第十話 結界師
「おい……ここでいいのか?」
オーク材の重い扉が、ガタガタと大きな音を立てて開いた。入ってきたのは、騎士団の胸当てを半分力任せに引き剥がしたような、肩幅のやたらと広い男だった。
短く刈り込んだ硬い髪に、日焼けした額。眉間には刃物で付けたような深いシワが刻まれている。見た目からして偏屈そうな三十代半ばの男。
この男の名はハルツだ。
部屋には、いつも通りの香ばしい茶の匂いが漂っている。
部屋の隅で丸くなっていたケルベロスのポチが、三つの首を器用に動かして丸盆を床に滑らせ、淹れたての湯呑みを差し出した。
「ぬ……っ!? ま、魔界の犬がなんでこんな役所にいる……」
「ポチのお茶、冷めないうちにどうぞ。ようこそ、特別指導課へ。指導員のノア・ヴァレンティです」
ノアはデスクの書類をトントンと手際よく揃え、いつもの調子で声をかけた。
ハルツはお茶を一飲みし、重苦しい溜息をつくと、ドカッと椅子に太い体を預けた。懐からくしゃくしゃになった羊皮紙を取り出して、机の上に放り投げる。
【氏名】ハルツ(34歳)
【前職】元・神国聖騎士団・第三防衛隊(在籍12年)
【保有スキル】『完全音遮断結界(音を100%打ち消す固有魔術)』
【希望職種】夜間の廃坑警備、無人の山林での作業
【希望時給】銀貨6枚(誰の声も聞こえない場所なら……)
ノアは履歴書に目を通し、ふむと顎を撫でた。
「元・聖騎士団の結界士さんですか。12年も前線におられたのに、どうしてまた……」
「使い物にならんからだ!」
ハルツが苛立ちを隠さず、頑丈な拳でデスクを力任せに叩いた。
……だが、奇妙なことが起きた。
木が鳴るはずの『バン!』という音が、まったく聞こえない。それどころか、拳が机にぶつかった瞬間の微かな振動すら、空気の中で消えてしまった。
「……見ただろう。俺の結界は欠陥品だ。敵の剣や魔術を弾く物理結界はまるで張れん。張れるのは『音を殺す結界』だけだ。戦場でこれを出してみろ。味方の悲鳴も、隊長の退避指示も全部聞こえなくなる。『連携を乱す役立たず』と叩かれ、最後は騎士団を追い出された」
ハルツは自嘲気味に吐き捨て、悔しそうに顔を歪めた。
「俺にできることと言えば、誰もいない山奥にでも引きこもって、静かに野垂れ死ぬことくらいだろうよ」
ノアは静かに立ち上がり、冷めかけた自分のお茶を一口すすった。
「ハルツさん。音を完璧に消せるのですね」
「ああ、そうだ。どんな叫び声だろうが爆発音だろうが、俺の結界の内側からは音ひとつ外へ漏れん」
「素晴らしい。本物の『完全』じゃないですか」
ノアはデスクの引き出しの奥から、分厚い羊
皮紙を取り出した。
「ハルツさん。裏を返せば『どれだけ大きな音を鳴らしても、周りに一切迷惑がかからない場所』を作れるということです」
【求人】王立音楽堂 兼 貴族街・『完全プライベート防音施設』
【業務内容】深夜帯における演奏家・作曲家の練習環境の提供。
【課題】王都の夜間騒音防止条例により、夜間の練習が厳しく制限。音楽家たちが練習場所に困り果てている。
【報酬】最低銀貨30枚〜(※広さにより変動あり)/施設一回の使用料(※防音施設の常時維持手当支給)
「王都の若い音楽家たちが困り果てているんですよ。昼は生計のために働いて、夜にようやく大好きな楽器を触れるのに、『うるさい』と警備兵を呼ばれて演奏を諦めている。部屋の外側を一瞬で『無音』に変えられる人。ハルツさん、あなた以外に誰ができますか?」
「は……? 騎士団で邪魔者扱いされた俺の結界が……音楽家のやつらを救う……!?」
「百聞は一見に如かずです。ちょっと現場へ行ってみましょう」
* * *
王都の裏通りにある、古びた木造アパート。
「お願いです……来週のコンクールまでに、この曲を仕上げなきゃいけないのに……っ!」
頭を抱えて泣きそうになっていたのは、若いヴァイオリニストの青年だった。連日の夜間練習に近所からの苦情が殺到し、明日にも部屋を追い出される寸前だった。
「ノア指導員……本当にこんなゴツいおっさんの魔法で、どうにかなるのかよ!?」
「大丈夫です。ハルツさん、いつもの『結界』を、この部屋の外側全体にかぶせてみてください」
ハルツは半信半疑のまま太い手をかざし、魔力を練り上げた。
ふっと、部屋の空気がわずかに重くなる。
「青年、思い切り弾いてごらんなさい」
青年は震える手でヴァイオリンを構え、弓を弦へ激しく叩きつけた。
部屋の中には、耳が痛くなるほどの激しい旋律が響き渡る。
だが、ノアが重い木の扉をほんの少し開けて、外の廊下へ出ると。
ピタッと、音が消えた。
扉一枚隔てただけの廊下は、驚くほどの静けさだった。壁も、窓ガラスすらも、ピクリとも震えていない。
「こんな使い方が……」
ハルツ自身が自分の結界の境界線を触り、呆然とつぶやいた。
部屋の中に戻ると、青年が涙を流しながら、夢中でヴァイオリンを掻き鳴らしていた。
「すごい……! すごいよおじさん! 周りの目を気にしないで、思い切り自分の音を出せる……! 僕の音楽が、死なずに済んだ……っ!」
ハルツの大きな手が、微かに震えていた。
「あ……俺の……騎士団の盾になれなかった結界が……あいつの音を守れたのか……」
味方の足を引っ張るだけだと思い込んでいた力が、若い表現者の情熱を守る「静寂の聖域」に変わった瞬間だった。
* * *
数日後。特別指導課。
ドアが静かに開き、ハルツが入ってきた。
相変わらずの偏屈そうな面構えだが、胸元には王立音楽堂の専属技師バッジが誇らしげに光っている。
「ノア殿。報告に来た。……王立音楽堂の専属音響技師として正式に契約した」
「おめでとうございます。音楽家たちから感謝の手紙がたくさん届いていますよ」
「……フン。音楽家の連中ってのは勝手で困る。『ハルツ先生の結界の中でしか出せない音がある』とか言って、夜の予約が全部埋まっとる」
愚痴をこぼしながらも、ハルツの眉間のシワはどこか柔らかかった。
「お茶、もらうぞ」
ハルツはポチが差し出した丸盆から湯呑みを取り、一口すすってふぅと息を吐いた。
「それと……ノア殿」
「なんでしょう?」
「あの音楽家が『静寂の技師に捧げる曲』を作ったそうだ。……来週のコンクール、あんたも聴きに来るといい」
ハルツは照れくさそうに背中を向け、満足そうに去っていった。
「さて……」
ノアは冷めたお茶を飲み干すと、用意していた次の厚い求人票の束を開く。
窓の外からは、今日も賑やかな王都の雑踏と、風に乗ってどこからか聞こえる微かな弦の音が、穏やかに流れていた。




