第七話 消滅
「きゃああっ!」
ブランシェのすぐ傍らで、集めた薬草を麻袋に詰めていた若い修道女が、喉を切り裂くような悲鳴を上げた。
設営されたばかりの拠点の中心。その地表が不気味に沸き立ち、突如として巨大な「泥人形」がずるりと姿を現したのだ。全高は三メートルに達しようかという巨躯。それが何の予兆もなく地面から出現し、真っ直ぐにブランシェを目掛けて進撃を開始した。
(やばい、こっちに来る……!? 地面から直接湧き出たのか? さすがにこんな化物が歩いて近づいてきたなら、有能な護衛たちがもっと早く気付いたはずだ)
不意を突かれた警護の者たちが、即座に剣を抜いて反応する。同時に、先ほど悲鳴を上げた若い女が、とっさにブランシェの小さな身体を抱きかかえ、麓の停車場にある軍の詰所を目指して走り出そうとした。
だが、泥人形のほうが一歩早かった。巨体が獰猛に地面を叩くと、大人たちの足元からヘドロのような粘着質の触手が無数に噴出し、一瞬にして全員の身体を絡めとったのだ。
その汚濁の触手に触れられた箇所から、みるみるうちに禍々しい黒いシミが広がっていく。誰もが猛烈な苦痛に顔を歪め、指一本動かせない金縛り状態に陥った。
「いかん! 『リガチュール(拘束魔法)』だっ!」
護衛のひとりが、絶望的な声を上げる。
(泥人形のくせに魔法を使うのか?)
「ブランシェっ!」
騒ぎを聞きつけ、森の奥からエミが必死の形相で駆け寄ってきた。だが、その足は泥人形の醜悪な姿を視界に捉えた瞬間、凍りついたようにピタリと止まった。
「ああ……嘘、でしょ……あの時と、同じ。あの人を……夫を殺した、魔物……!」
エミの脳裏に十五年前の悪夢が鮮烈に蘇る。彼女は激しい恐怖にその場に崩れ落ち、歯の根も合わないほどガタガタと震え出した。
(泥人形を知っている……? まさか、エミの旦那さんを殺した魔物の正体って、こいつなのか!?)
若い女の腕に抱かれたままのブランシェに、巨大な泥の質量が迫る。その泥人形の空虚な双眸は、初めから彼女という明確な標的をロックオンしているかのようだった。 ブランシェの見上げる頭上に、岩塊のような拳がゆっくりと振り上げられる。
(このままだと、一撃で叩き潰される……!)
強烈な死の予感にブランシェが身を強張らせた瞬間、泥の影を遮るようにして、エミの身体がブランシェの上に覆い被さった。
――ゴリッ。
肉と骨がひしゃげる鈍い音が静かな森に響き渡り、エミの身体が紙屑のように激しく吹き飛んだ。
「誰か……っ! ブランシェを……連れて、逃げて……!」
ごぼごぼと口から容赦なく鮮血を溢れさせながら、エミは途切れ途切れの声で必死に叫んだ。衝突の刹那、背中に咄嗟の防御魔法を展開していたのだろう。辛うじて直撃の衝撃を緩和したようだったが、その身体が瀕死の重傷を負っていることは誰の目にも明らかだった。
五歳の少女の視界の中で、世界のすべてがゆっくりと色を失っていくようだった。
この世界に転生してからの五年間。周囲の大人が誰も彼も自分を「聖女の器」という記号でしか見ていなかった中で、唯一、自分を「ブランシェ」という一人の人間、愛すべき孫として無条件に抱きしめてくれたのが、このエミおばあちゃんだった。
その優しかった人の白い巡礼服が、今、禍々しい泥と、どす黒い血液によって無惨に汚されていく。 元清掃員としての本能が、そして何より一人の人間としての激しい怒りが、ブランシェの魂の奥底で爆発しようとしていた。
(こいつは、俺の大切な家族を汚す極大の『ゴミ』だ。……この世から根こそぎ消してやる!)
その強い意志に呼応するように、今まで彼女の周囲にハウスダストのように漂っていた魔力の粒子が、一瞬にして一糸乱れぬ方向へと美しく、そして完璧に整列していく。空気中の素粒子のひとつひとつまでが、自分の手足のように意のままに操れる――そんな絶対的な全能感が、五歳の少女の小さな身体を支配した。
次の瞬間、若い修道女とブランシェを締め上げていたはずの泥の触手が、何の前触れもなく音を立てて崩壊した。黒い汚濁だったはずの塊は、一瞬にして漂白されたような白い砂となり、さらさらと地表へ滑り落ちていく。
拘束から解き放たれたブランシェは、小さな足で力強く地面を蹴った。驚愕に目を見張る暗殺者の視線を置き去りにし、泥人形から十分に距離を取ると、その正面へと毅然と立ち塞がる。
「ブランシェ……何を、するつもりだい……」
血の海に伏せる瀕死のエミが、信じられないものを見るかのように孫娘の背中を見つめた。ブランシェは振り返ることなく、幼い声を静かに響かせる。
「おばあちゃん。私、ここを綺麗にするね」
ブランシェが小さく右手をかざした。刹那、泥人形の周囲の地面に、音もなく白銀の幾何学的な光線が走り、完璧な正円を描き出した。さらに円の内部には、無数の細い光の線が超高速で交差し、まるで方眼紙のように空間を美しく均等に区切っていく。
(この円は……俺が書いたのか? いや、俺の思考を、この世界の『力』が勝手に翻訳して出力しているのか……!)
(なるほどな。この光の円の中が『作業範囲』ってわけだ。親切な初期設定をありがとう、アルビナさん)
(……範囲指定完了。対象、汚れの濃度、最大。――クレンジング・プログラム、実行)
ブランシェの可憐な指先から溢れ出たのは、夏の太陽よりも鋭く、磨き抜かれたガラスよりも透明な「白」の光だった。
「……『光子分解洗浄』」
彼女の冷徹な意志に従い、空間を埋め尽くす何百、何億という光子の位相が一方向に整列し、泥人形の巨大な質量を完全に対象へと包み込む。
三メートルの巨躯が、断末魔の咆哮を上げようと歪んだ。しかし、その喉の組織はすでに素粒子レベルまで分解され始めており、大気を震わせる「音」になることすら世界の物理法則が許さなかった。
崩れ落ちるのではない。泥に戻るわけでもない。 巨大な不浄の塊は、輪郭を失い、ただの神聖な光の粒となって静かに森へと溶けて消えていく。
あとに残されたのは、醜悪な泥も、血の臭いも、何者かが放った邪悪な殺意さえも、最初から存在しなかったかのような――あまりにも清浄で、どこまでも透明な「無」の空間だけだった。




