第30話 血濡れのゴースト
「呪いだ……呪いを食らいやがれ……」
その短剣を棟梁は、自らの胸元に強く突き刺した。
音もなく、肉が刃を受け入れる。
次の瞬間、彼の口から血が噴き出し、眼球が白濁していく。
だが、それで終わりではなかった。
棟梁の身体が痙攣し、皮膚が沸騰するようにただれ始める。
筋肉が肉塊となって崩れ落ち、骨が軋みを立てながら露出していく。
やがて肉も皮膚も完全に溶け去り、黒焦げの骸骨だけが場に残された。
そして短剣の宝玉が脈打つように輝き、そこから濃厚な紫色の煙が溢れ出す。
煙は地を這い、天井を舐め、次第に一つの人型を形成していく。
悠真は思わず後退した。
それは──明確に、この世のものではない。
四肢は異常に長く、関節は逆方向に曲がっている。
全身は血で濡れており、所々に切り裂かれた人肉が貼り付いていた。
顔の位置には眼球がなく、代わりに口腔だけが異様に大きく裂けている。
牙のようなものが幾重にも重なり、息をするたびに膿のような液体を吐き出していた。
ダンジョンの闇がざわめき、魔力の流れが狂い始める。
壁際で待機していた仲間たちが一斉に駆け込んできた。
「悠真様……! あれは──」
太刀を構えたままホウキが、切れ長の黒い瞳でその存在を見据える。
普段は揺らがない瞳に、微かな動揺が宿っていた。
「瘴気の密度が……尋常じゃない」
猫耳を限界まで逆立てながら、アウラがナイフを構える。
青灰色の瞳が戦術的な分析を試みているが、その表情は珍しく険しかった。
「……これ、ランクSの魔物ですわ」
金色の狐耳をぺたりと伏せ、アイリスが蒼い瞳を細めながら呟く。
レイピアを握る指先が、わずかに白くなっていた。
「へぇ……久々に、いい匂いがするな」
シュンリンだけが前に出る。
燃えるような赤いツインテールが揺れ、赤金色の大きな瞳が、その存在を真っ直ぐに見据えていた。
額の両側の龍角が、じわりと赤みを増していく。
「……僕も、少し本気を出した方が良さそうだね」
長く細い耳を立て、シャルルは翠色の瞳を細めながら長杖を構えた。
その口元には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。
だが、その笑みの奥に潜む色は、穏やかとは程遠いものだ。
紫煙の中に聳え立つその存在が、裂けた口腔をゆっくりと広げる。
それは、絶望の具現だった。
「……なんだ、あれ……」
悠真の声は乾いた呟きに留まり、胸中に走る恐怖を言葉にするには至らない。
決闘結界はすでに解除されている。棟梁を仕留めた瞬間、魔法陣の光は静かに消えた。
今の悠真には、あの結界の加護がない。
洞窟内は、なおも薄闇に包まれている。
冷たい湿気が肌にまとわりつき、空気が重く澱んでいた。
「やばいな……あれは"血濡れのゴースト"。名前付きの上位種だ」
叫ぶようにして、アウラが告げる。
猫耳が限界まで逆立ち、青灰色の瞳が戦術的な分析を試みているが、その声は珍しく震えていた。
「視線を合わせるな! 魂を抜かれるぞ!」
鋭く告げながら、ホウキが太刀を構え直す。
切れ長の黒い瞳が、化け物を捉えたまま、微動だにしない。
「精神魔法が効かない種ですの! 直撃は絶対に避けないといけませんわ!」
金色の狐耳伏せながら、アイリスがレイピアを構える。
蒼い瞳に冷静さと恐怖が綯い交ぜになった光が宿っていた。
「くそっ……能力を……!」
唇を噛み締めながら悠真は、デッキケースへと手を伸ばす。
足元に魔法陣を展開しようとする。
意識を集中させ、魔力を呼び起こす。
だが、その動作よりも先に、ゴーストが緩慢に動いた。
その左腕に相当する部位から、赤黒い霧のような一片が剥がれ、凪いだ風に舞う羽根のごとく、彼に目掛けて飛んでくる。
避ける間もなかった。
それは悠真の胸を突き抜けた──否、すり抜ける。
感触は何もない。
ただ、ひやりとしたものが身体を内側から撫で、次の瞬間、背骨の奥を凍てつくような寒気が走った。
「ぐっ……が、ああっ……!」
悠真は叫び、膝を突く。デッキケースから手が離れる。
魔法陣の展開が、途切れた。視界がぐらつく。
胃が裏返るような吐き気が襲い、意識が遠ざかる。
結界を張る前に食らう。最悪のタイミングだった。
「悠真ッ!」
ホウキが駆け寄ろうとする足音が聞こえたが、悠真は手を伸ばせない。
心臓の鼓動が一瞬止まりかけたように感じ、肺が空気を吸い込むことを拒絶する。
自身の魂が、胸から首筋を伝って抜け落ちていくような、尋常ならざる感覚。
「……これが、上位種……っ……」
歯を食いしばって、彼は必死に意識を繋ぎ止めた。
漆黒の外套の内側で、デッキケースを握る指が震えている。
再び結界を張れるか。魔力は残っているか。意識が、霞む。
だがその間にも、血濡れのゴーストは音もなく空間を漂いながら、他の仲間へと視線を移し始めていた。裂けた口腔が、ゆっくりと広がっていく。
「……くそ、ったれが……」
口元を濡らす唾液を拭い、なおも立ち上がろうと、悠真は足に力を込めた。
しかし、体は思うように動かない。
デッキケースを握る指が、震えたまま止まっていた。
「──悠真!」
鋭い声が飛ぶと同時に、仲間たちが前へと躍り出る。
先陣を切ったのはホウキだ。
黒いポニーテールが翻り、太刀を抜き放つ音が広間に鋭く響く。
東の国風の軽装和装の裾を翻しながら、悠真の前に立ちはだかった。
切れ長の黒い瞳が、血濡れのゴーストを真っ直ぐに射抜いている。
「悠真様の敵は、我らが討ちまする。……そこで大人しくしておられよ」
その言葉の調子は穏やかでも、背中には一切の隙がなかった。
凛とした声が、瘴気を裂くように広間に響く。
「悠真くん、今は僕たちを信じて。……あなたには、まだ死んでもらっちゃ困るんだから」
次いで、シャルルが前に出た。
淡い金色に近い銀髪を揺らし、長杖を構える。
翠色の瞳には微かに涙が浮かんでいたが、その指先には緑の魔力が静かに灯り始めていた。
穏やかな微笑みの奥に、普段は隠された凄絶な気配が滲んでいる。
「配置につけ。火力支援、始める。全員、命令を待たず即応せよ」
乾いた命令口調と共に、青灰色の瞳が怪しく輝く、アウラが一歩前に出た。
帝国軍の制式制服の襟を正し、ナイフを鞘に戻すと銃を取り出して構える。
銀灰色の長髪が揺れ、頭頂部の猫耳が逆立っていた。
周囲に立ち込める瘴気の空気が、確かに震える。
「……シルヴェスター家の名において、あのような醜悪な存在に悠真を渡すつもりはありませんわ」
最後に、アイリスが前へ出た。
静かに、しかし確かな怒りを込めて言い放つ。
腰まで届く金髪を肩に流し、レイピアを構える。
金色の狐耳が逆立ち、蒼い瞳が冷たい炎を灯していた。
尻尾が激しく揺れている。
「早く回復しろよ、悠真。アタシたちだけじゃ物足りねぇからな」
シュンリンは、とっくに前に出ていた。
燃えるような赤いツインテールを揺らし、拳を握り締めながら化け物を真っ直ぐに見据えている。
赤金色の大きな瞳が爛々と輝き、額の両側の龍角がじわりと赤みを増していた。
次の瞬間、五人の体からそれぞれの色のオーラが溢れ出す。
ホウキのそれは白銀。
研ぎ澄まされた刃のように鋭く、静謐で美しい。
シャルルのそれは翠緑。
大地の息吹を思わせる豊かな魔力が、周囲に花弁のように舞い散る。
アウラのそれは蒼銀。
冷徹な軍人の意志が、鋼のように凝縮されていた。
アイリスのそれは金。
誇り高き貴族の血が、炎のように燃え上がっている。
そしてシュンリンのそれは深紅。
龍人族の純血が生み出す原初の力が、広間の瘴気を押し返すように膨れ上がっていた。
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