第六話 兆し
大星歴八六九年七月七日 朝
城田がブランシェとしてこの世界に転生してから、五年目の夏がやってきた。
彼女が生きるリエヴァンの街は、周囲およそ三キロメートルに及ぶ堅牢な城壁に囲まれた城塞都市だった。北側には峻険なオレオル山が迫り、南側は美しい海に面している。総人口は一万五千人ほどで、街の信仰の象徴であるリエヴァン大聖堂を中心に広がる活気ある交易都市だ。北の街道からは陸路の物資が、南の港からは帝国を行き来する貿易船が出入りしている。
気候は極めて温暖であり、前世の日本のような肌を刺す猛暑というものはない。この世界の文明は、お世辞にも科学が発達しているとは言えなかった。だが、人々は生活に不便を感じていなかった。人間は不便を解消するために科学を発達させてきた歴史があるが、この世界には「魔法」という超常の利便性がすでに存在していたからだ。近郊の肥沃な土地からは豊かな農産物が収穫され、海からは新鮮な海の幸がもたらされる。リエヴァンは誰もが認める豊かな街であった。
――だが、その豊かさと引き換えに、この世界には絶対的な天敵が存在した。魔物である。
ここリエヴァンでも、ほぼ毎日、何かしらの魔物の被害に遭う者が後を絶たなかった。襲われるのは大抵、城壁の外へ農作物を収穫しに行った者や、山中へ薬草摘みや狩猟に出かけた人々だった。家族を魔物に奪われた遺族たちは悲嘆に暮れるが、決して絶望はしなかった。魔物は強力だが、人間が力を合わせれば十分に殺せる存在だからだ。そのため、人々は魔物に対抗すべく、日頃から徹底して身体を鍛え上げていた。
だがしかし。これほど物騒な世界であるにもかかわらず、ブランシェは未だに全く魔法が使えなかった。あのポンコツな女神アルビナは確かに力を授けると言ったはずだが、取扱説明書を渡し忘れたらしい。
(こんなやばい世界で、この先俺はどうやって生きて行けばいいんだ……?)
拭いきれない不安に駆られ、ブランシェは夜明け前の暗がりの中で、寝床から小さな上半身を起こした。 視界に入ってきたのは、相変わらず薄汚れた教会の壁と床だった。
(……いや、不安がってる場合じゃないな。今度ここを徹底的に磨いてみるか。そもそも、部屋の中なのに土足で出入りする文化が間違っている。確か奥にボロ布があったはずだ。あとは手頃な棒切れがあれば、モップを自作して……)
「ブランシェ、どうかしたの? 怖い夢でも見たのかい?」
隣の布団から、エミが心配そうに目を覚ました。
現在、エミとブランシェは大聖堂の一室を間借りして暮らしている。実の母親であるエレーヌが「あの忌み子と同じ屋根の下には住めない」と激しく拒絶したためだった。元々の家はエレーヌ夫婦に譲り、エミは幼いブランシェを連れて教会へと引っ越してきたのだ。そこには、本物の女神の生き写しであるブランシェを何としても手元に置いておきたい大司教エヴィックの思惑も絡んでいた。
風の噂では、エレーヌには三年前、男の子が生まれているという。名前はセドリック。たまにふらりと現れる父親のアルバンが、エミに楽しそうに話しているのを小耳に挟んだだけだが、髪は父親譲りの見事な金髪で、エレーヌは狂喜せんばかりに溺愛しているらしい。アルバンは今度姉弟を引き合わせると言っていたが、エレーヌが絶対に許すはずがなかった。今後も、その弟の顔を見る機会はないだろう。だが、ブランシェにとってはどうでもいいことだった。自分には、前世の孤独な人生にはいなかった、エミという本物の肉親がここにいてくれるのだから。
「違うの……」
ブランシェはふと、床磨きの段取りを考えているうちに、先ほどまでの生存への不安が綺麗さっぱり消え去っていることに気づいた。やはり自分は、掃除の事だけを考えている時間が一番落ち着くのだ。
「お、お掃除しなくちゃと思って」
五歳の少女の口から飛び出したあまりにも場違いな宣言に、まだ眠気の残るエミは目を丸くするのだった。
エミはにっこりと微笑みながらブランシェの頭に優しく手を置き、生活魔術である「ピュリフィエ(浄化魔法)」をかけてくれた。 この魔法は、わざわざ水で顔を洗ったり沐浴をしなくても、一瞬で身体を清潔に保てる非常に便利な術だった。エミはこれ以外にも、簡単な傷を治したり痛みを和らげたりする「ソワン(回復魔法)」にも深く熟練している。
銀翼教会は、女神アルビナの慈愛による悔い改めと救済を布教する組織だった。悔い改める者には無償の慈愛が与えられることから、この教会は実質的に、この街における生活保護施設や病院としての機能も兼ね備えている。そのため、エミのように教会で働くスタッフは皆、日常的に回復魔法や浄化魔法に精通していた。
「いつも、きれいにしてあげてるからね」
得意げに言うエミによって、一瞬でこざっぱりとさせられたブランシェだったが、その内心は複雑だった。
(いやいや、そういうことじゃないんだ……! この世界の魔法は便利すぎる。だから誰も彼も、壁や床をピカピカに磨き上げるという『職人の根性』がないんだ。ああ、俺もせめて、汚れを削り落とすような研磨魔法が使えたらなぁ……)
「ねえ。どうやればエミみたいに魔法ができるの?」
「ブランシェなら、きっとすぐに使えるようになるわ。全てはアルビナ様の思し召しだもの」
エミは「いつかきっと」と優しい言葉を繰り返すばかりだった。
しかしブランシェ自身は、あの洗礼の日にふと目にした、室内にハウスダストのように漂っていた「魔力の粒子」が、自分の意志一つで一斉に制御できそうな、奇妙な全能感の記憶を反芻していた。
「さあ、支度ができたら朝の礼拝に出かけるよ」
二人は敬虔な銀翼教会の徒である。毎朝、リエヴァン大聖堂でお祈りをするのが二人の確かな日課だった。
「おはよう、ブランシェ。今日も元気そうだね」
大聖堂の中央回廊に着くなり、エヴィックが気安く声をかけてきた。浮かべている笑みは温厚そうだが、その奥にある眼光は相変わらず鋭い。
銀翼教会において、大司教エヴィックは実質的なナンバー2の実力者である(※頂点には枢機卿が君臨している)。そんな高位の聖職者が、一介の身寄りのない少女にわざわざ歩み寄ってくるのは、やはりブランシェが特別だからに他ならない。エヴィックはあの密室で、彼女の魂に「アルビナ」という秘匿された洗礼名を刻んだ張本人なのだ。
「おはようございます」
ブランシェも小さな身体をちょこんと折り曲げて、大人の礼儀に則った挨拶を返す。すると、周囲の神父や修道女たちが、まるで奇跡の光を見るかのように眩しそうにブランシェを見つめた。中には、その場に跪いて拝み始めそうな熱狂的な信者すらいる。
(悪い気はしないが、このままでは本当に現人神の偶像にされかねないな。……今のうちに、何とか逃げ出す算段を立てられないものか)
礼拝の際、ブランシェは常に最前列に並ばされた。「銀翼の女神像」が厳かに鎮座する中央回廊の、最も目立つ特等席だ。大聖堂に掲げられた古代の祭壇画の少女が、そのまま現実の女神像の前で祈りを捧げている――そんな劇的な絵柄を、一般信者たちに見せつけるための演出だった。すべては、教会の権威を再興せんとするエヴィックの、周到な政治戦略であった。
厳かな礼拝が終わりを告げると、エヴィックが静かに二人の傍へと歩み寄り、エミに向けて切り出した。
「実は、薬膳に使う重要な薬草が不足してしまってな。これから人を出し、オレオル山へ採集に行かせる。エミも、ブランシェを連れてその一隊に加わってはくれないかね? 薬草の生態に詳しい君が同行してくれれば非常に助かるのだ。それにブランシェにとっても、街の外の世界を経験させる良い機会だろう。念のため、腕利きの護衛も数名つけておいたから安心するといい」
「オレオル山、にですか……」
エミの表情が、目に見えて暗く曇った。 十五年前のあの日――エミは夫と共に、まだ幼かったエレーヌを連れてまさにそのオレオル山へ薬草採取に出かけ、そこで突如現れた魔物に夫の命を奪われたのだ。エレーヌとの関係が修復不可能にまで壊れてしまったのも、すべてはその日の悲劇が発端だった。
「最近は魔物の動きも下火になってきていると聞く。まあ、ちょっとしたピクニックのようなものだよ」
エヴィックは何も知らない様子で、気楽そうに微笑んでいる。
「……わかりました。お役に立てるなら」
エミは小さく息を吐くと、自分が心配性を拗らせているだけだと言い聞かせるように、その要請を静かに承諾したのだった。
薬草の採集任務とはいえ、まだ五歳の幼いブランシェが同行するとあって、一行はかなりの大所帯となった。大きな馬車が二台、鉄の胸当てをつけた警護の者が六名、配置されている。そこに薬草を採集する教会関係者たちが加わり、合計二十名を超える一隊が、リエヴァンの堅牢な北側城壁をくぐり、静かに出発した。
目指すオレオル山は、幾重にも張り巡らされた巨木の枝葉のせいで、昼なお暗い鬱蒼とした原生林だった。その薄暗い地表には、ここにしか存在しない希少な菌類や植物が群生している。そのため、より価値のある薬草を求めて森の深部へと入り込み、魔物の餌食となる者が後を絶たなかった。かつてエミの一家が襲われたのも、まさに珍しい薬草を求めて、うっかり森の深部へ足を踏み入れてしまったのが原因だった。
幸い、麓までは整備された街道が続いており、快適な道中だった。麓には王国の管理する馬車の停車場があり、軍の詰所も設置されている。一行はそこに馬車を預け、ここからは徒歩で森へと分け入った。五歳のブランシェは、エミの背中に負ぶわれたり、時に自分の足で木々の間を駆け抜けたりしながら、大人たちの足についていく。
一行の中の「ジョスタン」という名の男の案内により、森の中の少し開けた空間に拠点が設営された。天幕を張り、何組かの班に分かれていよいよ目的の薬草採集が始まる。大司教エヴィックから直々に依頼された薬草は数種類あり、どれも街の中では栽培できない植物ばかりだった。危険を冒してここまで来なければ手に入らない代物であり、エミのような熟練の薬草学者がいなければ、必要量を集めることなど到底不可能な任務であった。
(いい天気だな。……することがないから、花でも摘んで待ってるしかないか。ここには、俺が磨きたいような汚れもないしな)
ブランシェが退屈を覚え、のんびりと周囲を見渡した、その瞬間だった。
森の奥から、まるで「拭っても落ちないべっとりとした油泥」が染み出してくるような、ひどく不快な気配が漂ってきた。
(……不快なノイズだ。誰かに見られてる?)
五歳の少女の肌が、元清掃員としての本能的な嫌悪感とともに、未知の敵意を察知していた。
――だが、ブランシェたちがこのオレオル山の森へ到着する少し前、さらに深い木陰には、すでに不穏な人影が潜んでいた。
『ええ、わかっています。しかし、たかがガキ一人を消すのに、わざわざ泥人形を動かすなど大袈裟では? ……ええ、まあ、念には念を入れろというのは分かりますがね』
男は周囲を警戒しながら、頭の中に響く声と「思念通話」で密かに会話を交わしていた。
『気づかれる心配はありませんよ。奴らはここで待ち伏せされていることすら知らないのですから。異変に気付いた時には全てお終いです。ええ、教会の内通者が、例の場所まで綺麗に誘い込む手はずになっていますから。……油断? まさか。生き残りは出しませんよ。全員ここで(お掃除)して差し上げます。簡単極まる仕事です。終わったらまた連絡します』
男は冷酷な笑みを浮かべ、「思念通話」を打ち切った。
誰とも知れぬ闇の意思が仕掛けた、幼いブランシェの暗殺計画。そして、彼らを死地へと誘う内通者の影。何も知らないエミたちが薬草を摘むすぐ傍らで、破滅の足音が確実に近づいていた。




