崩壊と混沌
再集合のラッパが響き、パケナムの義勇騎兵隊は徐々に突撃の足を緩め、敵の目の前で反転、大急ぎで軽歩兵中隊が守る安全な森へと駆けていく。
去り際に聞こえた『あたら命を散らすな』というパケナムの声がアルの耳に届いた。
あまりの唐突な反転にマーロウはサーベルを持った手をだらしなく下げてうわ言のようにつぶやいた。
「逃げやがった。目の前で、最高のチャンスを……」
「なんてやつだ、騎兵には逃げ足しか無いのか」デイヴが吐き捨てた。
「ああ、あいつはいつもそうだ、自分の保身と見栄のことしか頭にないのさ」アルは諦めも半ばに言った。
アングリア側に瞬間的な空白があった一方で、海兵の大尉は状況の変化を知ってすぐに突撃を決断した。
騎兵の脅威は去り、味方騎兵の援護もある。海兵団の栄光を遮るものは何もない。
彼は戦闘ではあまり頼りにならなさそうな、細身の剣を抜き放つと命じた。
「突撃!」
攻撃の合図とともに、『国王陛下万歳!』の叫び声が戦場に響き、白服の兵士達は一斉にマーロウ大隊の眼前へと身を投げ出した。
数百の銃剣が光り、星の降る如く輝く。
マーロウ大隊の兵士は目の前に現れた敵に射撃を浴びせかける。腰だめに銃を構えた敵は気が狂ったかのようこちらに突進する。
両者の間に何も遮る物はなく、敵はこちらの銃撃を受けるたびに数名が倒れるが、続く兵士は倒れた者を踏み越えて、速度を落とさず突っ込んでくる。
マーロウはこちらに向かってくる刃を見て、再装填の時間はもはやないと判断、白兵戦の準備を命じる。
「射撃やめ! 銃剣構え!!」
太鼓がタタタと三回短く鳴り、アングリアの兵士は銃の台尻を持ち上げ、肩の高さまで水平に構えた。
もう敵との距離は十数歩もなかった。アルは凶器を手にこちらに切りかかってくる敵の歪んだ顔がこれほどのものとは思わなかった。
敵の攻撃を迎え撃つマーロウ大隊は敵との射撃戦で少なくない損害を受けた結果、恐怖が蔓延し始めていた。
逃げ出したいという欲求と、逃亡者を処刑すべく、彼らを見張る軍曹への恐怖がせめぎあう。
雄叫びを上げながら向かってくる敵を目の前に見た時、多くの兵士の中でその均衡が崩れた
隊列の中から一人、また一人と隊列を抜けて逃亡する者が出てきた。
「まずいぞ、相棒」横目に見ながらアルは冷や汗を感じた。
「ああ、あいつは馬鹿だ、皆で逃げりゃうまくいくってのによ」
「すぐに皆で逃げることになるぞ!」
最初の男はすぐに軍曹に止められ、顔をぶん殴られて無理やり隊列に戻された。その時、敵の砲弾が、隊列の左翼を直撃し、五六人の兵士をさらっていった。
誰もが限界だった。
同時に数十人規模で逃亡が始まり、それが隊列全体に波及した。軍曹たちはもはや誰を止めればいいか分からない様子で兵士が逃げるのを見ていることしか出来なかった。
横隊は崩れ、かろうじて統制を保っていたマーロウ大隊は、遂におのおのが恐怖に取り付かれ、逃げ惑う羊となった。
「逃げろ!」誰かが叫ぶ声がこだまする。
逃げる背中ほど刺しやすい物はない。マーロウ大隊の兵士達はすぐに追いつかれ殺されていく。アルの周りは乱戦状態だ。
海兵団だけでなく、ドスタンの軽騎兵がバラバラになった民兵達をなで斬りにしていった。
組織的な抵抗はほとんど出来ず、唯一、マーロウと部下の士官たちが軍旗を中心に小さな円陣を組み、敵の只中で孤軍奮闘していた。それも執拗な敵の攻撃にさらされて何とか持っている、という状態だった。
「大隊は再集合せよ!」逃げる兵士に向かってマーロウが何度も叫んでいた。
それを見たアルは右手で大きなナイフを取り出し左に銃を持つとデイヴの腕を引き寄せた。
「俺のそばを離れるな」
「お前、正気じゃねぇ。周りは敵だらけだ」
「切りひらくまでだ」
アルはぐるっと周りを見渡した。できるだけ派手な奴がいい。金モールに、精緻を凝らしたレース飾り――
「見つけた」アルの視線の先、数十歩の所にラゴールの士官が兵士を鼓舞するのが見えた。
「中尉か、大尉か……」アルはマスケットを構えて撃鉄を起こした。普段使いの猟銃に比べれば精度は格段に劣るが、この距離ならこいつで十分だ。
アルは息を吐きながら狙いを定め、肺から空気がなくなった瞬間に引き金を絞った。
乾いた銃声は戦場の喧騒の中にかき消され、敵の士官は胸に銃弾を受けて膝を付き、崩れた。周りにいた兵士数人が彼に駆け寄る。まだ息があるようで、すぐに運ばれていった。
アルは打ち終わったマスケットをデイヴに渡すと彼の持っていた方のマスケットに手を出した。
「俺が撃つから再装填してくれ」
「あ、ああ――」
アルは無心で撃った。より派手な、よりモール飾りの多い服を探し、二人ほど狙撃した。
「すごいじゃないか――」
「走るぞ」デイヴの賞賛の声を遮ってアルは先をみた。
敵の士官が複数倒れたことで敵に混乱が生じ、追撃が鈍った。マーロウの周りを取り囲んでいた敵もまばらになり、アルは彼に近づく事ができた。
アルがナイフと銃剣で敵兵士をなぎ倒し、かき分けるようにして進み、その背中をデイヴがおっかなびっくり守る。
「行け(アレ)! 行け(アレ)!」
ラゴール語の叫び声にアルは振り向いた。敵とその視線がかち合う。
だが、そこにいたのはバイユだった。彼は今まさに部下に発砲の命令を下す瞬間だった。
互いに居るはずのない顔を見て驚きを隠せなかった。アルは凍りついたように動けず、バイユも命令を下すことが出来なかった。
「あっちだ、行くぞ!」
短い沈黙の後、最初の目をそらしたバイユは、部下を急き立てて、別の逃げるアングリア民兵を追った。
「今の危なかったな」
「ああ、奇跡か? いやこの混乱だ。誰の頭のなかだって混乱する」アルは独り事のように返す。アルは今の不可解な出来事を飲み込めずにいた。
(見逃された? 勝敗もついてないのに?)
この混乱の中ではまだ生きている、という単純な事実だけがあれば十分だった。二人は再び走りだした。人の群れをかき分け、死体につまづきながら軍旗に近づいた。
この混乱の中で軍旗は暴風雨の海に投げ出されたボートのようだった。一部の者はそれにすがり、助けを求める。
なんとか辿り着いた時には円陣に五人しか残っていなかった。マーロウは頭から血を流し、軍旗にもたれかかるようにして、かろうじて立っていた。
「何しに来た? もう我が隊は全滅だ。ここにはあるか分からない名誉を気にする人間しかいないぞ?」
「本国の人間らしい言い方だ」
「そうかもな。だが運がいい。敵もだいぶ士官が倒れたみたいだ。敵も混乱してすぐには手を出せない。まあ、言い換えれば、じわじわと殺されるわけなんだが」
「敵の士官は俺がやった」
「本当か?」
「こいつの腕は本物だよ」デイヴが援護した。
アルは質問に肩をすくめて答えた。
「謙遜しないところがいかにも開拓民らしいな。悪くない」
マーロウは咳き込むと、足で地面を指した。そこには十挺あまりのマスケット銃が転がっていた。
「ただでは死なないぞ。これを見ろ、民兵が一発も撃たないで捨てていった銃だ。これを全部撃ってから死にたい。もしかしたら、敵の大将に当たるかもしれないだろ?」
アルは力なく笑ったが、マーロウは本気のようだった。サーベルを地面に突き刺すと、周りを取り囲む敵兵にマスケットを打ち込んだ。
硝煙と土煙を渦巻く中、遠くの空から聞きなれないラッパの音が聞こえてきた。敵は攻撃を控え、何歩か後ずさりする。
「さあ、最後の戦いだ。お迎えはどうやら馬に乗った死神のようだぞ!」
銃を撃ち尽くしたマーロウが叫んだ。
馬の蹄の音が徐々に大きくなってくるのが分かる。もはやどうしようもない。残った兵士達は硝煙の中から敵の騎兵が出てくるのを待った。
やがて蹄が地面を削る音がやみ、何頭かの馬が鼻を鳴らすのが聞こえた。霧のような煙の切れ目からドスタンと彼の部下の軽騎兵がずらりと勢揃して待ち構えていた。
「おお、元気か密猟者」
「まさかあんたに殺されるとはな」
「命乞いしたらどうだ? まあいい」
そう言って、ドスタンはマーロウの方を見た。
「降伏しろ、アングリアの大尉」ドスタンはマーロウに言った。
「旗手が軍旗を捨てて降伏できるか、殺して奪い取れ!」
「ではそのように」
ドスタンは向き直るとラッパ手に命じた。
敵のラッパが何度か鳴り、四方八方から敵が殺到してきた。
「軍旗を奪われるのだけは避けたかった……」
「俺達、もうダメか? アル」
「わからない、だから戦うんだ!」
戦場は混迷を極めていた。少なくとも、左翼では敵味方入り乱れ、統制のとれた集団戦はどこにも見受けられない。自らの命を守る為だけに怒りに任せ、個々の暴力を集めた混沌の渦となって戦場を埋め尽くしていた。
敵は同士討ちを嫌って発砲してこなかった。歩兵は銃剣で突き、騎兵は追い抜きざまに切りつけてきた。
七人の男たちはお互いの死角を補いあって、簡単には死をもたらす敵の刃を近づけはしなかった。
だが、一人がやられ、その穴を埋める暇なくまた一人と、いう具合に削り取られていった。
人数が減っていく中アルは自分の目の前の敵を次々と倒していった。ラゴール歩兵が姿勢を低くしてこちらに突っ込んでくる。銃剣がアルの胸をかすめる。それを振り払うとアルは相手の懐に入り込み、ナイフを突き立てた。
終わりが近づいていた。
マーロウは太ももに銃剣の突きを食らって膝を折った。彼は血走った目でアルが致命傷を負っていないのを見て、彼に言った。
「これを預かってくれ。大事なものだ」
「こんな紙切れが……」
「時間がない! これは保険だ、いいな。すべてが終わって、お前が生きていたら、これをマクルーアン総督に見せろ。いいな」
そう言ってアルの服の中に強引にねじ込んだ。
残った彼の部下も敵の刃のもとに倒れていく。
気が付くと隣にいたデイヴが悲痛な叫びを上げていた。彼の脇腹にはアルがかわした銃剣が刺さっていた。
「アル……」
「ああ、なんていうことだ! すまない、すまない」
「良いんだ、遅かれ、早かれ……」
その後は言葉が続かなかった。アルは彼の身体を抱きかかえ、戦いも忘れて涙した。
自分はもう死んでもいい。かつての父のようにデイヴも助けることが出来なかった。キアラ、彼女も、もう……。
アルはマスケット銃を手放し、両手で胸元のペンダントを握りしめた。
そして目をつぶって静かに死を待った。悲しみのあまり彼に近づく騎馬がいることも分からずに。