第1話 波乱の予感
「ホウキ、シャルル。朝食の時間だ。食ってから出るぞ」
とある宿屋の一室にて、悠真は冷静な声で言いながら、ノックした指先を一拍置いて離した。
彼の声はいつもの調子で、感情の揺れは殆ど見られない。
しかしそれは、無関心というわけではない。
悠真なりの気遣いであり無理に干渉せずとも、必要な連携は保とうとする姿勢がそこにある。
数秒後、湿り気のある軋み音を立てて隣の扉が開く。
最初に現れたのは、寝間着姿のシャルル。
「……はぁ、今日も朝から寒いね。悠真くん、コーヒーくらい用意しておいてよ。気遣いしてくれてもいいんだよ?」
文句を垂れる口調だが、完全に不機嫌というわけでもない。
シャルルの髪は肩にかかる淡い金色に近い銀色で、寝癖によって軽くミディアムボブが跳ねていた。
大きく開いた襟元からは鎖骨と、下着の紐が覗いており、朝の無防備さがむしろ色気を帯びている。
華奢で細身ながら、エルフ特有の均整のとれた体躯が、薄い寝間着越しにしなやかに透けていた。
長く細い耳が髪の隙間から覗き、その先端がわずかに眠たそうに揺れている。
「宿屋にカフェはないぞ。朝飯食ってから目覚ませ」
そっけなく返したが悠真の視線は、一瞬だけ彼女の服装に釘付けになり、すぐに逸らした。
そのさりげない動きが、シャルルには明確に通じていたようである。
「ふふん、悠真くんには刺激が強すぎた?」
翠色の瞳を細め、シャルルは鼻で笑う。
からかいの一言に、悠真は額のこめかみを軽く押さえた。
反論するでもなく、黙って廊下を歩き出す。
続いて、もう一方の扉が開き、ホウキが姿を現した。
「……朝から騒がしゅうございますな。まあよい、参りましょう」
黒髪のポニーテールをきっちりと結い直し、東の国風の軽装和装をすでに着込んでいる。
目の下にわずかな寝不足の影を滲ませながらも、その背筋は朝から一分の乱れもなく真っ直ぐに伸びていた。
そして三人で一階の食堂へと降りる。
そこで簡単な朝食を済ませると悠真たちは、ダンジョン攻略と配信を行うべく再び深部へと目指す。
――そして配信を開始してから約二十分。
五十階層へと降り立ち、素材回収とルート整理を終えた頃、悠真が突如として流れてきた視聴者コメントの一つに反応した。
「……で、誰が童貞だって?」
普段であれば無視するような内容だが、繰り返されるとさすがにスルーできなくなる。
『図星かよ』
『反応がガチ童貞』
『マジで? 仲間の女二人もいて?』
『一緒の宿屋で寝食共にしてるのに、なにもなしって…』
その返しに画面の向こう側――魔道具越しに繋がる視聴者たちは、途端に盛り上がった。
「部屋は別。宿屋にも規則がある。だが……食事と行動は常に一緒だ。……それにアイツらに手を出すかどうかは別の話だ」
悠真の返答は冷静である。
だが、喉の奥に微かな乾きを覚えて、唾を飲み込んだことまでは、カメラに映らない。
視聴者たちの軽口は軽薄でありながらも、ある種の羨望と期待が含まれているのを、彼は痛いほど理解していた。
その時、シャルルが不意に魔道具のモニターに顔を寄せる。
鼻先がレンズに近づき、翠色の瞳がまっすぐに映り込む。
「なに、ニヤニヤしてるの? ……あ、またそういう話? ほんっと、視聴者って猥談好きだね」
小馬鹿にしたような口調だが、長い耳の先がわずかに赤く染まっていた。
言葉では軽くあしらいつつも、こうした反応には免疫がないのかもしれない。
『シャルルさん、悠真とエッチなことしました?』
『女の日ってどうしてるんですか?』
『ぶっちゃけ好きな人いるんですか?』
ここぞとばかりに視聴者たちはセクハラ発言を繰り返す。
「……はぁ、好きな人はいないよ。だいたい、ダンジョン潜ってたら、そんな暇ないし。それに女の日って……普通それ、配信で聞く?」
不快げに眉を顰めつつも、質問に対しては正直に答えてしまうところが、彼女の不器用な人柄を如実に示していた。
口を尖らせながらも頬はじわじわと熱を帯び、翠色の瞳が泳ぐ様子はどこか初々しさすら感じさせる。
「お前、答えてる時点で認めてるぞ」
冷やかすように悠真が返すと、シャルルは一拍置いて唇を噛んだ。
「ちょ、やめっ……! そういうこと言うから、モテないんだよ!」
むくれた顔で腕を組み、ぷいとそっぽを向く。
その横顔からは、完全な怒りは感じられない。
むしろ軽いじゃれ合いのような空気が、そこにはある。
その一部始終を、少し離れた位置で見ていたホウキが、静かに溜息をついた。
「……お二人とも、配信中にございますぞ。まったく、これだから軟弱者は……」
呆れたように呟きながらも、その口元がわずかに緩んでいたことには、誰も気づていない。
それから五十階層の奥。
魔石灯の明かりが、まばらに揺れる通路を、三人は黙々と進んでいた。
湿気を帯びた冷気が肌に纏わりつき、黒ずんだ石壁からは鉄と苔が混ざったような鉱物臭が漂う。
地面は濡れたように滑りやすく、足を踏み出すたびに水気を含んだ音が反響した。
気温は十度ほど。
動き続けていないと、汗ではなく寒さが骨に染みてくる環境だ。
悠真は腰に装備しているデッキホルスターを触りながら淡々と足を進める。
「このルート、前回より魔物の密度が下がってる。……罠か、あるいは何かに追い払われたか。どちらにせよ、油断は禁物にございます」
ホウキが低く返す。
太刀の柄に無意識に手を添えながら、その切れ長の黒い瞳が通路の奥を鋭く見据えていた。
「まあ、静かなのは歓迎だけどね」
シャルルが軽い口調で言いかけた、その瞬間である。
「下衆共ッ! その手を離せと言っているッ!」
怒気を孕んだ女の叫びが、静寂に包まれていたダンジョンの空気を切り裂く。
女のものとは思えぬほど張り詰めた声色には、断固たる意志と高貴な響きが宿る。
それはまるで、誰かを断罪する女王の叫びのように、凛とした威圧感すら帯びていた。
「……っなッ!」
悠真は思わず反応し、全身を強張らせる。
心臓が跳ね上がり、喉の奥で一瞬呼吸が止まった。
「ホウキ、シャルル……今の、聞こえたか?」
突然の出来事に呆然としながら、視線だけで仲間たちを見る。
「聞こえたってレベルじゃないよ、アレ。完全に何かヤバいことになってる」
顔をしかめてシャルルが言い放つと、すでに足を動かし始めていた。
翠色の瞳から悪戯めいた光が消え、真剣そのものに変わる。
「私が先行いたす!」
短く言い残すとホウキは、黒いポニーテールを翻して駆け出す。
腰の太刀がわずかに揺れ、彼女の静謐な気配とは裏腹に、全身から研ぎ澄まされた殺気が立ち上っていた。
「ちょ、待てよ! ……ったく!」
遅れて悠真も走り出す。今は配信どころではなかった。
ただ仲間たちの背中を追い、ダンジョンの奥へと足を速める。
やがて通路が開けて、一つの広間へと出た。
そして悠真の視界に飛び込んできたのは、あまりにも異様な光景である。
朽ちかけた柱が立ち並ぶ大広間。
地面には砕けた石材と古びた鎧の残骸が散乱しており、壁面にはどす黒い苔が広がる。
天井は高く、所々が崩れかけており、冷たい風が薄闇の中を這うように吹き抜けていた。
その中央で、一人の少女が、地面に組み伏せられている。
腰まで届くはずの艶のある金髪が、血と泥に塗れた地面に広がっていた。
丁寧に整えられていたはずの前髪は乱れ、白く滑らかな肌が鈍い光の中で震えている。
頭部の金色の狐耳は力なく伏せられ、一本の尻尾は石床に投げ出されたまま、少しも動かない。
貴族趣味の意匠が施された軽装アーマーは各所が砕け、金の縁取りが無残に剥がれていた。
スレンダーながら女性らしいラインを、はっきりと持つ体躯が、石床の上で必死に身を竦めている。
身長は百六十五ほどあり、年の頃は十七ほどに見えた。
それでも地に伏せながらも、その蒼い瞳には、まだ気位の高さが消えていない。
その手には、未だ折れていないレイピアが握られている。
しかし体力は限界に近いようで、構える腕が細かく震えていた。
そして彼女を取り囲んでいたのは──六体のゴブリンである。
通常種よりも、ひとまわり大きい個体、腐臭を放つ醜悪な体躯。
片目を失い、血まみれの布で胴を巻いた者、滴る唾液を舌で啜る者。
全てが武器を手にしておらず、その意図は明らかだった。
異種の肉欲が、この場を支配している。
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