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第八話 修復と逃走

(何だ……? あの不気味な魔法円サークルは……!? 文字がない。祈りがない。……まるで、血の通わぬ冷徹な機械が、世界の一角を切り取っているような……!)

 

 鬱蒼とした森の片隅に息を潜めていた暗殺者の男は、五臓六腑が凍りつくような驚愕に震えていた。

(ば、馬鹿な……! 泥人形ゴーレムが、塵一つ残さず跡形もなく消えただと……!?)

 

 男はガタガタと震える手で、再び「思念通話」の術式を立ち上げた。

『し、失敗しました、信じられません! 実験用の大型泥人形ゴーレムが一瞬で消滅させられました! いえ、あのガキが見たこともない魔法を……えっ? 聞かれてる!? すぐに、ここを離脱――』

 

「……これ以上、ここを汚すな」

 

 鼓膜を冷たく叩く小さな声。ハッと顔を上げた男の視界に、底知れぬ殺意を湛えた真っ赤な瞳の少女が、真っ直ぐに歩み寄ってくる姿が映った。

「『リガチュール(拘束魔法)』だとっ!? 気づかれたというのか……この俺が!?」

 

 男は咄嗟に逃走を図ろうとしたが、五体はすでに白銀の光の帯によって、岩盤に縫い付けられたように固定されていた。

「……動け、ない! 何だ、この光の帯は……! こ、この俺の魔力抵抗レジストを完全に貫通したというのか!?」

 

(やっぱり誰か潜んでいたか)

 ブランシェは、男が術式を発動した際、大気中に生じた「思念通話」の僅かな魔力のノイズを見逃さなかった。

 あの洗礼の日、世界を構成する最小の光の粒子――光子フォトンに意識を同調させた彼女は、今や周囲に存在する人間の位置、とりわけ魔導師が放つ固有の魔力波形を完璧に逆探知できるようになっていた。それどころか、空間を飛び交う魔力の流れそのものが、彼女にとっては「部屋の空気の淀み」のように視覚的に捉えられていたのだ。

 

(ここで待ち伏せされていたんだ。あの泥人形ゴーレムを操ってエミをあんな目に遭わせたのも、このゴミ虫か。……ちくしょう、こいつもまとめて綺麗に消去してやる!)

 

 ブランシェが正体不明の暗殺者へとさらに歩みを進めようとした、その時だった。

「エミ! しっかりして! 目を開けてちょうだい!」

 背後から、パニックに陥った教会関係者たちの悲痛な叫び声が森に響き渡った。

 

(そうだ……エミを、おばあちゃんを助けなきゃ!)

 

 ブランシェの足が止まる。彼女は目の前で身動きの取れない暗殺者を冷酷に見下ろし、言い放った。

「動くな。後でゆっくり『処理』してやるから」

  

 光子の密度を極限まで高め、男の周囲の時間を止めるかのように空間を完全固定パッキングする。脱出の余地を完全に奪う梱包作業ホールドを完了させると、ブランシェは小さな身体を翻し、エミの元へと急いだ。

 

 現場では、取り乱した教会の女たちや護衛の兵たちが、代わる代わる「ソワン(回復魔法)」をエミに浴びせていた。しかし、淡い光がどれほどエミの身体を包もうとも、破れた肉体が治癒する気配は微塵もなかった。ぐったりと地面に横たわるエミの胸元からは、未だにどす黒い血液が容赦なく流れ出し、彼女の着ていた純白の服を無惨に、そして絶望的に汚し続けていた。

 

「ブランシェ……さっきの、魔法……すごいわね……。なんて、精緻で……美しいのかしら。まるで、神様が描く天界の、図面のよう……」

 息も絶え絶えなエミが、それでも孫娘の起こした奇跡に瞳を潤ませて囁いた。

「おばあちゃん、分かったからもう動いちゃ駄目だよ。今、すぐに治してあげるから」

「ブランシェ……あなたは、本当に……アルビナ様の……」

 

 ブランシェがエミの痛々しい胸元にそっと両手をかざした。 刹那、彼女の手のひらとエミの身体の隙間に、極小の白銀の魔法円が幾重にも重なり合って展開された。それはやはり神聖な意匠というよりも、精密機械の透過図面そのものであった。


(……肋骨が折れて、内臓もひどい有様だ。だが、さっきのゴミ退治と同じだ。やるべき工程は変わらない。俺は医者じゃない。これは医療ではなく――作業だ。配管(血管)の接合、そして芯材(骨)の溶接を行う)

 

 ブランシェの小さな指先が、そっとエミの肌に触れた。

 体内に浸透した高密度の光子フォトンが、組織から漏れ出して内臓を圧迫していた血液(汚れ)を一瞬で蒸発させ、破断した血管や臓器の壁に「光の膜」でパッチを当てるように超高速で補修していく。不自然な方向に折れ曲がっていたエミの腕が、見えない力に誘導されるようにパキパキと音を立てて正しい位置へと戻り、光子がその継ぎ目を一瞬で結合させていった。

 

(……よし、メインの主要配管(大動脈)の漏れは止まった。あとは、細胞の間に溜まった不純物(鬱血)をすべて体外へ掃き出せば……!)

 

 ブランシェが深く息を吐くと同時に、エミの肌の毛孔からどす黒い霧のようなものが一斉に排出された。次の瞬間、死人のようだったエミの顔に、透き通るような瑞々しい血色が戻ってくる。

 それは医学や治癒魔法というよりも、「ミクロ単位で施された完璧な修復工事」であった。

 

 やれやれこれで一安心だ――ブランシェが胸を撫で下ろした、まさにその瞬間だった。

 さっきまで完全に梱包パッキングし、塩漬けにしておいたはずの暗殺者の気配が、唐突に消失した。

(どういうことだ? いくらエミの修復作業に集中していたとはいえ、空間ごと固定したあの梱包から自力で逃げ出すことなど不可能なはずだぞ!?)

 

 ブランシェが急いで先ほどの場所へと戻ると、案の定、男の姿はどこにもなかった。

(しまった……! エヴィック大司教たちに引き渡せば、この襲撃の裏にいる黒幕の情報が得られたはずなのに!)

  

 男の身体を縛っていた光の帯は無惨に霧散していた。しかし、全知の探知能力を持つブランシェの鋭い視線は、男が消え去った足元に、見慣れぬ「消えかけた転移の残光」が微かに燻っているのを見逃さなかった。


「ブランシェ様! エミの意識が完全に回復いたしました!」

 背後から修道女の歓喜の声が上がり、ブランシェは思考を切り替えて一目散に駆け寄った。

「おばあちゃん……っ! よかった!」

 そこには先ほどまでの冷徹な職人の面影はなく、ただただ大好きな祖母の無事を喜ぶ、あどけない五歳の幼児の顔があった。

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