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僕が僕を捨てた日、鏡が笑った ~鏡の中の僕に居場所を奪われる話~  作者: 都桜ゆう


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第三章:反転する境界線(ズレの始まり)

 ズレは、最初はあまりに微細で、取るに足らない生活のノイズとして現れた。

 それは例えば、朝の食卓で交わされる母親との何気ない会話の端々に混じる違和感であったり、あるいは授業中にノートを取る指先の、ほんのわずかな痺れのような感覚であったりした。


 あまりに日常の風景の中に溶け込みすぎていて、注意深く観察し、神経を研ぎ澄まさなければ見落としてしまうような、砂粒ほどの些細な異物。

 だが、その砂粒は確実に、結城の生活という精緻で壊れやすい歯車に混じり込み、不快な軋み音を立て始めていた。それは、静かに、しかし確実に彼の存在の連続性を削り取っていく。


「あ、結城。……昨日の夜に言ってた、あのアニメの続きさ……」


 登校してすぐのことだ。教室の入り口で、田中が親しげに肩を叩きながら話しかけてきた。結城は心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を覚え、戸惑いながら足を止める。

 昨日の夜、自分は一歩も家から出ていない。それどころか、鏡の恐怖に全身を支配され、自室のベッドで毛布を頭から被り、外界との接触を一切断って震えていたはずだ。田中と連絡を取った記憶など、断じて、一秒たりとも存在しない。


「……アニメ? 何の話だ?」


「おいおい、とぼけるなよ。昨日の夜、メッセージでめちゃくちゃ盛り上がったじゃん。あの最終回の展開は納得いかないって、お前が一番熱く語ってたんだぜ。おかげでこっちは寝不足だよ」


 田中は苦笑しながら、自分のスマートフォンの画面を無造作に提示した。

 そこには、結城のアイコンと名前が表示されたチャット履歴が並んでいた。タイムスタンプは昨夜の十一時過ぎ。結城が恐怖のあまり意識を失うようにして、泥のような眠りに沈み始めていた時刻だ。


 結城:『あの演出はないわ。整合性取れてないだろ』

 田中:『まあまあ、作画は神だったし許してやれよ』

 結城:『いや、僕ならもっとマシな終わり方をさせるね。もっと、誰もが納得する正しい場所に、すべてを収めてやるよ』


 そこにあるのは、間違いなく結城自身の言葉遣いで、結城のアカウントから発信されたメッセージだった。だが、結城にはそんな文章を打ち込んだ記憶も、スマートフォンの冷たい画面をなぞった指先の感触も、一切残っていない。

 さらに不気味なのは、最後の一文だ。普段の自分なら、アニメの展開に対して正しい場所に収めるなどという、まるで舞台の演出家か神のような傲慢な言い回しは、絶対に選ばない。


「……ああ、そうだったな。ちょっと眠くて、半分寝ぼけながら打ってたんだと思う。あまり、よく覚えてないんだ」


結 城は顔の筋肉を無理やり動かし、引き攣った笑みを浮かべてその場を凌いだ。

 全身の産毛が逆立つような感覚。自分を騙る誰かが、自分の知らないところで、自分の端末を、あるいは自分の指を使って友人と親交を深めている。その事実は、肉体的な暴力よりも深く、鋭く結城の精神を切り裂いた。


 違和感はそれだけにとどまらなかった。

 二限目の現代文の授業中、教師が黒板に書く自我の崩壊と他者性という、今の結城にはあまりに皮肉なテーマについての解説をノートに取っていたときだ。ふと、結城は自分の右手が不自然に止まるのを感じた。

 自分の書いた文字が、自分のものに見えない。


 結城の字は、本来なら少し右上がりの癖があり、角が丸いのが特徴だった。自分でも少し頼りない、意思の弱さを象徴するような字だなと思っている、見慣れた筆跡だ。

 だが、今朝からノートに並んでいる文字は、カミソリのように鋭く、直線的で、どこか攻撃的な印象を与えていた。一文字一文字が紙の繊維を切り裂くような異常な筆圧で刻まれ、その並びは軍隊の整列のように冷酷なほど正確だ。


 筆跡が変わる。そんなことが、この現実世界で起こり得るのだろうか。

 彼は右手のペンを何度も握り直した。指の節々、皮膚の感触、ペンにかける圧力。それらすべては、二十年間付き合ってきた自分自身のもののはずだ。しかし、ペン先から紡ぎ出される文字は、彼自身の意志を裏切り、彼自身の美学を嘲笑うように、見知らぬおぞましい形を成していく。


 試しに、ノートの隅に自分の名前――結城という文字を書いてみた。

 書けない。

 その二文字を綴ろうとするたびに、脳から指先への伝達回路が、どこか別の暗い深淵から伸びてきた見えない触手(あるいは糸)に、強引にすげ替えられたかのように機能しない。


 ペン先は無意味に空転し、代わりに紙の上には、幾何学的で意味不明な、暗号のような模様だけが広がっていった。

 まるで、自分の右手が自分のものではなく、精巧に作られた他人の義手、あるいは遠隔操作される操り人形のパーツであるかのような、おぞましい乖離感。


 結城が絶望に目を見開いていると、右手が勝手に、磁石に吸い寄せられるような滑らかな動きで動き出した。

 ガリガリと、耳障りな音を立ててペン先がノートを抉る。


『交代まで、あと少し』


 そこに刻まれたのは、結城の意志を完全に無視した、あの鋭利なカミソリのような筆跡だった。結城はペンを握る右手を、まるで猛毒の蛇でも見るかのような恐怖の眼差しで見つめることしかできなかった。


 昼休み。佐々木に声をかけられたとき、その恐怖は臨界点に達した。


「結城、さっき廊下ですれ違ったとき、なんで無視したの? 感じ悪いよ」


「え……? 廊下? 僕はずっと教室にいたけど。三限の間も、休み時間も、一度も席を立ってない」


「嘘。三限と四限の間の休み時間、一階の自動販売機の前で見かけたもん。声かけたのに、あんた、こっちをチラッと見て、ニヤニヤしながら行っちゃうんだもん。何、あの顔。……正直、別人みたいで怖かったんだけど」


 佐々木は本気で不機嫌そうに、そしてわずかに生物としての忌避感を含んだ瞳で結城を見ている。

 結城の背筋を、冷たい不吉な汗が伝った。その時間、自分は確かに席に座って、変わってしまった自分の筆跡を眺め、掌の感覚を確かめていたはずだ。一階に行く理由もなければ、ましてや友人を無視して不気味な笑みを浮かべるような余裕などあるはずがない。

 

(誰かが、僕の代わりに僕をやっている。

 鏡の中から漏れ出した何かが、僕という存在の輪郭を外部から削り取り、中身を別のものに詰め替えようとしている)


 放課後、帰宅しても安らぎなどどこにもなかった。

 玄関の扉を開けた瞬間、廊下の突き当たりにある姿見に視線が行きそうになり、結城は悲鳴を上げそうになるのを堪えて目を逸らした。今の自分にとって、光を反射するものはすべて、自分を監視し、引きずり込もうとする敵だった。

 リビングで母親が、洗濯物を畳みながら結城に背を向けたまま声をかける。


「おかえり結城。……さっき言ってたクリーニングの件、明日でもいい?」


「……クリーニング? 何の話?」


「あら、さっき一度帰ってきたときに自分から言ったじゃない。『制服の予備をクリーニングに出しておいて』って。

 今まであんなに着方にこだわってなかったのに、急に『第一ボタンの位置をミリ単位で調整したいから、アイロンをピシッとかけてほしい』なんて言うから、びっくりしちゃったわよ。あなた、急にどうしたの?」


 母親の言葉に、結城は立っていられないほどの眩暈(めまい)を覚えた。

 視界が歪み、世界が反転するような感覚。


(自分は今、学校から真っ直ぐ帰り、玄関を開けて入ってきたばかりだ。さっきとは、一体いつのことだ。

 自分と全く同じ顔をし、自分と全く同じ声で話し、しかし自分よりも遥かに冷徹で洗練された何かが、すでにこの聖域であるはずの家の中にまで、深く侵入している)


 自室に逃げ込み、ドアに鍵をかけ、部屋中の鏡という鏡を布で覆い隠した。

 学習机の小さな手鏡、クローゼットの鏡面仕上げの扉。それらすべてが、自分を監視し、虎視眈々と主役交代の瞬間を狙っている暗黒の穴のように感じられる。

 

(このままではいけない。何が起きているのかを自らの目で突き止めなければ、自分という存在そのものが、朝日を浴びた霧のように消えてなくなってしまう)


 結城は、震える手でカバンを掴むと、夜の帳が下り始めた学校へと再び向かった。

 行くべき場所は、唯一つしかない。あの、すべての発端であり、呪いの中心地である鏡階段だ。


 夜の学校は、昼間とは比較にならないほどの質量を持った拒絶感で彼を迎えた。

 校舎の窓ガラスは冷たい月光を弾き、巨大な黒い墓標のように不気味にそびえ立っている。結城は警備員のライトを避け、死角を縫うようにして旧校舎の西階段へと足を踏み入れた。


 階段を上る足音が、静まり返った廊下に異様に大きく、不気味に反響する。

 コンクリートの冷気が靴底を突き抜け、骨の芯まで凍えさせるようだ。

 一段上るごとに、自分自身の質量が失われていくような、物理法則そのものが希薄になる恐怖。

 三階に続く踊り場に差し掛かったとき、結城の足は氷の彫像のように凍りついた。


 そこには、月明かりを浴びて青白く、まるでそれ自体が一個の生命体であるかのように発光する、あの二枚の合わせ鏡が鎮座していた。


 結城は、吸い寄せられるように、運命の審判を受ける罪人のように、その中心へと立った。

 恐る恐る、鏡を覗き込む。

 反射の層は、以前よりもさらに絶望的に減少していた。


 一枚目。一番手前にいる、怯えきり、今にも泣き出しそうな無様な自分。

 二枚目。その背後にある、暗い廊下の反射。

 ……三枚目はない。


 鏡の中の空間は、わずか二枚目の反射で唐突に途切れ、その先は光の粒子さえもを通さない、粘り気のある濃密な漆黒に塗りつぶされていた。

 そして、その二枚目の反射の中に、そいつはいた。


「……お前、誰なんだよ……!」


 結城の声が、踊り場の冷たい空気の中で力なく霧散した。

 そこに映っているのは、間違いなく結城自身の顔をしていた。だが、その結城は、彼がこれまでの人生で一度もしたことがない、異質な格好をしていた。

 制服のネクタイを異常なほど短く、そして喉が潰れるほどきつく締め、第一ボタンを外して襟を鋭い角度で立てている。胸元には、見たこともない、銀色の歪な幾何学模様のバッジが、月光を反射して怪しく留められていた。


 そして何より、その態度だ。

 鏡の中のそいつは、結城の目を真っ向から、魂を射抜くような鋭い視線で見据えながら、口角を醜く、三日月のような形で吊り上げていた。


「お前が僕の真似をしているのか? 田中にメッセージを送ったのも、母さんにクリーニングを頼んだのも、全部お前なのか! 僕の代わりに、外を歩き回っているのはお前なのか!」


 結城は鏡に向かって怒鳴った。それは恐怖を打ち消すための、そして自分の存在を確認するための、無防備で悲痛な叫びだった。


 その瞬間。

 鏡の中の、二枚目の自分が、ゆっくりと、しかし意志を持って動いた。

 現実の結城は、両手を握りしめ、肩を震わせて立ち尽くしている。だが、鏡の中のそいつは、結城とは全く違う動線を描き、ゆっくりと右手を持ち上げた。

 まるで、こちらの無様な反応を心底愉しんでいるかのような、粘り気のある、それでいて洗練された優雅な動作。


 そいつは持ち上げた手を、自分の首のあたりに持っていき、ネクタイをさらに強く締め直す仕草を見せた。

 その動きに呼応して、結城の現実の首筋に、見えない鉄の縄で絞められるような、激しい圧迫感が走った。


「がっ……、あ、は、ぁっ……!?」


 肺に酸素が供給されず、視界がチカチカと火花を散らす。結城は自分の喉を必死に掻きむしり、その場に膝をついた。

 鏡の中のそいつは、悶え苦しむ結城を至近距離から冷徹に眺めながら、さらに深く、顔の皮が剥ぎ取れんばかりの残忍な笑みを刻みつけている。

 声は聞こえない。だが、結城の頭の中に直接、その笑い声が氷の(くさび)となって、無慈悲に打ち込まれる。


 やがて、そいつは満足したようにネクタイから手を離した。首の絞めつけがわずかに緩み、結城が必死に空気を吸い込もうとした、その時だ。

 自由になったそいつの手が、今度は鏡の表面に、内側からそっと、愛おしむように触れた。


――トントン、トントン。


 硬質なガラスを叩く音が、物理的な衝撃波を伴って踊り場に響いた。

 あり得ない。鏡の向こう側に実体のある空間など存在するはずがない。だが、鏡の中のそいつは、そのまま鏡面を融解させ、こちらの次元へと這い出してくるかのような勢いで、顔を突き出してきた。

 鏡面越しに至近距離で向き合う、自分と、自分。


 そいつの瞳の中に、無数の結城が死んだ魚のような、空虚な目をして、永遠の列を作って並んでいるのが見えた。

 その列の先頭が、今まさに、空席になろうとしている。

 自分の場所が、奪われようとしている。


「やめろ……来るな!! お前なんかに、僕の代わりをさせてたまるか!!」


 結城は全力で鏡の支配空間から飛び退いた。

 恐怖がリミッターを突破し、全身の筋肉が激しい痙攣を起こす。彼は階段を転げ落ちるようにして下り、一階の廊下へと逃げ込んだ。

 ハァ、ハァ……という自分の荒い、そして無様な呼吸だけが、暗い校舎に反響する。

 逃げなければ。ここから、一刻も早く出なければならない。


 彼は玄関を目指して、闇に沈んだ、底の見えない廊下を必死に走った。

 だが。

 曲がり角の先。月明かりがチェス盤のような無機質な模様を床に作っている窓の下に。

 ――立っていた。


 そこには、つい数秒前まで鏡の中にいたはずの、あの完璧な身なりの結城が、壁にもたれかかり、優雅に足を組んで立っていたのだ。

 ネクタイを短く締め、襟を立て、銀色のバッジを月の光に反射させて。


 そいつは結城の姿を認めると、「待っていたよ」と言わんばかりに、首をコキリと九十度近く、不自然な角度まで傾けた。


「ひっ……あああああ!!」


 結城は絶叫し、反対方向へと狂ったように走り出した。

 心臓が、破裂しそうだ。足がもつれて何度も転倒し、掌の皮膚を擦り剥くが、その痛みさえもはや現実感を伴わない。

 だが、逃げた先。階段の踊り場。昇降口の影。理科室の扉越し。

 どこを見ても、そいつがいた。

 一瞬だけ視界の端を通り過ぎたかと思えば、次の瞬間には反対側の壁から上半身だけを、重力を無視して突き出している。


 それは幻覚なのか。それとも、現実の空間そのものが鏡の論理に完全に侵食され、あちら側の可能性が、こちら側に溢れ出しているのか。


 結城は必死の思いで外へと飛び出し、駐輪場に置いてあった自転車を、鍵を外す手ももどかしく漕ぎ出した。夜の街を、狂気に駆られたように全力で疾走する。背後の闇から、無数の自分の視線が突き刺さるのを感じながら。


 自分の部屋のドアに飛び込み、内鍵をかけ、さらに重いタンスをドアの前に全身の力を込めて引きずり寄せた。部屋の隅で、膝を抱えてガタガタと、歯の根も合わないほど震え続ける。

 不意に、床に落ちていたノートが目に入った。

 昼間、自分の筆跡が変わってしまったことに絶望して放り出した、あのノートだ。


 そこには、昼間に刻まれた『交代まで、あと少し』という不気味なメッセージの下に。

 さらに新しく、あの鋭利な、カミソリのような筆跡で、震える指先では到底書くことのできない完璧な書体で、こう書き加えられていた。


『今夜、お前の生きてきた記憶のすべてを、こちらの側へ完璧に写し取った。準備はすべて整った。

 明日からは、僕が本物として、お前よりも遥かに上手く、美しく生きてやるよ。』


 結城は悲鳴を押し殺し、ノートをズタズタに、粉々になるまで引き裂いた。

 だが、その背後から、クローゼットの扉にはめ込まれた小さな鏡を、内側から「コツ、コツ、コツ」と、一定の、そして冷酷なリズムで叩く音が聞こえてきた。


 あいつらは、もう扉のすぐ裏側にまで来ている。

 自分の人生という名の唯一無二の舞台から、主役であるはずの自分自身を冷酷に追い出し、完璧な代役にすり替えるために。


 結城は、自分の意識が急速に薄れ、鏡の奥の、あの救いのない漆黒へと引きずり込まれていくような底知れぬ恐怖に、ただ声をあげて泣くことしかできなかった。


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