第四話 呪縛の眼
「あの……失礼、します。……私、前が見えなくて」
第一窓口で「あ、ご案内しますね」と連れられてきた女性が、深々と被ったフードと白い補助杖(白杖)の先で床をコツコツと探りながら、おずおずとオーク材の扉を開けた。
部屋を包む香ばしい茶葉の香り。
部屋の隅で丸くなっていたケルベロスのポチが、三つの首を器用に動かし、丸盆をすーっと滑らせて温かい湯呑みを差し出す。
「ひゃっ!? 大きな……動物さんですか? お茶、ありがとうございます……」
「ポチのお茶、冷めないうちにどうぞ。ようこそ、特別指導課へ。指導員のノア・ヴァレンティです」
デスクの上の書類をトントンと揃えながら、ノアが穏やかな声をかけた。
ルチアは補助杖を畳み、手探りで椅子を探して腰を下ろす。
「あの……私、普段は目隠しを外せなくて。目を開けた瞬間、見た相手の意識を強烈に奪って、視線を強制固定してしまう体質なんです……。だから、外の世界を歩くときはこの杖が頼りで」
「なるほど。……お名前と履歴書を拝見できますか」
ルチアは胸のポケットから、小さく折りたたまれた羊皮紙を恐る恐る差し出した。
【氏名】ルチア(24歳)
【前職】劇団『月光座』元・看板女優(在籍4年)
【保有スキル】『呪縛の魔眼(視線を合わせた者の意識を吸い寄せ、身動きを封じる体質)』
【希望職種】夜間の点灯係、地下の衣装倉庫管理
【希望時給】問いません(人と目を合わせずに働ければ……)
ノアは履歴書を目で追い、ふむと顎を撫でた。
「ルチアさん。元は華やかな劇団の女優さんだったんですね」
「……はい。舞台の上なら、私のこの目も『観客を魅了する表現力』で済んでいたんですが……2年前、体質が急激に悪化して、見つめた観客が全員失神する大騒動を起こしてしまって……。劇団を追われ、それからは人と目を合わさないように暮らしてきました」
ルチアは俯き、細い指先で補助杖の柄をぎゅっと握りしめた。
「街を歩くだけで事故が起きるし、接客業もクビ。『気味が悪い』って……。私の目から漏れる呪いは、誰かを恐怖させることしかできないんです」
ノアは静かに立ち上がり、自分の背後にある古びた本棚の脇へ歩み寄った。
ギギギ……と重苦しい音が響く。
ノアが本棚の特定の一冊、分厚い魔導書をわずかに押し込むと、壁のレンガごと本棚が音もなく回転し、奥から仄かに青白い魔力の光を放つ「秘密の小部屋」が姿を現した。
「……え?」
ルチアが目隠しの下でわずかに気配を察知して顔を向ける。
ノアはその隠し部屋から、一脚の美しい漆黒のケースを持ち帰ってきた。パクリと蓋が開く。
中に入っていたのは、何重もの魔導陣が刻まれた特殊な薄墨色のレンズを持つ、精巧な『減光の魔導メガネ』だった。
「ルチアさん。最高の経歴ですね」
「……私が……?」
「あなたの目は呪いなんかじゃない。ただ、今のままでは出力が高すぎて周囲が困ってしまう。……このレンズを通せば、魔眼の出力は一万分の一まで減衰される。相手の脳にも一切負担をかけず、ただ『目が離せなくなるほど美しいお姉さん』程度に抑え込めるはずです」
ノアはひんやりと冷たいその銀縁のメガネを、ルチアの手にそっと握らせた。
「これをつけて、私を見なさい」
ルチアは震える手で目隠しを外し、受け取った銀縁メガネをそっとかけた。
瞬間。
ルチアの視界が、漆黒の闇から、計算し尽くされた穏やかな光の世界へと切り替わった。目の前に立つノアの姿が、ぼんやりと、しかしはっきりと映る。
部屋の空気がフリーズした。
ルチアの瞳から漏れ出ていた禍々しい紫の奔流が、レンズの魔導陣に吸い込まれ、今はまるで夜空にまたたく星のように、吸い込まれそうなほど美しく静かな光へと変換されていた。
「あ……私……自分の目で、ちゃんと世界が見える……っ」
ルチアは自分の両手で頬を押さえ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。視界を奪われ、暗闇で怯え続けていた彼女にとって、それは何年ぶりかの光だった。
ノアはお茶を一口すすった。
「……なるほど。2年前、王都の大劇場で観客全員を金縛りにしたという噂の『幻の女優』さんでしたか。あの夜、客席の最前列で見ていたある人物も『あんな美しい呪いなら、もう一度かかってみたいものだ』と漏らしていましたよ」
「え……? 客席の……?」
「……これがいいですね」
ルチアが思わず顔を上げた。ノアはまるで独り言のように呟いたあと、何事もなかったかのように引き出しから爽やかなミントの匂いがする依頼書を取り出す。
「強制的に視線を奪い、意識を術に集中させるということは、裏返せば『激しい恐怖や痛みから、極限まで意識を逸らさせることができる』ということです」
【求人】王立小児病院・極秘『意識誘導(痛みの麻痺)補助士』
【業務内容】幼い患者への予防接種、および外科処置時の意識誘導。
【課題】注射を怖がって暴れる子供が多く、現場が連日大混乱。
【報酬】金貨2枚と銀貨30/月
「さあ、行きましょうか、ルチアさん」
* * *
王立小児病院、処置室。
「うわああああん! やだぁ! 注射嫌だぁあ!」
5歳の男の子がベッドの上で暴れまわり、看護師たちが汗だくで押さえつけている。
「ノア指導員、本当に大丈夫なのかね!?」
「大丈夫です。ルチアさん、あのメガネをつけて、あの子を優しく見つめてあげてください」
ルチアは緊張した面持ちで一歩前に出た。
特製グラスの奥にある深い紫の瞳が、ふっと男の子の顔を捉える。
不思議なことが起きた。
男の子は泣き叫ぶのをピタリと止め、まるで夜空の星に見入るように、ルチアの瞳から放たれる柔らかな光へと吸い込まれていった。恐怖も、注射の痛みへの想像も、すべてがすーっと頭から消えていく。
(はっ!?今だ……!)
医師が素早く注射針を刺し、薬液を押し込んで一瞬で抜く。
「はい、終わりだよ〜」
医師が声をかけた瞬間に、ルチアが軽く視線を逸らした。
「……え? あれ……? もう終わったの……?」
男の子はパチパチと瞬きをし、自分の腕の絆創膏をぽかんと見つめた。そして、目の前に立つルチアを見上げてニコッと笑った。
「お姉ちゃん、目が星みたいに綺麗だった……!」
処置室にいた医療スタッフが呆然と立ち尽くし、やがて師長がルチアの両手をガッチリと握りしめた。
「す、素晴らしい……! こんな魔法のような処置、初めて見たわ! お願い、明日からも子供たちのために力を貸してちょうだい!」
「あ……私……私の目でも、人を怖がらせずに、笑顔にできるんだ……」
ルチアはメガネの端からあたたかい涙を流し、何度も深く頷いた。
* * *
数日後。特別指導課。
ドアが静かに開き、ルチアが入ってきた。
もはや目隠しはなく、あの銀縁の特製グラスをかけ、明るい薄桃色のワンピースを着ている。手には、もう白い補助杖はなかった。
「ノアさん、契約の報告に来ました。王立病院の専属療法士として正式に雇われました!」
「おめでとうございます。そのメガネ、とてもよくお似合いですよ」
「ふふ、子供たちが『先生の目は魔法の星みたいだ』って言ってくれるんです」
ルチアは嬉しそうに微笑んだ。
かつて闇の中で怯え、人を恐怖させた彼女の目は、今は誰よりも優しく子供たちの未来を見つめている。
「あの……この魔道具……すごく高いものだったんじゃないですか?必ず働いてお支払いします!」
「代金はいらないですよ。昔の知人から『いつか困った奴が現れたら、くれてやれ』と預かっていたガラクタですから」
ノアはふっと笑い、湯呑みのお茶をすする。
部屋の隅で、ケルベロスのポチが「くぅ〜ん」と甘えるように喉を鳴らし、ルチアにすり寄った。
「それじゃあノアさん、行ってきます!」
ルチアは軽やかな足取りで、光差す外へと駆けていった。
「さて……」
ノアは冷めたお茶を飲み干すと、また次の厚い求人票の束を開く。
新しい紙の匂いが漂う中、ノアの背後にある本棚の隠し扉の隙間から、一瞬だけ、かつての戦争の記憶を思わせる重厚な魔力の残響が、静かに消えていった。




