第十七話 査察官
神国と王国の「合同捜査本部」が王都の裏で正式に立ち上がってから、数ヶ月が過ぎた頃。
その日の特別指導課は、朝から嫌な静けさに包まれていた。
ガタ、とオーク材の重い扉が静かに、だが言い逃れを許さない圧倒的な圧力を伴って開く。
入ってきたのは二人組だった。
一人は王国の豪華な飾緒を胸元で重々しく揺らせた高官。もう一人は神国の白銀の法衣を隙なく着こなし、冷酷な眼光を走らせる厳格な監察官。その背後には、一切の足音を殺した気配のない護衛騎士が二人、抜刀の一歩手前の姿勢で無言のまま控えている。
前回の路地裏上がりの粗暴な暗部とは、纏っている空気がまるで違っていた。正真正銘、両国の権力の中枢から遣わされた「本物の刺客」たちだった。
「ここが……特別指導課か」
神国の監察官が、一切の汚れもない白い手袋をはめた指先で鼻腔を覆うようにしながら、狭い部屋をゆっくりと見回した。
部屋の隅、影の落ちる場所に丸くなっていたケルベロスのポチが、三つの首をわずかに持ち上げ、億劫そうに片目だけで新参者たちをじろりと睨みつける。だが、まだ起き上がる気配すら見せない。
「指導員のノア・ヴァレンティだな」
王国の高官が歩み寄り、分厚い羊皮紙の束をデスクの上へ重々しく叩きつけた。羊皮紙の表面には「国家安全保障合同捜査本部」の血のような赤インクの公印が、鮮やかに捺されている。
「挨拶も、無駄な手続きも省かせてもらう。直近で王都の特殊スキル持ちの『活躍』……そのすべての交差点に、このしがない部署と、君の名が浮上している」
ノアはデスクの手元で万年筆をゆっくりと弄りながら、いつもの捉えどころのない、どこか眠たげな笑みを貼り付けた。
「これはこれは……ここはご覧の通りのただの地方行政窓口ですよ。毎日毎日、行き場のない求職者の方々の書類を整理しているだけの場所でして……」
「白を切るな」
神国の監察官が、氷のように冷ややかな声でノアの言葉を即座に遮った。その眼光は鋭く、ノアの眼球の微かな動き、指先の挙動ひとつすら逃さぬ構えだ。
「お前が何者なのか、誰の指示で動いているのか……その正体はまだ定かではない。だが、これだけの結果を残しながら『ただの行政指導員』で押し通せると思うなよ。お前は間違いなく、我々が追う『国家の根幹に関わる何か』を握っている。それからお前の本当のスキルは何だ?豆まきスキル持ちが出せる成果ではないだろう?」
確信に満ちた言葉。
ノアが「終戦請負人」として描いたシナリオ、そしてポチの首輪の裏に隠されたあの誓約書、彼らはまだ具体的な正体にまでは辿り着いていない。だが、「この男が決定的な鍵を握っている」という直感だけは、恐ろしい精度で当射していた。
ノアは困ったように肩をすくめ、手元の冷めたお茶を一口だけすすった。
「……買いかぶりすぎです。僕が握っているのは、毎日の膨大で山のような求人票の束だけですよ。疑うなら、見ます?僕の秘技サイクロン豆まき」
「問答はここまでだ」
王国の高官が冷たく言い放ち、静かに右手を挙げた。
「合同捜査本部の特別尋問室へ連行する。そこへ行けば、お前が何を隠し、何を握っているのか……嫌でもすべて吐き出すことになる」
指示を受けた二人の護衛騎士が、呼吸を合わせて一歩を踏み出した。腰の長剣の柄に手がかけられ、ノアを左右から挟み込むように距離を詰めてくる。逃げ場を殺す、完璧な立ち回りだった。
騎士の手が、ノアの肩へ触れようとした……まさにその瞬間。
ズシン、と。
部屋全体の空気が、目に見えるほどの超高圧の力場へと変貌した。
踏み出しかけた護衛騎士たちの足が、まるで床に鉄杭で打ち付けられたかのようにピタリと止まる。呼吸が詰まり、額から一気に脂汗が吹き出し、顔面から血の気が引いていく。
「な……ッ!?」
部屋の隅。
だらりと横たわっていたはずの巨獣・ポチが、地鳴りのような音を立ててゆっくりと体を起こしていた。
三つの首の眼光が、暗闇の中で赤く不気味に蠢いている。
魔界最深部を統べた『門番』としての圧倒的な殺気と威圧が、狭い執務室の全域を完全に呑み込んでいた。
「ガアアアアッ――!!!!」
部屋の窓ガラスがバチバチと悲鳴を上げるほどの咆哮が一響。
次の瞬間、前線で修羅場を潜ってきたはずの護衛騎士ふたりが、剣を抜くことすら許されず、ポチの巨大な前足の一撃によって壁ごと廊下へと吹き飛ばされていた。
ドガァンッ!と激しい破壊音が響き渡る。
「ひっ……!? な、なんだこの化け物は――ッ!?」
白銀の法衣を粉塵で汚した監察官と、腰を抜かして床にへたり込んだ高官が、喉をガタガタと鳴らしながら恐怖に顔を歪ませた。
ポチの右側の首が素早く伸び、高官が突きつけていた「国家公文書」をバリバリッと豪快に噛み砕いてペッと吐き捨てる。左の首が「二度と面見せるな」と言わんばかりに、熱い鼻息を吹きかけた。
「ひいぃぃっ! 退避! 一旦退避だーッ!!」
エリートたちの威厳など、そこには欠片も残っていなかった。二人と、命からがら這い上がった護衛騎士たちは、悲鳴を上げながら半狂乱で廊下の奥へ逃げ去っていった。
崩れ落ちた扉の破片がコロコロと転がる音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
ポチは「ペッ」と口に残った紙屑を吐き出すと、フンと鼻を鳴らし、何事もなかったかのように再び床へと丸くなった。
「……やれやれ」
ノアは大きく溜息をつき、頭を抱えて深々と椅子に沈み込んだ。
「ポチ、派手にやりすぎだよ。あいつら本気で頭に血が上って、今度は軍隊でも連れてくるぞ……」
ポチは「グルゥ」と面倒くさそうに低い喉鳴りを返し、首輪の金具をカチャンと小さく鳴らした。その金属の裏側には、世界を揺るがすあの密約が静かに眠っている。
もはや「ただの怪しい窓口」の段階は完全に終わった。
神国と王国の最高機関は、この小さなハローワークの指導員が『間違いなく何か決定的な鍵を握っている最重要人物』であると確信し、全戦力を挙げて追ってくるだろう。
ノアは冷めきった湯呑みを引き寄せ、壊れた扉の向こう、遠くの曇り空を静かに見上げた。
平和だったハローワークの日常に、いよいよ避けることのできない巨大な嵐が吹き荒れようとしていた。




