File 2 犬はベクトル
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第2話です。大幅に修正しました。今回は犬探しのセオリーからヒカルが緻密に分析します。お楽しみください!」
大林家の玄関先。妻の恵美さんと、10歳の娘・結衣ちゃんが話を聞かせてくれた。
俺は結衣ちゃんの姿に、離れて暮らす息子の面影を重ね、しゃがみ込んで頭を撫でた。
「大丈夫。おじちゃんたちが絶対に見つけ出すからな」
ヒカルは無表情で薄型のノートパソコンを開いた。
「犬種、柴犬。年齢3歳。……重要な変数が不足。去勢の有無の確認」
「えっと……去勢はしていませんが……」
「……未去勢。テリトリー意識と性衝動で移動ベクトルが跳ね上がる。何も考えず動いても見つけるのは不可能。天文学的確率。無駄」
「お前なぁ、言い方ってもんが……!」
ヒカルは、庭に残された犬小屋と首輪を観察した。そして、首輪を掴んだ手がピタリと止まる。
「……エラー。首輪の金具に物理的な負荷がかかった痕跡がゼロ。パニックで自力で抜け出したという前提は、物理的に不可能。入力データに矛盾」
ヒカルは無表情のまま、首輪を見つめた。
「……データが繋がらない。飼い主の証言と、物理的痕跡の不一致。これでは、正しい初速が計算できない」
「えっ?じゃあ、どうすんだよ」
その時、俺は泣きじゃくっている結衣ちゃんに気付いた。
(もしや……。コロは自分で首輪を抜けたのではない?)
俺は結衣ちゃんの小さな肩に、そっと手を置いた。
「……結衣ちゃん。雷を怖がるコロが可哀想で、家の中に入れてやろうとして……首輪を外してやった?」
結衣ちゃんはビクッと肩を震わせ、さらにワァッと泣き出した。
「ごめんなさいっ……コロが震えてて、助けてあげなきゃって思って……私のせいで……!」
「奥さん、責めないであげてください。この子は、家族を助けようとしただけだ」
俺はヒカルを見た。
「なあ、ヒカル。これで『パニックによる突発的な逃走』じゃなくなったってことでいいか?」
「……正解。入力データを『飼い主に首輪を外された直後の逃走』にアップデート。これなら初速と移動ルートの再計算が可能」
ヒカルのタイピングが復活した。
「……犬の逃走追跡には『軌跡』の推測が必須。目撃情報という『点』が一個あれば十分。タスクの分割」
ヒカルはノートパソコンの画面を俺に向けた。地図上に、大林家を中心とした巨大な円と、その内側にある小さな円が表示されている。
「……対象は柴犬。昨夜の逃走から経過した時間と筋肉量から算出される最大移動範囲は、半径約3km圏内の外側の円」
「半径3km!?そんな広範囲、どうやって探すんだよ!」
「……要素の絞り込み。広大なエリアの闇雲な捜索はカロリーの無駄。気象データから、昨夜の当地域における落雷のピークは20時45分から21時15分。対象がパニックを起こした逃走開始のトリガー時間と推定」
ヒカルは、小さな内側の円の中を通る道路を指差した。
「……まずは初期ベクトルの確定。イナガキさんは、家から半径500m圏内のコンビニや深夜営業の店舗に的を絞り、昨夜『21時前後』の目撃情報を収集」
「なるほど、時間と場所がそこまで絞れてるなら足で潰せるな! 奥さん、コロの最近の写真を俺のスマホに送ってもらえませんか。聞き込みに使いたいんです」
「はい、すぐに送ります……!どうかお願いします、コロを……」
「任せてください。……で、ヒカル。お前はどうするんだ?」
「……僕は駅前で地形と気象データを解析。僕自身の体力消耗は非合理的」
「お前、ただ歩きたくないだけだろ?まあいい。頭を使うのはお前、足を使うのは俺ってわけだ」
*
俺は大林家から半径500m圏内の店舗を片っ端から当たった。
「すいません。昨日の夜、雷が鳴っていた時間に、この写真の柴犬を見ませんでしたか?」
俺は恵美さんから送ってもらったスマホの画面を見せながら、コンビニの店員、ガソリンスタンドのスタッフ、そして通りすがりの配達員などに声をかけ続けた。
汗を拭いながら何十人にも聞いて回ったが、最初は「見てないですね」「気づきませんでした」と首を横に振られるばかりだった。
(犬の捜索はベクトルだって言うが……この街でたった一つの『点』を見つけるのが、こんなに骨の折れる作業だとはな)
足が棒になりかけ、諦めかけていたその時。
家から500mほどの位置にある、三丁目交差点のコンビニの夜勤明けの店員が、俺の差し出したスマホの画面を見て思い出したように口を開いた。
「ああ、そういえば昨日の夜21時ごろ、店の前を猛スピードで北西の方へ走っていく犬を見ましたよ。雷が鳴ってたし、危なく車道に飛び出しそうだったから、よく覚えてます」
「本当ですか!ありがとう、助かりました!」
俺は確かな手応えを感じ、その「点」を握りしめて、ヒカルの待つ場所へ急いで向かった。
*
昼。定食屋『さくら亭』。
汗だくで店に入った俺は、一番奥の席でパソコンを開いているヒカルの向かいに座った。
大将のゲンさんが、山盛りの生姜焼き定食をドンと置く
。
「ほらよ!うちの看板メニュー、特製豚の生姜焼き定食だ!食ってみろ!飛ぶぞ!若いの、お前もいつもそんな泥水ばっか飲んでないで、四の五の言わずに食え!」
「……豚肉の脂身に含まれる飽和脂肪酸と白米の過剰な糖質。血糖値の急上昇を招き、午後の捜索における脳内の情報処理速度を著しく低下させる。……迷惑、ゲンさん」
「だーっ!理屈っぽい奴だな!」
「まあまあゲンさん!こいつの分も俺が食うからさ!」
俺は生姜焼きをかき込みながらヒカルを見た。
「で、どうだ。俺が足で集めてきた『昨夜21時に三丁目交差点で見た』って目撃情報は使えそうか?」
「……完璧な『点』」
ヒカルのタイピング速度が跳ね上がり、地図上の半径3kmの円に向かって、一本の鋭い赤いラインが引かれた。
「……交差点の通過時間、雷の発生位置、そして対象の歩幅から、初速と現在の到達限界点を算出。……現在地は、北西ルート約3.2km地点の、国道沿いの高架下」
「よし、居場所が完全に絞れたな!じゃあ、今から向かうか?」
ヒカルは首を振る。
「……現在の気温。犬は体力温存のため日中は日陰で休眠。現在時刻からの捜索は、見落とす確率が高い」
「なるほど。日が落ちてから動くってことか」
「……正解。気象庁の天体データ。本日の日没時刻は18時45分。さらにアスファルトの表面温度が低下し、ターゲットが活動を再開する確率が最も高まるのは、日没から約2時間後の20時45分。……その時間に合わせて、安全な確保を実行」
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回、ヒカルの分析の先にある衝撃の真実とは……!?
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