第25話 童貞の味
「……な、にを……?」
喉が乾いて声にならない。視界は緩やかに暗く、そして霞んでゆく。
周囲に立つ仲間たちの姿が焦点を結ばず、あたかも霧の中にいるような現実感の希薄な世界に没していく。
光と闇のコントラストの狭間で、悠真の首に噛みつくシュンリンの姿はあまりに鮮烈だ。
燃えるような赤いツインテールが彼の頬に触れ、硬質な爪が漆黒の外套の肩口に食い込んでいる。
「なっ……何をしているんだっ!」
背後から鋭い叫び声が木霊した。
声の主──アウラは目を見開いたまま、ナイフの柄に手を掛ける。
頭頂部の猫耳が限界まで逆立ち、青灰色の瞳が動揺と警戒を孕んでいた。
軍人としての反射が既に、戦闘態勢に移行しつつあることを物語っている。
「こいつ──悠真様に何をした!?」
無言でホウキが抜刀していた。
柄から伸びる刃は澄んだ銀で、切れ長の黒い瞳が怒りに細まっている。
「えっ、ちょっと……それ、えっちすぎません!」
顔を紅潮させながらシャルルが叫ぶ。
長く細い耳が逆立ち、翠色の瞳が羞恥と怒りの入り混じる色に染まっていた。
「……悠真。貴方今すぐ、その方から離れなさいな」
金色の狐耳を伏せたままアイリスは、蒼い瞳を見開いて口元に手を当てている。
普段の冷静さが綺麗に吹き飛んでいた。
しかしシュンリンは、まるで気にした様子もなく、悠真の首筋から顔を離す。
「ふう……」
艶やかな吐息を一つ。
赤金色の瞳を細めると、血の通ったような舌先を艶然と動かし、ゆっくりと自身の唇をなぞる。
そして口元に付着していた淡紅色の液体を、手の甲で無造作に拭い取った。
吸い取られた魔力により、悠真は両膝に力が入らない。
崩れ落ちるように片膝を地に着け、荒く息を吐く。
手を伸ばして壁に寄りかかると、濡れた首筋に触れた指先が赤く染まり、薄ら寒さを増幅させた。
「……うん。やっぱり、童貞の味だな。新鮮で悪くない」
その一方で、シュンリンは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、あろうことか彼を見下ろして言う。
静寂が降りた。
まるで時が止まったかのような数秒の間。
誰もが動けず言葉を失っていた。
「貴様……今……なんと言った?」
一歩踏み出しアウラが、ナイフの柄を強く握りしめる。
猫耳が逆立ったまま、その表情は怒りと困惑の中間にあった。
「い、今のは……ちょっと不適切すぎますわ!? というか! その言い方は……その……そのっ!」
赤面しながら慌てて抗議するが、アイリスは言葉がうまく紡がれない。
金色の狐耳がぺたりと伏せられ、尻尾が力なく垂れていた。
シャルルは口を押さえて、俯いてしまっている。
長く細い耳が伏せられたまま、翠色の瞳がどこか遠くを彷徨っていた。
シュンリンは、そんな一同の反応に小さく肩を竦めて、まるで『忘れていた』とでも言いたげに視線を向け直す。
「おっと、そうだな。説明が必要だったか。別に今のは趣味で噛んだわけじゃない。ちょっと魔力が足りなくなってな。アタシの体質では"直接吸う"ことでしか魔力を補充できないんだよ。いわゆる、特異体質ってやつさ。だから吸血衝動とかじゃない。あくまで機能的なものであって、魔力供給系の特性に過ぎない。だから、そんな顔すんなよ?」
彼女は淡々と、しかし明瞭に語った。
「では貴様、吸血鬼の類では……?」
眉を顰めて、ホウキが問う。
「違う。だが確かにアタシの祖は"魔性の徒"に近い存在だったと聞いている。正確な種族分類は、もう滅びてて残っていない。ただ……こういう力を持つ者は、龍人族には一定数いるんだよ。お前たちが馴染みないだけでな」
わずかに顔を伏せ、シュンリンは呟くように言う。
赤金色の瞳が一瞬だけ翳る。
その言葉に仲間たちは、しばし無言となった。
「……そういう体質の者がいることは、軍の資料でも確認している。だが、次からは事前に説明してから行動してくれ。誤解を招く」
ナイフから手を離し、ゆっくりと猫耳を戻しながら、アウラが僅かに安堵の息を漏らす。
「わかった! 次からは気をつける!」
素直に頷きながら、シュンリンは再び悠真に向き直った。
「まあ……今回は悪かったな。でも、おかげで助かったぜ」
彼女の赤金色の瞳が、わずかに困ったように揺れる。
「……次は、せめて一言、言ってくれ」
壁に寄りかかったまま、彼は力なく呻いた。
だが次の瞬間、悠真の視界が完全に滲む。
周囲の喧騒、足音、金属の鳴る音、仲間の叫び声。
すべてが遠く、ぼやけていく。耳鳴りが酷くなり、意識の奥が何かに押し潰されるように重くなる。
全身から力が抜けていく感覚が止まらなかった。
身体がぐらつき、膝が折れる。
重力に抗うことができず彼の肉体は、そのまま地面へと崩れ落ちた。
──それは、まるで灯火が吹き消されるかのように。暗転。
重たい何かに引きずられるような感覚の中、かろうじて耳に届いたのは、仲間たちの慌てふためく声だ。
「悠真!? おい、しっかりしろ!」
アウラの怒声。猫耳が限界まで逆立っているのが、霞んだ視界でも分かった。
「顔色が真っ白……! これ、やばくない……!?」
シャルルの声。長く細い耳がへなへなと伏せられている。
「悠真様……!」
ホウキの声は低く、しかし確かな動揺を含んでいた。
「貴方という方は……!」
アイリスの声に、金色の狐耳が逆立つ音が聞こえた気がした。
それらの声に混ざって場違いなほど明るい──悪びれもしない調子の声が響く。
「あ、もしかして吸い過ぎちゃった? あはははっ! めんごめんご! 久々にやったら加減を間違えちゃったわ。許して! 責任とってアタシが、ちゃんとアンタを安全地帯まで運ぶからさ!」
間延びした謝罪、含み笑い、まるで悪戯が成功したことを誇らしげに語る子どものような軽い口調。
悠真の意識が、深い泥の底に沈むその刹那、彼の唇がわずかに動いた。
「……お前な……仲間になって、早速……俺を……ドナーにすんじゃ……ねえ……よ……このドM龍人……次は絶対……ゆるさ……」
呟いた声が届いたかどうかを知る者は、彼自身を含めて誰もいない。
そして、完全なる沈黙が訪れる。
――それからシュンリンが仲間に加わり、瞬く間に数週間が経過。
あの血塗れの広間での出会いから始まり、魔力を吸われて気絶した一件、そしてその後の謝罪代わりの肉弾戦特訓と、濃密すぎる日々を経て、悠真たちのパーティーはいつの間にか六人編成として機能し始めていた。
湿り気を含んだ空気が、じっとりと肌に張りつく。
第七十五層、ミルスの洞の最奥付近。
魔石灯も無いこの区域では、洞窟壁面に自然発光する灯藻の仄かな蒼白光と、悠真の配信機材が生む淡い魔力灯りのみが視界を保っていた。
洞の中は高湿度で、岩肌には黒緑色の苔が斑状に張りつき、そこを這うように水滴がぽたり、ぽたりと落ち続けている。
空気はぬめり気を帯びており、呼吸するたびに鼻腔と喉に不快な重さが付きまとう。
そんな環境下、悠真たちは配信中の状態で、黙々とダンジョンを進んでいた。
先頭を歩くのは、シュンリン。
数週間前の戦闘で裂けた武道服は既に新調されており、今は深紅と金の刺繍が施された改造済みの武道服に身を包んでいる。
肩口を大胆に露出し、太腿から伸びる生脚が、蒼白い灯藻の光に滑らかに輝いていた。
燃えるような赤いツインテールが歩くたびに揺れ、地下戦闘用の強化布靴の足さばきは獣のように軽い。
敵の罠を感知すれば即座に跳ねのく身のこなしは、数週間前から何ひとつ変わっていなかった。
その後方に悠真が続く。
漆黒の外套の内側で配信魔道具を操作しながら、視聴者コメントの流れと周囲の気配を同時に確認していた。
寝癖混じりの前髪の奥、茶色の瞳に慎重さと僅かな疲労が浮かんでいる。
だが、それは唐突に訪れた。
洞窟の曲がり角を抜けた直後──
背筋を凍らせる気配が、空間全体を満たした。
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