File 4 ノイズ処理フィルター
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第4話です。今回は事務所開業の裏話です。お楽しみください!」
夜。さくら台駅前ペット探偵事務所。
泥だらけのジャージでソファに深々と座り込み、俺は手にある2枚の1万円札を見つめた。
「おいヒカル!こんだけ這いつくばって、報酬はたったの2万円だよ!なんで、こんな儲けも出ないペット探偵なんてやろうと思ったんだよ」
「……動物の行動原理は純粋。予測不可能なノイズが皆無。僕の構築した「完璧な予測アルゴリズム」を現実世界で証明するための、最適解。そこに、やる価値がある」
ヒカルは淡々と答えた。
「……でも、現実社会のパニックになった飼い主など、処理不能な人間の感情を通す必要がある。だから、僕の代わりに感情を処理する『ノイズ処理フィルター』として雇用した。……イナガキさんの『データに基づかない感情の推測』は、僕のアルゴリズムにはない有用な変数」
ヒカルは、今日のケースのデータ入力を終えて、パソコンの電源を落としながら、真面目なトーンで言った。
「……僕の欠落を補完する機能として、君の存在価値は高い。月給20万の投資対象としては、悪くないリターン」
「金銭感覚ズレすぎだろ!……まったく、なんで俺は、深夜のジムでお前なんかの話に乗っちまったんだろうな」
俺はため息をつき、天井を仰いだ。
*
3ヶ月前。深夜4時。無機質なLEDが照らす、24時間営業のスポーツジム。
ランニングマシンの規則的なモーター音だけが響くフロアで、俺は、ベンチプレスに力なく腰掛けたまま天を仰いでいた。
手元のスマホ画面には、消費者金融からの冷たい督促メール。
「【お支払額】150,000円(遅延損害金込)
【現在の債務残高】5,912,682円」
銀行のアプリを開く。
「現在の口座残高:201,450円
▼毎月の振込予約
振込先:イナガキナツ
金額:80,000円(振込メモ:ヨウイクヒ)」
『……どうすんだよ、これ。詰んだな……』
誰にともなくこぼし、慌てて画面を伏せた、その時。
『イナガキさん。口座残高、201,450円』
不意に、無機質な声が降ってきた。顔を上げると、少し離れたマットで、ヒカルがストレッチをしていた。
『え?……』
『……さっき画面をスクロールした時の秒速、約15cm。網膜が捉えたフレームの右下、青い数字の残高表示。正確に、201,450円。……対して、消費者金融の請求と未払いの養育費を合算した支払額230,000円。資金は完全に破綻』
『なんで俺の借金の額まで……!』
『……スクロールの最終フレーム、画面下部から約1.5cmの位置に、8ポイントの文字サイズで表示』
ヒカルは自分のスポーツバッグから、薄型のノートパソコンを取り出した。そして、ビー玉のように透き通った瞳で、初めて俺を真っ直ぐに見据えた。
『……イナガキさんが手元の200,000円を自力で増やそうとした場合の成功確率は、0.003%未満。14日。その200,000円は、6,000,000円になる。だから、僕に投資して』
『……は?』
『……過去20年分のチャート波形との一致。計算は完了済み。ただの、確実な未来』
深夜4時の静寂。いくら顔見知りとはいえ、常識外れの提案だ。しかし、この一切の打算がない透明な瞳を見た時、俺の直感が告げていた。
『こいつのその頭脳に、俺の人生の残り全部、賭けてみるか』と――。
あの日、俺が手渡した最後の20万円を、こいつは本当に14日間で600万円にして俺の口座に振り込んできた。借金を完済できた俺が「何でもする」と頭を下げた時、こいつは言ったのだ。
『僕と一緒に働いて。事業内容は、ペット探偵』と。
*
数日後の5月20日。
ガチャリとドアが開いた。上品なブラウス姿の女性、ヒカルの姉の冴子さんが入ってくる。
「ヒカル、イナガキさん。今月もお疲れ様です」
「あ、お姉さん!毎月わざわざすいません!」
「いいえ。イナガキさんには、いつも感謝してるんですよ。この子、数字の計算は天才的でも、日常生活の管理はまるでダメですから……弟がこうして外の世界と繋がっていられるのは、イナガキさんのおかげなんです。……はい、これ」
冴子さんはバッグから、3つの封筒を取り出して机に並べた。
「今月の『事務所の家賃・経費』と、『イナガキさんのお給料』。……それと、ヒカルの『今月の生活費』です。イナガキさん、ヒカルが無駄遣いしないか見ててあげてくださいね」
俺は自分の名前が書かれた封筒を受け取り、その重みを確かめて、誇らしげにニヤリと笑った。
「助かります……。これで今月も、息子の養育費が胸を張って払えます」
「ヨウイクヒ!ハチマンエン!」
「こら、ステラ!リアルな金額言うなって言ってるだろ!」
冴子さんがクスリと笑い、机に綺麗な包みを置いた。
「ステラは相変わらずね。……ヒカル、今日はデパ地下で『アスパラガスの豚肉巻きと、アサリの炊き込みご飯のお弁当』を買ってきたから、ちゃんと季節のものを食べて栄養をつけるのよ」
微笑んで帰っていく冴子さん。静かになる事務所。
「……ヒカル。お前の飯も俺が温めてやるから、ちょっと待ってろ」
いつもなら「舌の上の情報量が多すぎる」と固形物を拒絶するヒカルが、少しだけ迷うような素振りを見せた後、静かに頷く。
「……アサリに含まれるタウリンと鉄分、アスパラガスのアスパラギン酸。姉の持ってくる弁当は、PFCバランスと疲労回復効率が極めて合理的に設計されている。……たまには、ルーティンを外れて固形物を摂取するのも、悪くない」
「なんだよ、素直に食えばいいのに」
俺がお弁当のフタを開けると、ヒカルはぎこちない手つきで割り箸を割った。
ヒカルはお弁当を口に運びながら、部屋の隅にある『空っぽの犬用ベッド』にふと視線を落とす。
そこには誰もいないはずなのに。ヒカルは何かの頭を撫でるように、そっと撫でた。
「ゴサノハンイ!」
ステラが、間の抜けた声で鳴いた。
この時、俺たちは、巨大なノイズが近づいて来ていることにまだ気付いていなかった。
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
CASE1の掲載を終えました。
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