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僕が僕を捨てた日、鏡が笑った ~鏡の中の僕に居場所を奪われる話~  作者: 都桜ゆう


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第四章:鏡の向こうの未来

 昨夜の狂乱から一夜明け、結城を包んでいたのは、激しい恐怖ではなく、むしろ死刑執行の合図を淡々と待つ囚人のような、乾いた諦念と虚無感だった。


 自室のクローゼットの鏡から聞こえていた、あの内側から爪で引っ掻くような執拗な音は、白々と夜が明ける頃にはぴたりと止んでいた。しかし、音が止んだからといって安息が訪れたわけではない。

 代わりに、部屋の空気がまるごと入れ替わったかのように変質していた。


 結城自身の私物、大切にしていたはずの小説の単行本、壁に無造作に貼ったポスター、引き出しの中に溜め込まれた思い出のガラクタ。それらすべてが、彼を不法侵入者として冷酷に拒絶している。

 まるで、部屋という空間そのものが冷徹な人格を持ち、「もうすぐ別の、正しい主人が来る。お前という偽物は速やかに立ち去れ」と、無言の圧力をかけているかのようだった。


 学校へ行くのは、もはや自殺行為に等しい。

 今の彼にとって、昨日の友人の笑顔も、教師の事務的な声も、母親の優しい気遣いさえも、すべてが結城を現実から削り取り、排斥するための鋭利な刃に見えた。

 だが、家の中に留まっていても、逃げ場はない。洗面所の鏡、テレビの黒い画面、スマートフォンの液晶。光を反射するあらゆる平面が、あちら側の層へと通じる、底なしの入り口として牙を剥き始めている。


結城はふらふらとした幽霊のような足取りで家を飛び出し、気がつけば学校の図書室へと向かっていた。

 昨夜、あの鋭利な筆跡でノートに刻まれた「記憶のすべてを、こちらの側へ完璧に写し取った。」という不吉な言葉が、呪いのように脳裏にこびりついて離れない。


 もし、彼自身の記憶さえも奪われ、外部から上書きされ始めているのだとしたら、もはや結城を結城であると証明できるのは、流動的な内面ではない。外部に固定された記録という、動かぬ証拠に頼るしかない。


 あの鏡階段が何なのか。過去に、あの場所で何が起きたのか。その正体を暴き、怪異の論理を理解しなければ、戦うことすら叶わぬまま、一人の高校生としての存在を消されるだろう。


 結城は、街中に溢れるショーウィンドウやカーブミラーから必死に目を逸らしながら、呪われた地であるはずの学校へと向かった。

 今の彼にとって、外界はもはや鏡の軍勢が跋扈する戦場であり、唯一の対抗手段は、この怪異の根源を突き止めることだけだった。


「……記録だ。何かが残っているはずだ」


 荒い呼吸を整え、彼が逃げ込むように辿り着いたのは、旧校舎の三階、北端にある図書室だった。そこは、あの忌まわしい西階段からは最も遠い場所に位置している。

 昼間だというのに厚い遮光カーテンが引かれ、微かな塵が差し込む光の筋に舞う、死者の街のような静寂の中。結城は学校史・地域資料のコーナーへと、暗い情熱を抱いて足を踏み入れた。


 カビ臭い書棚の間を抜けると、重厚な革表紙の資料が、墓石のように整然と並んでいる。

 結城は震える指で、古い学校史の背表紙をなぞった。三十年前、四十年前。この校舎がまだ新しく、現在のような、人を窒息させるような淀んだ空気を持たなかった頃の古い記録。


「……これだ」


 彼が手に取ったのは、二十五年ほど前の校報や地域ニュースを綴じ合わせた分厚い合本だった。

 ページを捲るたびに、極限まで乾燥した紙がパキパキと鳴る。その乾いた音が、誰かの指の骨を折る音のように聞こえて、結城の耳を不快に刺激する。しばらくの間、指を滑らせていた彼の手が、ある箇所で不自然に止まった。


 そこには、当時の地域新聞の社会面にひっそりと掲載された、小さな、しかし異様な記事の切り抜きが挟まっていた。


『県立高校で男子生徒が失踪。放課後の校内から煙のように姿を消す』


 記事の内容は、当時の結城と同じ二年生の男子生徒が、ある日の放課後を境に行方不明になったというものだった。

 事件性は薄いとされ、突発的な家出の可能性も示唆されていたが、不可解なのはその生徒が失踪直前に見せていた奇行についての、同級生たちによる生々しい証言だった。


『失踪した生徒は、一週間ほど前から様子がおかしかった。

 誰もいないはずの壁に向かって、まるで親友にでも話しかけるようにして親しげに呟いたり、鏡を異常に怖がって、自分の顔を隠すようになった。また、親しい友人に対して「俺はもうすぐ、もっとマシな俺と入れ替わるんだ。そうすれば、みんなも幸せになれる」という、遺言ともつかない謎の言葉を遺していたという――』


 結城の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに早鐘を打ち鳴らす。

 さらにページを捲ると、その生徒を最後に指導していた元教諭の手記と思われる複写が、資料の間にひっそりと、隠されるように差し込まれていた。そこには、公式な報道記録には決して残せなかったであろう、おぞましい現場の状況が克明に記されていた。


『……彼が最後に見撃されたのは、旧校舎西側の、今は封鎖されているはずの階段だった。

 目撃した生徒の証言によれば、そこには学校の備品ではない、異様に巨大な、禍々しい装飾を施された合わせ鏡が設置されていたという。

 通報を受けて駆けつけたときには、鏡は跡形もなく消え失せていたが、踊り場の壁には、彼が最期に血が滲むほど爪を立てて書き残したと思われる、狂気に満ちた殴り書きがあった。

「未来が、俺を呼んでいる」と。

 彼は当時、不透明な進路と過酷な家庭環境に深く悩み、現在の惨めな自分そのものを消してしまいたいと切望していた。あの合わせ鏡は、その絶望に呼応するように現れたのではないか……』


 結城は資料を抱えたまま、膝から崩れ落ちそうになった。

 鏡階段。それは、突発的に現れた一過性の心霊現象などではなかった。

 それは、この場所に、一定の周期、あるいは誰かの強い自己否定という負の感情に引き寄せられて顕現する、存在の入れ替え装置なのだ。

 

 結城は、資料の後半に記されていた民俗学的な考察を含む、ある恐ろしい仮説を読み進めた。全身の血が指先から逆流し、凍りつくのを感じる。

 合わせ鏡という装置は、物理的に光を無限に反射させる。それはオカルトの文脈においては、現実のコピーを無限に増殖させ、同時に、存在し得た無数の可能性を可視化させる、極めて危険な儀式空間でもあった。


 人が人生の岐路に立ち、何かに悩み、現在の己を否定して別の選択肢を強く望んだとき。選ばれなかった未来の彼らは、行き場を失った亡霊のようなエネルギー体となって、鏡の奥底に黒い澱となって溜まっていくのだ。


 第一志望の大学に合格し、輝かしいキャリアを歩んでいる、理想の中の結城。

 もっと器用に人間関係をこなし、誰からも愛され、尊敬される、社交的な結城。

 親の期待に応え、何一つ挫折することなく完璧な人生を謳歌している、完全なる結城。


 それらの輝かしい可能性は、今の不完全な、現実の彼によって選ばれなかったこと、あるいは彼が怠惰だったせいで殺されたことを深く逆恨みし、鏡の奥の暗闇で、現実の肉体を奪い取る機会を虎視眈々と窺っている。


 そして、誰かが不用意に鏡を覗き込み、反射の奥底にいる彼らに意志を持って対話を試みた瞬間――それは、結城があの鏡の奥に潜むあいつと目を合わせてしまった瞬間だ――現実と虚像の境界は致命的に曖昧になり、存在の優先権が揺らぎ始める。


「……だから、あいつはあんなに笑っていたのか」


 鏡の奥にいた存在は、ただの幽霊ではない。結城がこれまでの人生で捨て去ってきた、あるいは臆病さゆえに選ぶことができなかった理想の自分の成れの果てだった。


 あいつは結城よりも賢く、社交的で、家族に愛される術を熟知している。だからこそ、周囲の人々――友人たちも、そして何より血の繋がった母親さえも――あいつを本物だと誤認し始めているのだ。あいつのほうが、周囲の期待する結城という理想像に遥かに近いからだ。


 結城は、図書室の窓ガラスに映る己の貌を、死人のような目で見つめた。

 不眠で目の下にはどす黒い隈ができ、恐怖に顔を歪ませ、支離滅裂な独り言を呟きながら古い資料を漁っている、惨めな廃人と化した結城。一方で、鏡の向こうにいるあいつは、今この瞬間も涼やかな顔で完璧な結城を演じている。


 どちらがこの世界にとって価値のある存在かなど、もはや比べるまでもなかった。現実の彼が持ち合わせていないすべてを、鏡の向こうの影は完璧に備えていた。


 結城は、貪るように資料を読み耽った。一分一秒が惜しかった。

 ページを捲る指先は、いつの間にか窓から差し込む陽光が白から橙へと色を変え、影を長く伸ばしていくことさえ気づかせないほど、絶望的な集中に支配されていた。


 ふと顔を上げたとき、図書室の遮光カーテンの隙間からは、血のように赤い西日が差し込んでいた。時計の針は、すでに放課後の終わりを告げる時刻を指している。


(このままでは、僕は不要品として鏡の奥に捨てられる。あいつが僕として、僕の人生をより良く、より美しく完成させていくんだ。僕というオリジナルを殺して)


 結城は、たまらない焦燥感と破壊衝動に突き動かされ、資料室を飛び出した。向かう先は決まっている。すべての歪みが集まる、あの西階段の踊り場だ。

 逃げるのではない。あいつと決着をつけなければならない。あいつの存在をこの手で完全に否定しなければ、結城という人間はこの地上から、歴史から消えてしまう。


 階段を一段ずつ、自分の魂を削り落としながら駆け上がる結城の頭の中に、先ほどの手記の最後に記されていた最大の警告がリフレインしていた。


『鏡の奥の者と、決して目を合わせてはいけない。問いかけてはいけない。彼らは、お前の現在(いま)という椅子を奪い取るための、お前の承認という言葉を、今か今かと待っている』


 だが、今の結城には、その賢明な警告さえも遠い海の向こうの出来事のように感じられた。

 すでに現在という椅子は、四本脚のうち三本をあいつに奪われ、音を立てて崩れかかっているのだ。


 三階に続く、夕闇の入り混じった踊り場。

 西日が差し込み、黄金色に輝く空気の中に、あの禍々しい二枚の合わせ鏡が、不気味な静寂を纏って立っていた。

 結城は、逃げ場のなくなったその地獄の中心点に、力なく踏み止まった。


「……出てこい。隠れてないで、そこから出てこい!」


 結城は鏡に向かって、掠れた、しかしありったけの憎しみを込めた声で吠えた。

 鏡の中には、やはり反射の層はほとんど残っていない。光を拒絶する漆黒に塗りつぶされた背景の中に、たった一人の結城が立っている。

 それは、やはり、あいつだった。


 あいつは、昨夜よりもさらに圧倒的な現実味を増していた。

 制服のウールの微細な質感、滑らかな肌の艶、知性を湛えた瞳の輝き。そして、自信に満ちた立ち振る舞い。

 鏡のこちら側にいる現実の結城のほうが、むしろピントのボケたモノクロの古い心霊写真のように色褪せ、透け、希薄に見えるほどだった。


 あいつは、結城の必死の怒りを大人の余裕で受け流すように、静かに、そして残酷なまでに慈悲深い笑みを浮かべた。

 そして、優雅な、淀みのない動作で胸元の銀色のバッジを指差す。そのバッジには、結城が密かに憧れながらも、到底無理だと挑戦することさえ諦めたあの難関大学の校章が、眩いばかりに刻印されていた。


 さらにあいつは、鏡の内側から何枚もの未来の情景を、映画のスクリーンを投影するかのように、空間そのものへ提示し始めた。

 彼が心の底で、誰にも言わずに望んでいたはずの、しかし不器用さゆえに手に入るはずのなかった、輝かしい人生の数々。


 憧れの大学の卒業式で、誇らしげに壇上に立つ、自信に満ちた完成された結城。

 誰からも信頼され、重要な仕事を任される、非の打ち所がない社会人としての有能な彼。

 愛する人に囲まれ、何一つ不安のない、陽だまりのような穏やかな午後を過ごす幸福な家庭の主。


 それらすべてが、あいつの背後で万華鏡のように美しく、残酷なほど鮮やかに明滅している。

 それは、結城が諦めたという代償を払って、あいつが手に入れた果実だった。


「……ああ、あ……」


 結城の心の中に、猛毒のような羨望と、自らの怠慢への絶望的な自己嫌悪が広がっていく。


(なぜだ。

 なぜ、あいつは、僕が持っていないものをすべて、これほどまでに完璧に持っているのか。

 なぜ、僕はここにいて、泥に塗れたような顔をして、惨めに震えているのか)


 あいつは、ゆっくりと口を動かした。

 物理的な音は聞こえない。だが、その声は結城の魂の深奥に、逃れられない冷酷な真実として突き刺さった。


『お前が、それを捨てたんだろう?』


 あいつの唇が、ゆっくりと、語りかけるようにそう動いた。


『勉強が面倒だから。傷つくのが怖いから。おのれにはどうせ似合わないから。そうやって、お前が投げ出し、ドブに捨てた可能性の残骸を、僕が全部拾い集めて、血の滲むような思いで磨き上げたんだ。

 ……お前が心の中で望んだことじゃないか。もっとマシな結城が、この惨めな人生を代行してくれればいいのに、って。だから僕は来たんだ。

 感謝してほしいくらいだよ、結城』


 結城の視界が、ボロボロと溢れ出す熱い涙で激しく歪んだ。

 あいつの言う通りだった。彼はいつだって楽なほうを選び、失敗を恐れて、理想の自分という像を鏡の奥へと乱暴に押し込めてきた。あいつは、結城が殺してきた彼自身の怨念なのだ。

 そうして積もり積もったツケが、今こうして牙を剥き、本来の主人を喰らい尽くしに来た。


「ふざけるな……。そんなの、勝手な理屈だ……! 僕はまだ、ここで呼吸をして、血を流して生きているんだ!!」


 結城は絶叫し、鏡の表面を両手で激しく叩いた。

 だが、手のひらに伝わってきたのは、冷たい硬質なガラスの感触ではない。

 それは、彼自身の体温よりも遥かに温かい、生命の拍動を感じるような、生きている人間の肉体のような、柔らかく力強いぬくもりだった。

 鏡面が、まるで水面のように揺らぎ、ドロドロとした粘膜となって溶け始めている。


 あいつは、鏡の向こうから、今や主人の座を奪い取った王のような冷徹な目で、哀れむように結城を見つめた。その瞳は、もはや光を反射する鏡ではない。結城という一人の人間を、あちら側へ永久に引きずり込もうとする、底なしの暗い淵だった。


 結城は、たまらなく惨めで、悲しく、そして何より、あいつになりたいと強く願ってしまった。

 彼は堪えきれずに、図書室の古い資料に記されていた、あの致命的な問いを口にしてしまった。

 鏡の住人に、己の敗北を全面的に認めるような問いかけを投げかけること。

 それをした瞬間、存在の天秤は、音を立てて虚像の方へと完全に、永劫に傾く。


「……どうして」


 結城は、搾り出すような、掠れた断末魔の声を漏らした。


「どうして、お前なんだ……? どうして、僕じゃないんだ? 僕こそが、この世界で泥を啜って生きていたはずなのに……どうして、僕じゃないんだ……!」


 最後の一言は、自我の完全な崩壊を告げる悲鳴となって、踊り場の歪んだ空間に虚しく響き渡った。

 その瞬間。

 パリンッ、という、世界中のガラスというガラスが一斉に砕け散るような、凄まじい衝撃音がした。


 目の前の姿見が割れたのではない。

 結城とあいつを隔てていた、この宇宙の絶対的な、唯一の境界線が、粉々に砕け散ったのだ。

 あいつの笑みが、この世のものとは思えないほど美しく、そして残酷な極致に達する。


『答えは簡単だよ、結城』


 あいつの口が、はっきりと勝利を宣言する形を作る。


『お前が、僕のほうが本物に相応しいと……、自分から認めたからだ』


 結城の足元から、床の感触が唐突に消失した。

 重力が狂い、上下左右が混ざり合う。

 鏡の表面が、巨大な粘膜のような口となって開き、結城の不完全な肉体を飲み込もうと、狂ったように波打っていた。


 結城は必死に虚空を掻き、冷たい現実に、昨日までの自分に縋ろうとしたが、指に触れるのは、無限に増殖し続ける、暗いガラスの破片だけだった。


 視界が急速に、救いのない漆黒に染まっていく。

 最後に、意識が完全に消失する寸前に、彼が見たのは。

 鏡の枠を、王の帰還のように悠然と踏み越え、こちら側の、現実の世界へと一歩を踏み出してくる、完璧な自信と残酷な笑みを湛えた、自分自身の姿だった。


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