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僕が僕を捨てた日、鏡が笑った ~鏡の中の僕に居場所を奪われる話~  作者: 都桜ゆう


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第二章:七不思議の噂

 翌朝、結城は猛烈な、そして逃げ場のない頭痛とともに意識を浮上させた。

 こめかみの奥を錆びた鈍い杭で執拗に打ち続けられているような痛みは、昨夜、あの旧校舎の深淵で味わった極限状態の緊張がもたらした、呪いのような残滓(ざんし)だろうか。


 カーテンの隙間から容赦なく差し込む五月の鮮やかな朝日は、あまりに健康的で、昨日の旧校舎での出来事をすべて質の悪い白昼夢か、あるいは一時的な精神の錯乱へと強引に押し流そうとしているようだった。


「……夢だ。あんなもの、あるわけがない」


 自分自身に言い聞かせるように、震える声で呟く。

 洗面台の鏡の前で、結城は自分の顔を、まるで未知の生物を確認するかのようにまじまじと見つめた。

 鏡の中の自分は、自分と同じように酷い寝癖のついた髪をいじり、自分と同じように、睡眠不足で腫れぼったい眠たげな目を擦っている。瞬きをすれば、光の速度で同時に瞼が閉じ、口を動かせば、一分の狂いもなく同時に動く。


 当たり前だ。これが世界の揺るぎないルールであり、普遍的な物理現象だ。

 結城は冷たい水で、感覚が麻痺するまで何度も顔を洗い、鏡の中の反射に、昨夜のような忌まわしい意思が宿っていないことを、強迫観念に駆られたように繰り返し確認した。

 それでも、タオルで顔を拭う、ほんの一瞬の暗闇でさえ、何かが鏡の奥から自分を値踏みするように見つめているような気がして、彼は逃げるように洗面所を後にした。


 学校への道のりは、昨日と何ら変わることのない、ひどく退屈で平穏な風景だった。

 通学路を足早に急ぐ中学生の群れ、無機質な表情で信号待ちをするサラリーマン、コンビニの自動ドアが開く乾いた音。それらすべての平穏な日常の断片が、結城にとってはどこか薄っぺらな書き割り、あるいは急造されたセットのように感じられた。

 自分だけが、そのセットの裏側に隠された毒を見てしまったかのような、耐え難い疎外感が胸を締め付ける。


 教室に入ると、いつも通りの喧騒が彼を無遠慮に迎えた。

 一限目のチャイムが鳴るまでのわずかな時間、教室のあちこちで、世界の終わりなど露ほども疑わないような、くだらない雑談が花を咲かせている。

 結城は重い身体を引きずるようにして自分の席に座り、震える手でカバンから英語のテキストを取り出した。


 昨日、わざわざあの異界と化した旧校舎まで取りに戻った、あのテキストだ。

 指先に伝わる表紙の無機質な質感、使い古された紙の僅かな匂い。それは確かに、彼が命からがら現実に持ち帰った確固たる物証のはずなのに、それを持って通りかかった、あの階段での出来事だけが、現実味を失って不自然に宙に浮いている。


「おはよ、結城。……なんか、顔色悪くない? 徹夜でゲームでもしてた?」


 隣の席の佐々木が、面白がるような、茶化すような声をかけてきた。

 新しいもの好きで、他人の些細な変化を鋭く嗅ぎ取る彼女らしい、デリカシーのない問いかけだった。その斜め後ろでは、自分のスマートフォンを無心にいじっていた田中までもが、佐々木の声に釣られたように手を止め、興味深げにこちらを振り返っている。


「いや、ちょっと寝つきが悪かっただけだ」


「ふーん、相変わらずテンション低いね。……あ、それより。今ちょうど田中と面白い話してたんだよ。ね、田中?」


 佐々木は振り返って田中に同意を求めたが、彼が口を開くより先に、その手からスマートフォンを、まるで自分の物のようにひょいと奪い取った。そのまま身を乗り出し、発光する画面を結城の目の前に、強引に突きつける。


「ほら、これこれ! 見てよ結城、これ面白くない?」


 目の前に押し付けられた画面には、生徒たちが匿名で不気味な書き込みを繰り返している掲示板やSNSをまとめた、いわゆる学校の怪談まとめサイトのようなページが表示されていた。

 田中はスマホを奪われたことに一瞬面食らったような、不服そうな顔をしたが、すぐに諦めたように肩をすくめ、椅子の背もたれに深く体を預けてこちらを眺めている。


「これ、見て。うちの学校の新・七不思議。誰が言い出したのか知らないけど、最近急に投稿が増えてるんだって」


「七不思議……?」


 結城の喉が、引き攣るように鳴った。


「そう。定番の理科室の首なし模型とか、夜中に歩くと数が増える階段の段数とかに混ざって、一つだけ新しいのが入ってるの。ほら、ここ。……鏡階段」


 その瞬間、結城の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの音を立てて跳ねた。

 スマートフォンの液晶画面に並ぶ無機質な文字の羅列が、まるで意志を持った歪んだ虫のように這い回り、彼の網膜を侵食していく。


「……どんな噂なんだ、それは」


「それがさ、全然はっきりしないんだよ」


 田中が、横から退屈そうに口を挟んできた。


「旧校舎のどこかの階段に、大きな鏡が突如として現れるっていう、ただそれだけの、オチも何もない噂なんだ。

 普通、怪談ってのはさ、それを見たら一週間以内に死ぬとか、鏡の中に引きずり込まれて異世界に行っちゃうとか、そういう扇情的なオチがあるだろ? でもこれにはそれがない。ただ鏡がある、それだけだ。

 しかも、誰もその正確な場所を特定できてないんだよ。資料室の近くだって言うやつもいれば、進路指導室の横だっていうやつもいる」


 佐々木が、スマートフォンの画面をスクロールさせながら言葉を続ける。


「投稿してる人も、みんな結局は聞いた話なんだよね。

 友達の友達が見たとか、部活の先輩が言ってたとか。実際に私がこの目で見たって断言してる書き込みは、今のところ一つもないの。だから、誰かが注目を集めたくて適当に作った嘘なんじゃないかって、田中と話してたところ」


 結城は喉の奥が、砂を飲み込んだかのように異常に乾くのを感じた。

 彼は激しく迷った。ここで「僕は昨日、まさにその鏡を見た」と言えば、この全身を蝕む得体の知れない不安を、誰かと共有できるのではないか。誰かに「それはただの鏡だ、目の錯覚だ、怖くない」と、無理にでも笑ってほしかった。


「……昨日、僕、見たよ」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、そして惨めに震えていた。佐々木と田中が、一瞬だけ、真空に晒されたかのように動きを止めた。


「え、何? なんて言ったの?」


「旧校舎の、西側の端にある階段だ。二階と三階の踊り場。そこに、巨大な黒い枠の鏡があった。二枚、正確に向かい合わせになって置いてあったんだ。……完璧な、合わせ鏡の状態で」


 一瞬の沈黙。重苦しい沈黙が教室の喧騒を切り裂いた。

 次の瞬間、田中が耐えきれないといった様子で、噴き出すように笑い出した。


「おいおい、結城! お前、そんな真面目な、死にそうな顔してボケるやつだったっけ? 勘弁してくれよ、マジで信じそうになったじゃんか」


「冗談じゃない! 本当に、この目で見たんだ。趣味の悪い植物みたいな、のたうつような彫刻がしてあって、すごく古い、呪われたような感じの鏡だった……」


「結城、落ち着きなよ」


 佐々木が、呆れたような、それでいて心の底から心配そうに眉を寄せて彼を遮った。


「私、昨日、まさにその西階段を使ったんだよ。六時間目が終わった後に、一人で資料室に備品を戻しに行ったもん。鏡なんて、一枚もなかったよ? 大きな鏡が二枚もあったら、流石に気づかないはずないでしょ」


 結城の思考が、音を立てて停止した。


「……なかった? そんなはずはない。僕がそこを通ったのは、四時半を過ぎた頃だ。佐々木が資料室に行ったのは、その前だろ?」


「そうだよ。四時過ぎくらい。でも、あの狭い踊り場に、あんたが言うような巨大な鏡が二枚もあったら、絶対に気づくって。

 掃除の時にも邪魔になるし、そもそもあの階段の構造上、そんな鏡を置くスペースなんてどこにもないでしょ。物理的に無理だよ」


「いや、でも、僕は確かに……この目で……」


 そう言って言い淀む結城を、椅子にふんぞり返っていた田中が、ここぞとばかりに茶化してきた。


「お疲れなんだよ、結城。最近、進路希望調査の提出とかで、色々と思い詰めてたんじゃない? 将来のこと悩みすぎて、脳がオーバーヒートしてバグっちゃったんだよ、きっと」


 田中の軽薄な言葉に、隣で佐々木も「そうそう、休養が必要だよ」と楽しげに同意の笑い声を上げた。


 結城はそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。

 二人の言葉は、悪意のない、彼らにとっては純然たる真実として響いていた。彼らにとって、あの西階段はただの薄暗い、古い階段に過ぎない。鏡などという不気味な異物は、最初から存在しない世界――彼らは、その平穏な世界に生きているのだ。


(じゃあ、僕が見たあの悍ましい光景は、何なんだ?

 僕が見ているこの世界は、こいつらが見ている世界と同じものなのか?)


 授業中、結城の頭の中は鏡のことで埋め尽くされていた。

 黒板を流れる数式も、教科書に整然と並ぶ活字も、すべてが鏡の表面を虚しく滑る反射光のように意味を成さない。


 もし鏡が自分の脳が見せた幻覚だとしたら、なぜあんなにも鮮明に、あの木枠のザラついた不快な感触や、鏡の向こう側から溢れ出してきた死を思わせる冷気、そしてあいつの瞬きを、細部まで覚えているのか。


 放課後のチャイムが、別れを告げる葬送の鐘のように鳴り響くと同時、結城は吸い寄せられるように席を立った。


 確認しなければならない。

 もしそこに鏡がなければ、自分はただ精神的に疲弊し、一時的な幻覚を見ただけだ。心療内科にでも行き、薬をもらえば済む話だ。

 だが、もし。もしも、今日もあそこにあれがあったとしたら。


 旧校舎へと向かう足取りは、昨日よりもさらに重く、鉛を詰め込まれたようだった。

 渡り廊下を吹き抜ける風が、湿った土と腐敗した葉の匂いを運んでくる。西階段の入り口に立ったとき、結城は思わず膝が笑い、足がすくんだ。

 薄暗い階段の底から、現実を侵食するような冷たい空気が、蛇のように這い上がってくる。


 一歩、また一歩。

 古いコンクリートが靴の裏で軋む音が、早鐘を打つ心臓の鼓動と完全に同期する。

 二階を通り過ぎ、問題の踊り場が見えてくる角度になった。

 結城は、肺の中の空気をすべて吐き出すようにして、息を呑んだ。


「……ある。やっぱり、あるじゃないか」


 そこには、昨日と全く同じ姿で、あの巨大な二枚の鏡が、逃れようのない運命のように向かい合っていた。

 佐々木が「なかった」と断言し、物理的に置くスペースさえないと言い切ったその場所に、それは泰然として存在していた。

 夕闇の澱の中で、鏡面は鈍い銀色の光を湛え、周囲の影を際限なく吸い込んでいる。


 結城は、震える脚を叱咤して、二つの鏡の間――無限の反射が交差する中心点へと進み出た。

 昨日の恐怖を、どす黒い好奇心が上回っていた。あるいは、この圧倒的な違和感に形を与えなければ、自分という存在が内側から壊れてしまうという、切実な予感があった。


 合わせ鏡の中の世界。

 反射が反射を呼び、永遠に続く光の回廊。

 結城は、鏡の中に映り込む自分たちの数を、震える指先で数え始めた。


 一枚目。一番手前にいる、現実の自分。怯えた顔をして、制服の裾を白くなるまで握りしめている。

 二枚目。少し色を失い、暗くなった自分。

 三枚目。さらに暗く、解像度が落ちて小さくなった自分。

 四枚目、五枚目、六枚目……。


「……少ない」


 結城は喘ぐように呟いた。

 昨日は、視界が許す限りの深淵まで、何十人、何百人もの自分が、蟻の行列のように連なっていたはずだった。

 だが今日は、明らかにその反射の数が激減している。

 わずか十枚目あたりの場所で、鏡の中の空間が、不自然なほどの濃密な、救いのない暗黒に塗りつぶされているのだ。


 鏡の奥にいたはずの無数の自分が、どこかへ消えてしまったかのような。

 あるいは、一番奥にいた誰かが、列を強引に押し退け、現実の境界線に向かって確実に近づいてきているかのような。


 結城は、最も暗闇に近い、一番奥の像に視線を釘付けにした。

 距離は遠いはずなのに、その十枚目の像だけが、異常なほどの解像度を持って目に飛び込んでくる。その像の周囲だけ、鏡の中の空気が熱に浮かされたように歪んでいるように見えた。


(確かめたい。こいつは、本当に自分なのか)


 結城は、一歩だけ、禁忌の鏡へと近づいた。

 鏡面から漏れ出す冷気が、顔の皮膚を針で刺すように攻め立てる。

 彼は震える唇を辛うじて開き、ほとんど音にならないような、微かな囁きを漏らした。


「……聞こえる?」


 その瞬間だった。

 校舎の古い窓ガラスが、ガタガタと激しく、何かに怯えるように震えた。

 風など吹いていない。

 鏡の中。暗がりに最も近い場所に立つ十枚目の自分が。


 ――ピチャリ。


 静かな水面に重い石を投げ込んだような、粘り気のある嫌な音が脳裏に直接響いた。

 鏡の中の像が、ゆっくりと、しかし確実に肩を揺らした。

 現実の結城は、驚愕で心臓が止まりそうになり、硬直したままだ。

 それなのに。

 鏡の中のそいつは、徐々に、徐々に、口の端を耳元まで裂けるほど吊り上げ。

 頬の肉を不自然なほど引き絞って。


 ――笑った。


 それは、結城自身が生まれてから一度も浮かべたことのない、飢えた獣のような、それでいて氷のように冷徹な喜びに満ちた笑みだった。


「ひっ……!」


 結城は反射的に後ずさりし、踊り場から逃げようとした。

 だが、その瞬間、視界の中の合わせ鏡すべてがいっせいに変化した。

 二枚目の自分、三枚目の自分、四枚目の自分……。

 ドミノ倒しのように、順番に、鏡の中の像たちが結城という仮面を内側から食い破り、あの気味の悪い、残酷な笑みを浮かべていく。


 彼らは笑いながら、一歩、また一歩と、こちら側――現実の肉体へ向かって進んできていた。

 反射の層が、また一つ消える。

 一番奥にいた、あの笑う影が、現実と虚構を分かつ薄い硝子の境界線に向かって、確実に距離を詰め、その手を伸ばそうとしている。


 結城は腰を抜かすようにして踊り場を這い出し、もつれる足で階段を転げ落ちるように駆け下りた。

 背後で、鏡が割れるような笑い声を上げている幻聴が、鼓膜を執拗に叩いた。


「あは、はは……クク……見つけた……」


 自分の声。だが、自分では決して出せない、地獄の底から響くような声。

 階段を一段下りるたびに、その声は鮮明になり、重なり合い、旧校舎の空間そのものを埋め尽くしていく。


 放課後の西日に白く焼かれた校庭へと這い出した結城は、心臓が破裂しそうなほどの呼吸を繰り返しながら、一度も振り返ることなく校門へと全力で走った。

 彼の背中には、まだ明るい陽光に満ちた現実の世界とは裏腹に、旧校舎の暗い窓の奥で冷たく光る鏡の反射光が、いつまでも、いつまでも執拗につきまとっているようだった。


 彼はまだ知らない。

 鏡の奥の反射が減ったのは、彼らが消えてしまったからではなく。

 鏡の中の軍勢が、現実という玉座を奪うための優先順位を、ついに決定し終えた合図だったことに。


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