第十一話 英雄?
「おい、ノア……! たすけてくれ、マジで限界なんだ……!」
オーク材の重い扉が、ガタガタと乱暴な音を立てて開きかけた。
飛び込んできた男は、すっぽりと深いフードを目深に被り、怪しげな魔導サングラスで顔の半分以上を隠している。だが、鍛え抜かれた彫りの深い顔立ちと、隠しきれない異様なまでのプレッシャーを放つガタイの良さは、どう見てもそこらの人間のものではない。
部屋の隅の影で、三つの首を丸めて眠りこけていたケルベロスのポチが、面倒くさそうに片目だけをカッと開き、その男をじろりと睨みつけた。が、「なんだ、コイツか」と言いたげに再びフンと鼻を鳴らし、ぐうぐうと大きなイビキに戻る。
「ポチのお茶……あれ?ポチ?よ、ようこそ、特別指導課へ。……って、なんだお前か」
「なんだとはなんだよ! こっちは命がけで変装して、宮殿の裏庭からここまで這いつくばるようにして逃げてきたんだぞ!」
男はフードを乱暴に引っペがした。
現れたのは、世間の聖堂や広場の黄金像に必ず刻まれている、金髪碧眼の『伝説の勇者』その人の顔だった。ただ、今のその顔にはひどいクマが張り付き、目は血走ってやつれている。
「どうしたんだ、そんな死にそうな顔をして」
「どうしたもこうしたもあるか! 毎日毎日、朝から晩まで王都のあちこちに引っ張り出されてよ……『英雄様、魔物の残党を退治してください』『記念式典でありがたいお言葉を!』『うちの赤ん坊を抱っこしてください!』って、俺は一日中見世物か!」
勇者は椅子にドカッと重い腰を落とすやいなや、机にガクッと頭を突っ伏した。
「俺がやりたかったのはさあ……昔、国境の小さな酒場で、お前とあのバカと一緒に、不味いエールを回し飲みしながら『あそこの肉屋の親父の頑固さはどうにかならねえのか』って、くだらないことで朝まで笑い合うことだけだったんだよ。なんだあの生活は! 朝から晩まで黄金のピカピカした鎧を着せられて、息が詰まって死にそうだわ!」
ノアはデスクの上の書類から目を離し、湯呑みに注がれた冷めかけのお茶を一口すすった。
そして、やれやれと小さく肩をすくめる。
「まあ、世界を救った伝説の英雄様だからねえ。王国の上の連中も、手放したくなくて必死なんだろう」
「笑い事じゃないだろ! こうなったらもう、俺を別の名前にして、どこかの村の片隅で畑でも耕させてくれ! 仕事を紹介してくれよ、ノア!」
「無理だな。戸籍上、お前はもう『動く国宝』だ。お前が勝手に失踪でもしてみろ、国中がひっくり返って大騒ぎになる」
「くそっ……お前はいいよな、こんな王都の隅っこの、誰も見向きもしない役所のデスクででのほほんと……」
勇者は恨めしそうに目を吊り上げるが、ノアは動じることなく、ただトントンと書類を揃え直した。
「のほほんとはしていないさ。今日もこの後、求人票の仕分け手続きで書類の山だからね。というか、お前、宮殿を抜け出して大丈夫なのか? 代わりの影武者でも立ててきたのか?」
「しっ、でかい声で言うな! 宮殿の訓練場に『今日は瞑想修行をするので誰も入るな』って札をかけて、裏の塀を飛び越えてきたんだよ。ばれる前に戻らねえと、また宰相の小言がはじまる……」
頭を抱えて唸る勇者の姿は、世界を救った英雄というよりも、ブラック企業にすり潰されている中間管理職そのものだった。
ノアは引き出しの奥から、小さく折りたたまれた別の紙切れを引っ張り出す。求人票ではない。昨日、そこらの市場で仕入れた安物の干し肉だ。
「ほら、食えよ。腹が減ってるんだろ」
「……お、いいのか?」
勇者はガツッと干し肉を受け取り、無造作に口に放り込んだ。硬い肉を噛み締めながら、ふうっと大きな溜息を吐き出す。
「なあ、ノア。あの時のこと、時々思い出すんだよ」
「どの時のことだ」
「だから、あの三者会談の夜だよ。俺たちが国境の宿屋のボロ部屋に集まって、『もう面倒くせえから、戦争終わらせるぞ』って、お前がホワイトボードに作戦図を書き殴ったろ。あの時は、本当にどうなることかと思ったが……」
勇者は窓の外の青空をぼんやりと見上げ、苦笑した。
「あのバカは魔王を引退してから、今頃どこかで気ままに隠居してやがんだろ? 羨ましいぜ。なんで俺だけ、こんな金色の鳥かごに閉じ込められなきゃいけないんだよ」
「自業自得さ。お前が道中で、勘違いした過激派の魔族どもを片っ端から派手に殴り飛ばすから、世間が勝手に『勇者様が魔王軍を圧倒している!』って神格化しちまったんだからな」
「……うっ!だって、あいつらいちいち『魔族のために死ね!』とか突っ込んできて鬱陶しかったんだもん! こっちはただ、魔王の城に酒飲みに行こうとしてただけなのにさあ!しかも、バカの城に行くのに謎解きとか意味わからんし!連絡先とか聞いとけば良かったよ!」
まったく、とノアは小さく笑った。
窓の外からは、今日も平和すぎる王都のざわざわとした生活音が聞こえてくる。
その時、廊下の向こうから、ドタドタと足音が近づいてきた。
「あっ……!」
「おっと、今日の午後の来客時間だな」
勇者は反射的にフードを頭まで引っ張り被り、サングラスをかけ直した。
「じゃあな、ノア! あんまり長居して見つかったら面倒だ。また愚痴りに来るから、その時は美味い酒を用意しとけよ!」
「はいはい、勝手口からお行き。お茶代くらい置いていけよ」
「そんなもんねえよ!」
ガチャッと窓が開き、勇者はヒョイと身軽に飛び降りて、王都の裏路地へと消えていった。
直後、重いオーク材の扉が開き、今度は本当に別の客、元・魔王軍のトカゲ顔の男が、おずおずと履歴書を握りしめながら顔を覗かせた。
「あの……失礼します。ここ、特別指導課で合ってますか……?」
「はい、ようこそいらっしゃいました。指導員のノア・ヴァレンティです。どうぞお掛けください」
ノアは先ほどまでの緩んだ表情をスッと引き締め、いつもの穏やかな笑顔に戻る。
ポチが再び尻尾をパタパタと振って新しい湯呑みを滑らせる中、王都の片隅の小さなデスクで、今日も新しい再就職の物語が始まろうとしていた。




