槍の名誉
アルは不意に浮き上がる感覚に襲われた。デイヴの身体は離れ、今まで信じていなかったにもかかわらず、自分が天に召されるのだとそう思った。
だが奇妙な事に、その上昇はほんの一瞬のことだった。目を開けると自分は宙を浮きながら高速でどこかへ移動しているのに気がついた。
「遂におれも魔法が使えるようになったってか!」混乱のあまり、アルは叫んだ。
「喚くな! ……まったく、こんなのは二度とごめんですな、姫様!」
「彼を離しては駄目よ!」
「アニエスか!」
聞き覚えのある声を聞いて、彼は後ろを振り向いた。アルはぶら下がるようにしてユゼフに襟を掴まれていたのだ。
彼は右手に長槍と手綱を操りながら、アルを左手で安々と掴みあげたのだ。年老いた身体の一体どこにそのような力が宿っているのか、不思議でしょうがなかった。
「早う後ろに乗らんか、老兵に無茶させおって」
「俺は馬に乗れないんだ!」
「ここで捨ててくぞ!」
「わ、分かった」
アルはユゼフの腕をよじ登り、馬の背に腰を落ちつけると、彼の背中にしがみついた。馬体が動く感触が直に伝わり、アルはかつての落馬を思い出して戦慄した。
アルは馬上から辺りを伺って、そして状況を理解した。
アルのいた円陣が敵に蹂躙される、まさにその時にポスナニアの槍騎兵が間に合ったのだ。
赤い槍騎兵が次々と抜き去っていく。
彼らは円陣を追い越し、菱型の密集隊形で突撃し、包囲する敵に楔を打ち込んだ。
彼らの突撃は歩兵だけではなく、軽騎兵にも絶大な効果を上げた。
多くの国の騎兵が、火器の発達によって重く、扱い難い長槍を捨てた。
その時代に唯一捨てなかったのが、彼らだ。
ポスナニアの槍騎兵の使う長槍は他のどんな騎兵の使う剣よりも間合いが長かった。彼らはいかなる場合も、その絶対的な間合いの差を活かせる最初の一撃にすべてを込めた。
ポスナニアの鋭い穂先が、敵騎兵の柔らかい懐へと吸い込まれていく。
馬の突進力、体重が乗った槍は馬上の敵を鞍の上から弾き飛ばすほどの威力だ。最初の突撃で槍が折れるもの何人もいた。彼らは折れた槍を捨て、深い反りの入ったサーベルを引き抜くと、敵兵の海の中へ斬りこんでいった。
先陣を切って馬を駆るアニエスの視線の先にドスタンがいた。
混沌の中にあって一瞬、二人の視線がかち合った。
「わざわざのお出ましとは恐れいる、お嬢さん」
「私の物を返してもらうわ」
お互い声でやりとりするには十分な距離だが、槍も剣も届く距離ではない。乱戦の中、アニエスは敵に近づくことが出来なかった。
戦場の急変は二人に次の決断を催促する。
槍騎兵の決死の突撃で、一時的にだが、敵は一掃された。あたりに残るのは両軍兵士の哀れな死体が折り重なったものだけだ。
「これを、頼む!」
叫び声が聞こえてアルが振り向くと顔を血で染めたパケナムが天に掲げるがごとく絞り軍旗を騎兵に差し出した。
足をガクガク言わせ、最後の力を振り絞ってのことだ。
後ろから追いついた槍騎兵が抜き去ると同時に軍旗を取り上げると、マーロウは満足気な表情を浮かべて地面に崩れた。
軍旗が回収されるのを確認したアニエスは、なおもドスタンを睨み続ける。しかし、敵の優勢は如何ともし難い。
「ラッパ手、退却を」
アニエスは興奮して頭を上下に揺さぶる愛馬をなだめつつ言った。
もはや円陣のあった場所には誰一人として立っているものはいなかった。敵味方の騎兵に踏み荒らされ、マーロウ大隊が存在していた痕跡すら消し去られてしまった。
馬上のアルからその光景がどんどんと遠く離れていく。
槍騎兵はマーロウの手にしていた軍旗を回収するや、九十度左に曲がって戦場から遠ざかって行く。
退却のラッパが響く中、倒れたデイヴや、マーロウの姿が瞬く間に小さくなり、景色に同化する。そんな光景をアルは直視できなかった。
「彼らを助けてくれ! きっとまだ生きてる!」
並走するアニエスにアルは叫ぶ。
「そんな余裕は無いわ!」
アニエスはアルの願いを聞き入れることは出来なかった。
勢力を落としたとは言え、第一波、第二波と、津波のように敵の横隊はこちらへ向かって前進してきている。
むしろ、この突撃が成功したのがほとんど奇跡に近い。
「この混乱は一時的なものよ。敵が体勢を整える前に、安全な所へ撤退するわ」
「聞いてくれ、マーロウはパケナムに騙されたんだよ。このまま死ぬには――」
「あんな死の渦巻く場所で長居なんか出来ない、こっちまで全滅してしまう。助けようがない」
「薄情だな。いや計算高い」アルの漏らした言葉には皮肉がこもっていた。
アニエスはその言葉を聞いて、苛立ちもあらわにアルに向かって言った。
「私が受けた命令は軍旗の回収だけよ。それがどういう意味か分かる? ギリギリの状況で、貴方が助からなくてもおかしくなかった」
アニエスが激しい感情を見せたのはこの時が初めてだったかもしれない。戦場の熱気と興奮も作用しての事だ。
「私が彼でも、同じように自分の命より軍旗を優先したわ! 彼の最期の言葉を聞いたでしょ?」
忘れもしない。マーロウが軍旗を騎兵に渡す時に見せた、何かを遂げた者が見せるささやかだが満足気な笑みを。
アルは再びマーロウの最期を思い出すと何も言い返すことが出来なかった。
「軍人とはそういうものなの」
「じゃあ、なぜ俺を助けたんだ?」
彼女が言うことが本当なら、アルはあの時に死んでいてもおかしくないはずだ。
言葉に詰まったのか、少し俯いてからアニエスが答えた。
「貴方は、まだキアラを助けてないわ」
「昨日は反対していたのに」
「それは堡塁にいた方が安全だと思ったからよ。だけど状況が変わってしまった」
堡塁は占領され、マーロウ大隊は壊滅した。もはや戦場に安全地帯はない。
「そろそろ本陣に到着します」ユゼフの太い声に二人は会話を中断させた。
槍騎兵の隊列は細い谷間を抜けて、本陣のある丘のふもとについた。ここは砲弾が直接飛んでこない数少ない場所で、騎兵の再集結地点になっていた。
あたりには補給用の砲弾や火薬を積んだ馬車がまばらに止めてある。
「本隊に報告します。軍旗を回収したのは?」
「カチンスキ伍長です」
「よろしい。では、貴方と伍長は私に続くように。部隊は丘の影で待機」
「了解しました」
アルは馬の上から降りてその場を去ろうとしたがアニエスに簡単に見つかってしまった。
「アルも同行しなさい」
「……ああ」
有無を言わせない彼女の視線にアルは従うよりほか無かった。




