第九話 嵐の前の静けさ
「ノアさん。……少々、きな臭いことになっています」
オーク材の重々しい扉が静かに開き、入ってきたのは、かつて公爵家の極秘ベビーシッターへと転身した、元・一流暗殺者のヴァルカスだった。
公爵家から支給された仕立てのいい灰色の訪問着に身を包んだヴァルカスは、周囲の気配を探るように一度扉を閉めると、足音ひとつ立てずにノアのデスクへと歩み寄った。
部屋を包む香ばしい茶葉の香り。
部屋の隅に鎮座していた巨躯を持つケルベロス、ポチが、三つの大きな鼻先を器用に突き合わせると、湯呑みを載せた小さな丸盆をスーッと床の上へ滑らせてくる。
「かたじけない、ポチ殿」
ヴァルカスは慣れた手つきで湯呑みを受け取ると、一口含んで静かに息を吐いた。かつての刺々しい殺気は影を潜め、公爵家での穏やかな日々が窺えるが、その眼光だけは鋭く澄んでいる。
「ノアさん。王都直属の暗部が本格的に動き出しました。誠か嘘か分かりませぬが……神国と王国の最高情報機関が極秘裏に手を組んだとも聞きます。私のような元・裏稼業の人間のもとにも、莫大な懸賞金とともに『噂』の情報提供の打診が回ってきています」
ヴァルカスは静かに身を乗り出し、ノアの顔をじっと見つめた。
「あなたはこの王都の裏も表も知り尽くしている。だからこそ、一応の警告に来ました。街の至る所で極秘の検問と張り込みが始まっています。……あなたのように、理由ありの者たちを集めて『窓口』をやっているこの場所も、じきに上の連中の調査対象に入るはずです」
王都の命運を左右しかねない、冷たく張り詰めた空気。
だが、ノアは静かに微笑むと、冷めかけた自分の茶を一口すすっただけで、まばたき一つ変えなかった。
「ヴァルカスさん。坊っちゃまは元気にしていますか?」
「は……? ええ、坊っちゃまは最近ようやく自分の足でつかまり立ちを……って、ノアさん! 冗談を言っている場合では……」
「ポチのお茶はおいしいでしょう」
「……美味ですが、そうではなく!」
ノアはデスクの上の書類をトントンと手際よく揃えた。
「ヴァルカスさん、お気遣いありがとうございます。ですが、ここでやっているのは仕事を探している不器用な人たちに、新しい場所を見せることだけですから。上が誰を探していようと、私はただのしがない指導員ですよ」
ノアのどこまでも飄々とした態度と穏やかな眼差しに、ヴァルカスは深く溜息をつき、諦めたように肩の力を抜いた。
「……相変わらずだな、小僧。あんたのその底の知れなさだけは……」
ヴァルカスは小さく笑うと、懐から紙包みを取り出してデスクへ置いた。公爵邸のシェフが焼き上げたという特製の干し肉だ。
「ポチ殿、土産だ」
「くぅ〜ん」
ポチの三つの首が嬉しそうに鼻を鳴らし、仲良く干し肉を分け合って食べ始めた。
その時、廊下から控えめなノックの音が響いた。
「失礼します……あの、こちらで仕事の相談ができると聞いて……」
オーク材の扉が数センチ開き、手に分厚い帳簿を抱えた、緊張で顔を青ざめさせた青年が恐る恐る覗き込んでくる。
「おっと、次のお客さんのようです」
「……出しゃばった真似をしたな。ノアさん、ポチ殿、また」
ヴァルカスは気配を完全に消し、すれ違いざまに青年の肩をそっと叩いて部屋を去っていった。青年は「ひやっ」と身をすくめながらも、会釈をして中へと入ってくる。
「ひいいっ!? な、なんでこんなところに化け物がいるんですかぁ!?」
入ってくるなりポチの巨躯を見て腰を抜かしかけた青年へ、ノアは穏やかに声をかけた。
「ポチのお茶、冷めないうちにどうぞ。ようこそ、特別指導課へ。指導員のノア・ヴァレンティです」
青年はおずおずと湯呑みを受け取ると、怯えながらも申し訳なさそうに身を縮こまらせた。
「あ……あの、僕、王立魔導銀行の会計士をやっていたんですが……僕のスキルは、数字の『偽造』や『改ざん』の微細な痕跡がすべて視覚的に浮かび上がって見えてしまうんです。上司の裏帳簿の不正を指摘したら『余計なことを見るな』と追い出されてしまって……」
「なるほど。解析能力ですね。……お名前と履歴書を拝見できますか」
青年は小さく折りたたまれた羊皮紙を差し出した。
【氏名】ルーク(22歳)
【前職】元・王立魔導銀行・監査室(在籍2年)
【保有スキル】『微細構造解析(目視で痕跡を判別する体質)』
【希望職種】静かな場所での帳簿整理、図書の検品
【希望時給】銀貨8枚(正しく数字と向き合えれば……)
ノアは履歴書を目で追い、ふむと顎を撫でた。
「ルークさん。紙やインクのわずかな偽造や違和感を、一目で見抜けるのですね」
「はい……でも、この力のせいで『煙たがれる存在』になってしまって……」
ノアは引き出しの奥から、分厚い封ろうが押された求人票を取り出した。
【求人】王都裁判所・『極秘・古代公文書および密約書の真偽鑑定士』
【業務内容】王都の権利書や他国との外交文書に仕掛けられた、微細な改ざん魔術や筆跡偽造の検出。
【課題】魔導具による鑑定では高度な偽造を見抜けず、誤った裁判や外交問題が頻発。魔道具に頼らず、人間の眼で直感的に微細な嘘を見破れる職人を求める。
【報酬】金貨13枚と銀貨20枚/月(※専用の研究室・書庫支給)
「王都の裁判所が頭を抱えているんですよ。どれほど高度な魔導具を使っても、巧妙な偽造書類を見抜けずに冤罪や利権争いが起きていると。……道具ではなく、自らの眼で紙の傷やインクの残響を完璧に見抜ける人。ルークさん、あなた以外に誰ができますか?」
「え……? 邪魔者扱いされた僕の目が……国の公正さを守る『鑑定』に……!?」
「では、現場へ行ってみましょう」
* * *
数日後。特別指導課。
ドアが静かに開き、ルークが入ってきた。
以前のような怯えた様子はなく、裁判所の立派な鑑定士服を着て、晴れやかな表情を浮かべている。
「ノアさん! 報告に来ました! 裁判所の首席鑑定士として正式に採用されました! 僕の目のおかげで、長年眠っていた偽造文書が何十枚も暴かれたんです!」
「おめでとうございます。裁判長からも感謝の連絡が届いていますよ」
「自分を偽らず、正しさのためにこの目を使える場所を見つけられました。本当にありがとうございました!」
嬉しそうに手を振り、去っていくルークの背中を見送る。
「さて……」
ノアは冷めたお茶を飲み干すと、次の求人票の束を静かに開く。
ノアの視線は窓の外、遠くの街並みと、その上空に広がるどこまでも静かな青空へと向けられていた。




