第十九話 旅立ち
神国と王国の合同捜査本部が、勇者の適当すぎる誘導に乗って「全軍、北の極寒地帯へ向かえ!」とバタバタ走り去っていってから、二日。
ハローワークは『念の為』と国命により一時閉鎖されていた。
静けさを取り戻した特別指導課の部屋で、ノアは静かに万年筆のキャップを締めた。
「よし……これで、溜まってた書類は全部終わりだ」
デスクの上を手でトントンと叩き、整理し終えた求人票と日誌の束を綺麗に揃える。
部屋の隅でだらりと寝そべっていたポチが、三つの首を交互に持ち上げてノアの顔を見つめた。
「ポチ。……そろそろ、ここを引き払おうか」
ノアが追っ手から逃げもせず、この二日間ずっと部屋に留まっていたのには、ちゃんとした理由があった。呑気に構えていたわけでも、事態の重さを理解していなかったわけでもない。
長年お世話になったこの部屋をピカピカに掃除して去ること。
そして、あの壁の裏に残された「大事な物」を回収するためだ。
ノアはデスクを離れ、背後の古びた本棚へと歩み寄った。
使い込まれた背表紙の並びから、「分厚い魔導書」を見つけると、親指でグッと奥へ押し込む。
ギギギ……と重苦しい石の擦れる音が響いた。
レンガの壁ごと本棚が音を立てて回転し、仄かな魔力の残響が漂う「秘密の小部屋」が姿を現す。
「ルチアさんにあのメガネを渡して以来だな……」
ノアは暗がりへ足を踏み入れ、棚の奥に置かれた古びた革のトランクを引き寄せた。
中に入っているのは、かつて「終戦請負人」として各地を飛び回っていた頃の記録や、使い方を一歩間違えれば国家級の兵器になりかねない危ない魔道具の残骸。
「これらを置いたまま逃げたら、あの捜査本部の連中に何を突っ込まれるか分かったもんじゃないからね」
トランクに必要なものをすべて詰め込み、カチリと鍵をかける。
小部屋を出て回転扉を元に戻すと、ノアは雑巾とほうきを手にした。
ポチに壊されたオーク材の扉の破片を丁寧に掃き集め、長年のホコリが積もったデスクを拭き上げていく。ポチも手持ち無沙汰そうに、尻尾をパタパタと振って床のチリを隅へ集めていた。
作業がひと段落したその時、壊れた扉の下に何かが置かれていた。
「ん……?」
床に置かれていたのは、数枚の薄い紙切れと、ずっしり重い布袋だった。
紙切れを開くと、見覚えのある筆跡が並んでいる。
『地下水路の安全は確保しました。遠くへ行かれるなら、北のルートだけは避けてください(※レイ)』
『公爵家より、旅費と隠れ家のアドレスをお贈りします。お体に気をつけて(※ヴォルカス)』
布袋の中には、ぎっしりと詰まった金貨だった。
「……まったく、どこで聞きつけてくるんだか」
ノアが苦笑しながら手紙をトランクへ収めていると、廊下から「すいませーん、配達でーす」とあからさまに下手くそな裏声が聞こえてきた。
ガラリと扉が開く。
入ってきたのは、深々とフードを被り、顔をボロ布で覆った怪しすぎる男だった。
「ノア、俺だ」
フードを脱ぐと、そこにあったのは連日の苦労で目の下にクマを作った『伝説の勇者』の顔だった。
「勇者様。そんな格好でどうしたんですか?」
「どうしたんですか、じゃねえよ! お前が呑気に掃除なんてしてるから、俺がヒヤヒヤしながらお忍びで走ってきたんだろ!」
勇者は部屋に入ると、ハァハァと息を整えながら胸ポケットから胃薬を取り出して丸呑みした。
「いいか、ノア。お上はとりあえず、北の極寒地に部隊を出した。……だがな、あいつらバカだけど暇じゃない。数日して『北極に誰もいねえじゃねえか!』って気づいたら、速攻で王都に捜査網を戻してくるぞ」
「でしょうねえ。だからこうして、引き払う準備をしてたんです」
ノアがトランクをポンと叩くと、勇者は呆れたように天を仰いだ。
「お前なぁ……普通ならポチに暴れさせた時点で即刻逃げるんだよ。なんで思い出の部屋を掃除してんだよ。正気か?」
「去り際くらい綺麗にしないと、同僚に怒られますから」
「ハハッ、相変わらずだな」
勇者は思わず吹き出すと、懐から古い羊皮紙を一枚取り出してノアのデスクに置いた。
「これ、王国の南側にある港町の通行許可証だ。俺の裏ルートで手に入れた。……あっちなら神国の目も届きにくいし、美味しい魚が食えるぞ」
「助かります。貴方も、胃を壊さないように気をつけてくださいね」
「お前のせいだよ!いや、お前のおかげで今があるのか …たく、またな、ノア」
勇者は短く笑うと、再びフードを深々と被り、気配を消すように去っていった。
「さて……」
ピカピカに磨き上げられた、無人の指導員室。
ノアはトランクを手に取り、ポチを伴って扉の前で立ち止まった。深々と一度だけ、誰もいなくなった部屋に一礼する。
「お世話になりました」
神国と王国の包囲網をあざ笑うかのように、ノアとポチは朝霧の立ち込める王都の街並みへ、静かに踏み出していった。
平和だったハローワークが終わり、ノアたちの新しい旅が、今ここから始まる。




