第五話 洗礼名
城田がブランシェとしてこの世界に生を受けてから、三ヶ月が経った。 ほとんど身動きもできないままベッドの上で日々が過ぎ去っていく。相変わらず、この産室は元清掃員の城田にとって限界が近いほど「汚い場所」だった。
それはそれとして、最近のブランシェには、自分の周囲にハウスダストのように漂う奇妙な粒子が見えるようになっていた。というより、肌で感じられるのだ。恐らくこれが、アルビナの言っていた「魔力」なのだろう。しかし、それを自由に操ることはまだできない。どうすればいいのか、あのポンコツな女神は教えてくれなかったのだ。
(これ、吸い込んだら体に悪そうだな……)
ブランシェはぼんやりと薄汚れた天井を見上げながら、本気でハウスダストを心配するように思った。
「ブランシェ。今日は洗礼を受ける日よ」
エミがそわそわとした様子で部屋に入ってきた。どうやらそういうイベントらしい。それはそうと、赤ん坊をこれほど長時間一人で放置するのは衛生的にどうなのだろう。この異世界ではそれが普通なのかと、ブランシェは内心で眉をひそめた。
エミの手によって着せられたのは、リエヴァン大聖堂に代々伝わる「聖銀糸の洗礼衣」だった。溜息が出るほど精緻な刺繍が施され、背中から胸元にかけて女神アルビナの銀翼を模した紋様が浮かび上がっている。衣装には聖油と香料が深く染み込ませてあり、薔薇や白檀のような、鼻を突くほど濃密な香りが漂っていた。だがブランシェにとっては、自分が「赤ん坊」という儀式のアイテムを包むための、少し豪華な包装紙に包まれているようにしか思えなかった。
「まあ! なんてお似合いかしら。本当に天から舞い降りた天使のよう……」
涙を浮かべるエミの指先だけが、この部屋で唯一、薬品や香料の匂いがしない「生活の匂い」をさせていた。その温もりに、ブランシェはそっと顔を埋める。
(おばあちゃん。俺は天使なんかじゃないよ。ただ、この世界の淀みが少し気になるだけの、しがない清掃屋なんだ)
「さっそく洗礼の準備をしろ」
大聖堂に到着したエミとブランシェを、大司教エヴィックが促した。案内されたのは、一般の信者は決して立ち入ることができない大聖堂の最奥――「聖域」と呼ばれる密室の礼拝堂だった。窓のない、冷え冷えとした石造りの部屋。無数の銀の燭台が灯り、蜜蝋と古い紙、そして重苦しい香料の匂いが充満している。要するに、空気が完全に淀んでいた。
(今すぐ換気扇を回したい気分だな……)
ブランシェは一人、不快そうに顔を顰めた。
通常のリエヴァン市民への洗礼であれば、村の司祭や下級の神父が執り行うものだ。それを大司教自らが、しかもこの隔離された聖域で行うという事実は、この洗礼がただ事ではないことを物語っていた。国教である大星教会から「異教の巣窟」として常に監視されている銀翼教会にとって、この「アルビナの生き写し」の存在は、決して公にできない国家機密だったのだ。
この秘密の儀式への参列者は、大司教エヴィックの他には、エミとアルバン、そしてエレーヌの親族だけであった。エレーヌにとっては、実に三ヶ月ぶりの我が娘との対面であった。
エヴィック大司教が聖油を指につけ、ブランシェの額、胸元、そして手のひらに十字を刻んでいく。
(うわっ、べたべたじゃないか。油汚れは落ちにくいんだよなあ。後できれいに拭ってくれるんだよね?)
次に、銀の盃に入った聖水がブランシェの額に三度注がれた。
(冷たっ! ま、まあ水なら乾けばいいか……)
そしていよいよ、洗礼名の授与である。エヴィックはブランシェの耳元で、重々しく囁いた。
「今日よりお前の魂に刻まれる真の名は、アルビナである。光を継ぎ、汚れを祓う者よ」
(なるほど、エヴィックさんは俺を神の座に据えて、教会の権威を磨き直したいらしい。だが、人間の野心というのは、磨けば磨くほど醜い曇りが出るものだ。この洗礼の場に漂う空気も、少しばかり重たすぎるな)
「ア、アルビナ様……!? エヴィック様、それはあまりに……畏れ多いことで……。洗礼名に神の名を付けるのはご法度です! ……このことがもし王国に知られれば」
震える声で懇願するエミを、大司教は冷たい眼光で鋭く制した。
「これは私の意志ではない。神の配剤なのだ、エミよ。この奇跡の前では王国の法など意味をなさない。我々の存在の方が七百年以上古いのだからな。ブランシェは銀翼教会で守り抜く。私が直接導く。王国にはこの洗礼名を隠し通すのだ。長い王国の支配から解き放たれ、我らが千五百年の悲願――『神聖アルビナ教国』が誕生するその日までな」
エヴィックはブランシェを高く掲げ、参列するエミ、アルバン、エレーヌたちを見下ろして宣言した。
「この名を知る者は、神の沈黙を守らねばならぬ」
「ア、アルビナですって……!」
エレーヌの拳が、真っ白になるほど強く握りしめられた。その顔から一切の表情が消え失せ、かつて神に向けられていた憎悪のマグマが、今や真の意味で実の娘へと注がれていく。
「この名は、決してこの部屋から出してはならぬ。もし外に漏れれば、お前たち全員が『異端』として即座に処刑される。王国は容赦せんぞ」
エヴィックが最後の念を押す。
とんでもない神事の片棒を担がされ、膝から崩れ落ちるエミ。厄介な場所に巻き込まれたと顔を顰めるアルバン。そして、実の娘を宿敵の化身として見つめるエレーヌ。
(まったく、勝手に盛り上がって決めないでほしいよな。まあいい、名前なんてただの識別ラベルだ。エヴィックさん、あんたのその野望、どこまで綺麗に磨き上げられるか見届けさせてもらうよ)
大人が繰り広げる泥沼の愛憎劇を、赤ん坊は泣き出すこともなく、ただ冷ややかな瞳で眺めていた。ブランシェはこの泥沼のような世界で、自分がこれからどう立ち回るべきか、早くもその方向性を定めつつあった。




