ、甘い匂いが名残惜しそうに鼻腔をかすめる。
やはり、彩藤リリカは危険だ。
見た目の派手さではない。距離の近さと、あの無防備なまでの「女の子」の質感が、俺の警戒心をやすやすと突破してくる。
隣の席。ただのクラスメイト。それ以上でも以下でもない。
俺はそう自分に言い聞かせた。
ところが、その日の六時間目。
美術の授業で、人物デッサンをすることになった。
机を向かい合わせにして、ペアになった相手を描く。
「席が近い人同士で組んでください」
教師の一言で、俺の運命は決まった。
隣を見る。
リリカが、ぱちっと目を合わせてくる。
「よろしくね、依澄くん」
「……よろしく」
俺は鉛筆を手に取りながら、ひそかに息を吐いた。
この時点では、まだ知らなかった。
この授業が、俺の平穏な高校生活を終わらせることになるなんて。
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また次回、二人の放課後にお付き合いください。
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