第十二話 影
「……で、とうとう王都直属の暗部が本格的に動き出したってわけだ」
特別指導課の閉め切られた執務室。
デスクの上のランプの灯りだけが頼りの薄暗い部屋で、ノアは片手で冷めたお茶の湯呑みを転がしながら、ポツリと独り言をこぼした。
部屋の隅。暗がりに溶け込むように伏せていたケルベロスのポチが、三つの首をぴくりと動かし、低い唸り声を喉の奥で転がす。
事の発端は、数日前から王都の裏社会に流れ始めた奇妙な噂だった。
『神国と王国の最高情報機関が、極秘裏に手を組んだ』
『狙いは、魔王軍を裏から解体し、大戦を終結させた「真の黒幕」』
世間では相変わらず「勇者様が魔王を討伐した」という表向きの茶番劇が信じられている。だが、国家の最高機関や軍の 上層部……つまり、戦争の裏側で実務を回していた連中だけは薄々感づいていた。
あんな綺麗に戦争が終わるはずがない。誰かが裏で糸を引いて、すべてのシナリオを描いた人間がいるはずだと。
「ヴォルカスの言ってた通りになったな……はぁ、面倒くさい」
ノアは小さく息を吐き、引き出しの奥から一枚の密書を取り出した。
そこには、元・裏稼業の人間たちの間で出回っている、自分みたいに怪しい人間、魔族にかかった法外な懸賞金と、調査依頼のタレコミ文書が雑に貼り付けられていた。
王都の表向きの行政機関の片隅で、はぐれ者の魔族や落ちこぼれの人間たちに再就職の世話をしているだけの男が、まさか国家の最高機密にマークされているとは思わなかった。
だが、嗅ぎ回る連中が本気になりすぎれば、この平穏なハローワークにもそのうち面倒なハエが群がってくる。
ガチャ、と。
その時、いつものように重いオーク材の扉が軽いノックの音とともに開いた。
「すいません、午後の書類手続きなんですけど……って、ノアさん?」
入ってきたのは、つい先日、ハローワークの紹介で王都の馬車整備工場で働き始めたばかりの若い魔族の青年だった。見慣れない険しい顔をしているノアを見て、おずおずと足を止める。
「ああ、なんだ君か。どうかしたのかね」
「い、いや……表の通りに、なんか黒い服を着た見慣れない男たちが何人もうろついててさ。住民に聞き込みみたいなことしてるんです。『怪しい役人や、やけに物知りな相談員はいないか』って……」
青年の言葉に、ノアはふっと目を細め、それからいつもの穏やかな笑みを貼り付けた。
「そうかい。王都の警備も最近は物騒だからね。心配いらない、ただの役所の巡回さ。手続きの書類、そこに置いといてくれ」
「は、はあ……」
青年が不安そうに書類を置き、逃げるように部屋を出ていく。
扉が閉まった瞬間、ノアの表情から笑みがスッと消えた。
「……さて、と」
ノアは椅子からゆっくりと立ち上がり、デスクの上のインク壺と万年筆を手に取った。
追手が勝手に嗅ぎ回って勝手に自滅するか、それとも馬鹿な真似をしてここに踏み込んでくるか。どちらにせよ、ここで慌てて身を隠すような野暮な真似はしない。
なぜならここは、王都の片隅の小さなハローワーク。
どんなに訳ありの厄介者でも、仕事を探しに来る客を追い返す理由など、どこにもないのだから。
「ポチ。そろそろ新しいお茶を淹れ直すか」
グゥ、と低い返事をしながらポチが巨体を起こす。
王都の静けさの裏で、国家の最高機関を巻き込んだ、最高にくだらなくて最高に危険な「身元調査」の幕が、静かに上がろうとしていた。




