File 1 開業!ペット探偵事務所
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第1話です。大幅に修正しました。凸凹バディがペット探偵事務所を開業し、事件が飛び込んできます。お楽しみください!」
5月。若葉が緑色を深め、きらきらと日光が輝く。
古い雑居ビルの2階のドアに掲げられた「さくら台駅前ペット探偵事務所」。これが、俺たちの探偵事務所の名前だ。
俺は暇を持て余し、ブラインドの埃を払った。
部屋の奥では、事務所のオーナーであるヒカルが、何台ものモニターに為替チャートを映し出し、巨大なノイズキャンセリングヘッドホンをつけて無表情でプロテインウォーターを飲んでいる。プロテインウォーターは、1ミリの狂いもなくきっちり並べられている。
「ヒカル。今日で開業して2ヶ月になるけど、見事に依頼ゼロだな。先月……4月は結局仕事をしないまま、お前のお姉さんから給料だけもらう形になっちまったし」
ヒカルはヘッドホンを片耳だけずらし、デスク上の複数モニターから目を外して、俺を見た。
「問題ない」
「相場の天才のくせに、金銭管理はお姉さん任せだろ。このままだと今月も先月と同じになるぞ」
「……ポートフォリオの総資産に対して、イナガキさんの月給20万と家賃15万の占める割合は0.05%。完全に誤差の範囲」
言い終えると同時に、ヒカルは再びヘッドホンを深く被り直し、外界の音を完全にシャットアウトした。
「だから、お前の資産のことを言ってんじゃねえよ。働きもしねえで給料だけもらって、養育費払うんじゃ……、胸を張れねえだろ」
「ヨウイクヒ!ハチマンエン!ハチマンエン!」
部屋の隅で、オウムの『ステラ』が甲高い声を上げた。
「こら!ステラ!リアルな数字を連呼するなって!」
バンッ!その時、勢いよくドアが開き、ヒョウ柄ブラウスを着たこのビルの大家、タエ子さんがドカドカと飛び込んできた。
「イナガキ所長!ちょっと聞いてちょうだいよ!」
「げっ。大家さん……」
「ショチョウ!イナガキショチョウ!」
鳥かごの中のステラが、タエ子さんの言葉を真似て鳴く。
「おい!ステラ!所長じゃないの知ってるだろ!」
ステラに突っ込む。ヒカルは深く被ったヘッドホンのせいで俺の言葉など全く聞こえていない様子で、無表情でモニターを見つめている。
「おい!ヒカル!お前もヘッドホン外して大家さんの話を聞けよ!」
タエ子さんは俺たちのやり取りなど一切無視して、来客用ソファに腰かけた。
「大家さん。俺は所長じゃなくって……」
タエ子さんは、俺の言葉に聞く耳を持たず、相談用テーブルをバンバンと叩いた。
「あのね、三丁目の町内会長の大林さんのところのワンちゃんが、昨日の夜の雷に驚いて、首輪を抜け出して逃げちゃったみたいなのよ!」
「ハズシテ!クビワ!ヌケダシテ!」
「黙ってくれ、ステラ!訳が分からなくなる……。まあいい、大家さん、その依頼だけどな――」
「だから私、一日2万円の格安で探してくれる名探偵がいるから任せなさいって、太鼓判を押しておいたのよ!」
「一日2万!?冗談キツイぜ。ペット探偵の相場は一日7〜10万は下らないんだぞ!うちの基本料金だって、一日8万円だ……」
「あら、そうなの?でもご近所さんなんだから、そこはドンとサービスして一日2万円でしょ!はみ出た分はあんたの若さと情熱でカバーしなさい!」
「俺はもう40越えたおっさんだよ!情熱で家賃は払えねえんだって!」
俺が必死に抵抗していると、ヒカルがキーボードを叩きながら淡々と口を挟んだ。
「……犬の移動はベクトルの推測により高精度のルート予測が可能。日当2万円も、資産運用益の計算上エラーに不該当。当該案件は受理相当」
「ほら!助手のヒカルちゃんもこう言ってるし、イナガキ所長、絶対に見つけてあげてね!」
「だから、俺は所長じゃ……」
タエ子さんは聞く耳を持たず、強引に地図を机に叩きつけ、嵐のように去っていった。
「おい、なんで俺が所長じゃないって強く訂正しないんだよ!」
ヒカルは少し気まずそうに目を逸らし、ヘッドホンを深くかぶり直してボソリと口を開いた。
「……タエ子さんの物理的な接近距離と圧倒的な声量。僕の処理能力の許容量をオーバーフロー。正面から向き合えば、数秒でショート」
「もっともらしい理屈こねてるけど、お前、ただタエ子さんのパワーにビビって俺の陰に隠れてただけだろ!」
「……そうとも言う」
「正直かよ!」
ヒカルはプロテインウォーターを一口飲み、淡々と続けた。
「……強烈な対人ノイズから身を守るための『物理シールド』。イナガキさんを矢面に立たせ、防波堤とするのは極めて合理的」
「俺を盾にする気満々じゃねえか!だったら危険手当くらい出しやがれ!だいたい、一日2万で安請け合いしてたら、いつまでたっても俺の給料も上がらねえぞ!」
「……君の給料は僕の資産運用益から支払うため問題なし。無意味な自立心の主張と、不当な小遣いの要求はカロリーの無駄。……移動開始。機材の運搬を」
そう言って、ヒカルはスマートでペラペラの薄型リュックサックをスタイリッシュに背負った。
俺は、パンパンに膨れ上がって重そうなリュックサックを背負わされながらボヤいた。
「くっ……!金を握られてるから強く出られねえ!……って、同じリュックサックなのに、なんで俺の方ばっかりこんな重いんだよ!」
「……僕のリュックにはノートパソコンなどの精密なデジタル機材。イナガキさんのリュックはトレイルカメラ等の物理的なアナログ捜索機材。頭脳と足の役割分担として、極めて合理的」
「お前のはペラペラで、俺のリュックだけ岩でも入ってんのかってくらいパンパンじゃねえか!」
俺はため息をつきながら、事務所を出た。
*
事務所前の路上に出ると、向かいの『さくらベーカリー』からエプロン姿のカスミちゃんが小走りでやってきた。
少し頬を染め、上目遣いでヒカルに小さな紙袋を差し出す。
「ヒカルさん!これ、新作の甘いコーンパンが焼けたので、もしよかったらお仕事の合間に……!」
しかしヒカルは、空間の一点を見つめたままパンをじっと観察した。
「……精製された小麦粉と多量の砂糖。血糖値の急上昇を招き、脳内の情報処理速度を著しく低下させる。摂取する合理的な理由が完全に欠如。……不要」
「えっ……」
「ばっ!お前、相場は分かっても、女の子の気持ちは分からんのか!永久にモテないぞ」
俺はヒカルの頭をはたき、慌ててカスミちゃんから紙袋を受け取った。
「ありがとうな、カスミちゃん!後で仕事の合間にコイツと美味しく頂くからさ!」
「そ、そうですよね……。お仕事、頑張ってください 」
逃げるように去っていくカスミちゃん。
「……イナガキさん、呼吸が増加。なぜ怒ってる?」
「……お前のせいだよ!行くぞ!」
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
次回、ヒカルはどのように分析は!?イナガキの対応は!?
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