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第四十一話 最初の授業

 午前五時。まだ夜の帳が降りているオロールの空の下、第二生徒館の廊下からは、荒々しい足音と「総員起こし!」という上級生の怒鳴り声が響く。ルシアンの言っていたとおり、ポーラとブランシェは週番生徒に叩き起こされ、扉の前に直立不動の姿勢で整列して点呼が行われた。

 

 こうして、兵学校の「日課」が始まる。

 日課とは、生徒の起床から体操、掃除、食事、点呼、消灯までの二十四時間の内、授業である教務を除いたすべての時間を指す。

 

 朝の掃除は、教官室のある庁舎前の広大な石畳の清掃である。授業ではないからといって、決して手を抜くことは許されない。まだ冷たいセクアナ川の水をバケツで運び、膝をついてひたすら石畳を磨く。

 雪のようなブランシェの髪が、跳ね返った泥水で汚れそうになるが、彼女はそれを気にすることもなく、恍惚とした表情で黙々と手を動かし続けている。ただ、ブランシェが触れた石畳だけが「新築のように白く輝き出している」ことには、まだ誰も気づいていなかった。

 

 労働の後の食事は、裏門の近くにある、半地下の石造りの寒々しい食堂で出される。長い木製のベンチが並び、調理場からはジャガイモと安物の塩漬け肉の匂いが漂っていた。

 いくら平民で地位が低いとはいえ、恤兵部の生徒も将来の後方支援・救護を担う士官候補生である。そのため、調理と配膳は全て民間から雇われた沈黙者スィランスの最下層民が担当していた。


「……よくそんな硬いパン、淡々と食えるな、ブランシェ」


 一緒に食堂へやってきたルシアンが、ジャガイモ入りの塩辛いスープをすすって顔をしかめる横で、ブランシェは細い指で黒パンをスープに浸し、音も立てずに口へ運んでいた。


「意外と繊細なんですね、ルシアンは。生きるための栄養補給ですから、味はどうでもいいですよ。ポーラだってほら……」


 と、隣の席でスプーンでジャガイモのスープをがつがつと口に放り込んでいるポーラの方を見る。


「……は、はやふひないと、八時の教務におふれちゃいますふぁらね!」


「ま、まあ……お前ら、見た目はヤワだけど恤兵部の素質が十分にあるよ……」

 

 二人の会話を聞きながら、ブランシェは、朝の掃除の泥で汚れた白いローブの裾を見つめた。

 

(……これが、毎日だって? ……最高か、ここ。……卒業までにはアンヴァリッド、いや、オロール中の石畳を研磨してやるぜ)

 

 八時の鐘が鳴って、教務が始まる。

 教務は、普通学(座学・理論)と術科(実技・演習)に分かれており、午前の教務は普通学の魔法医学だった。

 

 恤兵部第一学年の担任であるフレデリク教官から、改めてブランシェが紹介された。リエヴァン出身であること、帝国からの推薦を受けて編入してきたことなどが簡単に伝えられる。

 

「では、ブランシェ君からも皆に挨拶とこれからの意気込みを言いたまえ」

 

(よし、きた。こういうのは当たり障りのないのが一番なんだよね)

 

「えっと、入学は皆さんより遅れてしまいましたけど、一生懸命努力して一日でも早く追いつけるように頑張りたいと思います。得意な魔法は治癒と防御です。よろしくお願いします」

 

(……完璧! これ以上当たり障りのない挨拶ないでしょ?)

 

 果たして。なぜか教室がざわつきだす。小声でみんなが囁き合っている。

 

「得意な魔法って……あいつ、沈黙者スィランスじゃないのか……?」

 

「恤兵部で治癒と防御と言われてもなあ……」

 

「逆にイタイな……」

 

(あっ、アレか! 髪の色とか? しょうがないな、追加で説明しとくか)

 

「あと、髪の色が白いのは生まれつきなんです。身体の色素が無くて。もう慣れてるんで皆さんお気遣い無用ですから! ハハハ……」

 

 ブランシェの思惑とは裏腹に、一向にざわつきが収まることがない

 

「い、いやあ……」

 

「そういうことじゃないんだよな……」

 

「ゴホン! あ~ブランシェ君。なぜその二つの魔法が得意なのかね?」

 

(こ、これは! フレデリク先生からの助け舟か? 詳しく説明しろということ?)

 

「あー、えーっと。治癒は不純物を取り除き、あるべき姿に戻す作業です。防御は、外からの汚れを一切寄せ付けないためのコーティングですから。……この二つさえ完璧なら、世界は常に清潔に保たれます」

 

(よし、完璧! これでどうだ?)

 

「……この子、何言ってるの?」

 

「お掃除の話……?」

 

「コーティング……? 清潔……?」

 

 さすがのフレデリク教官も諦めて

 

「ま、まあいい。ではブランシェ君、ポーラ君の隣の空いてる席に着きなさい」

 

 と、促す。頭の後ろをかきながら照れ笑いを浮かべて着席するブランシェを見て、ポーラだけは、ブランシェの言ったことを全部信じて頷いていた。


 自己紹介が終わると、フレデリクの魔法医学の講義が始まった。

 二か月遅れでの編入という事情に加え、アインズィードラとの修行中は魔法医学など教えてもらったことがなかった。さらに、兵学校の数ある普通学教科の中でもフレデリクの講義は難解なことで有名で、黒板に並ぶ知らない記号を眺めているうちに、ブランシェの意識はどこか遠いところへ漂い始めた。

 

(セリアとも再会できて当初の目的は達成したし、なんならセリアのお屋敷で清掃員として雇ってもらっても……)

 

 などと上の空で考え事をしているとフレデリクから指名があった。

 

「ブランシェ君。ずいぶんと余裕そうに見えるが、前にきてこの問題を解いてもらえるかな?」

 

「……!?」

 

(……な、なんで……何で私なの?)

 

 初めての講義で指名されると思っていなかったブランシェは完全に油断していた。夢遊病者のようにゆっくりと立ち上がると、ふらふらと教壇に向かう。

 

(……終わった……。私の学園生活……。今日から無能の烙印を押されて、誰からも相手にされなくなるんだ……)

 

 既に、クラス中から「不思議ちゃん」認定をされているのを知ってか知らずか、なんとか教壇までいくと、フレデリクが黒板に書かれた文字を指さした。そこには、

 

『損傷した臓器に対する治癒魔法の有効性と限界、臓器組織再生の過程について、現行の魔法医療理論に基づいて述べよ』

 

 と書かれていた。

 

「ブランシェ君。これは魔法医学界での最先端の課題なのだが、これについて君の考えを聞きたいんだ。もちろん生徒には高度な問題なのでわかる範囲でかまわないんだが」

 

 フレデリクはブランシェを見つめてニヤリと笑った。

 

(フレデリク先生からの挑戦状というわけか。でもこれって……ちょっと待てよ! エミやジゼルに施した内容でいけるんじゃないか?)

 

「わかりました。少し時間をいただいても?」

 

「かまわんよ。私の自動速記用の白墨チョークを貸してあげよう。君の身長では黒板の上まで届かないだろうからね。もっとも書ければの話だが」

 

 自動速記用の白墨とは風魔法が封入された高価な白墨で、手を使わずに高速で文字を書ける白墨のことだ。

 

 ブランシェは黙って軽く頷くと目を瞑り集中した。

 

(……考えるな! 感じるんだ! エミを……ジゼルを治した時のイメージを……!)

 

 白墨が独りでに宙に舞った。黒板の面積を最大限に使って音を立てて文字を書き出す……。

 

『——治癒魔法の有効性は、対象の細胞が持つ自己修復能力を活性化させる点にあります。しかし、現行の水魔法の術式には限界が存在します。損傷により欠損した臓器を治癒魔法を用いて修復再生する場合……骨芽細胞と違い間葉系幹細胞の増殖は治癒魔法では決して行われず……なぜなら、臓器を構成する微細血管の網の目や神経ネットワークの構造を分子レベルで理解せず、単に肉組織を肥大化させているに過ぎないからです。真の臓器組織再生の過程とは、まず光属性の、大治癒魔法によって、幹細胞の分化を誘導し、毛細血管の再構築による臓器の再生が不可欠であり……再生した上で臓器を体内へ戻すこと……単に高出力の治癒魔法を施せば、組織は壊死を起こすか、機能不全の肉塊となるのは当然の帰結です。……なぜならば……』

 

 静まり帰った教室に、自動速記白墨が黒板に刻み付ける音だけが響く。


「幹細胞……?」


「分子……?」


 生徒たちが意味不明の言葉に戸惑うなか、目を瞑ったまま自動速記で解答を書き終えたブランシェは静かに言った。

 

「できました……」

 

「こ、これは……! 未だ大治癒魔法による臓器の完全再生例はないというのに……これではまるで、まるで実際に行った施術のようじゃないか……ブランシェ君!?」

 

「ハハハ! そ、そんなわけないじゃないですかー! む、昔リエヴァンの教会みたいなところで、親戚の叔父さんが治癒魔法で施術してもらったのを思い出して、推測したまでなんです。だ、大治癒魔法に関しても、教会の……な、なんか秘密の本かなんかに書いてあって……」

 

「ふむ……。確かにリエヴァンの銀翼教会には、王国成立以前より伝わる我々の知らない秘伝中の秘伝によって瀕死の女性が蘇生したという例があったらしいからね……。素晴らしい! ブランシェ君。完璧だよ。……私の授業で君に教えられることは、もうないかもしれないが……私の授業中はずっと寝ていてもかまわないよ」

 

 外部の魔法医学校から招聘された特別教官でもあるフレデリクは、軍人ではないものの、魔法医学の権威として強烈なプライドを持っていた。だが、見せしめとして難問を突き付けたブランシェに、魔法医学界最高峰の理論を語られて、鳥肌が立つほど興奮していた。


(なるほど……。編入手続きでひと悶着あったと聞いていたが……あの校長なら、彼女の編入を許可するはずだ……)

 

 午前の授業が終わると、ブランシェの周りにはすっかり、人だかりができていた。

 

「君、帝国で修行してたんだって?」

 

「大治癒魔法なんて、初めて聞いたわ? 使ったことあるの?」

 

「ほんとにすごいわ! あのフレデリクをぎゃふんと言わせるなんて! あいつ、いっつも私たちのこと馬鹿にしてるのよね~」

 

 わいわいと周りが騒がしい。そんな中、ルシアンが一人の男子生徒を連れてきた。すごく賢そうな目鼻立ちだ。

 

「ブランシェ、彼はフィリップだ。恤兵部一年の代表委員をしている。現在、恤兵部のマルク・ド・ラン第一位だ」

 

「よろしくブランシェ。フィリップ・アンティガだ。先程の治癒魔法の理論素晴らしかったよ。正直、帝国のコネでゴリ押し編入された生徒だと思っていたから……」

 

「ハハハハハ、えっと、全然そんなことなくって……家が教会の近くにあったから、魔法治療の現場をよく見てたからかも……」

 

(適当に謙遜しておこう。こういう時、図に乗るのが一番痛い奴なんだ……。自分でも、どうやって黒板の問題が解けたのかわからないんだから……)

 

「そうなんだ。でも本当に君は謙虚だな。それでこそ恤兵部だよ。自らの血を分け与える慈悲の心。我々は攻撃中心の魔導部に出来ない治癒魔法こそが……」

 

 フィリップの長演説が始まりそうになったとき、教室の入り口に、その場に似つかわしくない「紫の威圧感」が降臨した。

 

「ブランシェ、デジュネに行くわよ」

 

 迷いのない凛とした声に、教室中の生徒が一瞬で凍りつく。そこには、背中にさらさらと流れる紫の髪を揺らし、五大星公爵家筆頭の誇り高い紋章を付けたセリアが、当然のような顔で立っていた。

 

「えっと……デジュネ?」

 

 ブランシェが呆けた声を出すと、セリアの後ろからひょこりと若草色の髪の頭が覗いた。

 

「あらぁ、あなたが噂のブランシェちゃんね。てか、田舎者なのかしらぁ。デジュネもお知りにならないのぉ?」

 

 アガットが眼鏡の奥で目を細め、扇子で口元を隠してクスクスと肩を揺らす。

 

「い、いや、デジュネくらい知ってるけど……この人誰?……」

 

「ブランシェ、『これ』は無視でいいから。早く食堂へ行きましょ。あなたが食べるものは、私が特級調理師に用意させたわ」

 

「えっと、セリアの友達の……『これ』さん?」

 

 ブランシェが、セリアに倣ってアガットを指さすと、アガットの眼鏡がキラーンと鋭く光った。

 

「もうっ、本気で怒るわよぉ! 『これ』じゃなくてアガット! アガット・アンジェリク・ド・ピスケスエトワールよぉ!」

 

 アガットがおっとりとした口調の中にも地味な怒りを込めて地団駄を踏むが、セリアは冷徹にその間へ割り込み、ブランシェを背中に隠した。

 

「ブランシェ、相手にしなくていいから。毒が移るわ。さあ、早く行くわよ」


 セリアがブランシェの細い手首を掴んで歩き出すと、教室内は阿鼻叫喚の渦に包まれた。

 

「ご、五大星公爵家筆頭のセリア様と、ピスケスエトワール家のアガット様が……!?」

 

「なんで恤兵部の教室に、エトワール家の令嬢が二人も揃ってるんだよ!」

 

「ブランシェが拉致されたぞ! また、何やらかしたんだあいつ!?」

 

 午前中の講義では教官の意地悪な難問に最先端の理論を披露し、昼食は五大星公爵家の令嬢二人が迎えにくるという異常事態。

 フィリップは、このブランシェという少女こそが、魔導部と恤兵部の関係性を、いや、このアンヴァリッドそのものを根底から変え得る存在だと、このとき強く確信した。

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