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第四十話 再会

 そこは、同じ貴族であっても男爵や子爵階級の生徒では、扉の前に立つことさえ許されない領域――公爵家という至高の血筋を引く令嬢のためだけに用意された、特別な談話室だった。

 

 重厚な彫刻が施された黒檀の扉の向こう側は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。床には足音を完全に吸い込むほど厚い白銀の絨毯が敷き詰められ、壁に掲げられた歴代校長の肖像画が、侵入者を値踏みするように冷然と見下ろしていた。

 

 その部屋の最奥。最も高い背もたれを持つ椅子に、彼女は座っていた。 紫のさらさらとした長い髪が、椅子のベルベットの深い色調と対照的に浮かび上がり、その周囲の空気だけが、極低温に凍りついているかのように張り詰めている。

 彼女が手にしている、最高級の磁器に注がれたルテ。その表面は鏡のように静止しており、持ち主の指先一つ、呼吸一つ乱れていないことを示していた。

 

 涼しげな眼差しの奥に宿る、強い意志と隠しきれない威圧感。彼女の足元では、無意識に漏れ出た紫電の火花が、絨毯の上でチリ……と不吉な音を立てては消えていく。

 

 彼女の名は、セリア・オレリア・ド・ルプスエトワール。

 この五年間、セリアはずっと機嫌が悪かった。

 

 名門の重圧を父に押し付けられていた幼き日、自分をその呪縛から救い出し、真の力である紫電を呼び覚ましたあの人物。

 恩人であり、あるいはそれ以上の存在。

 自分をここまで変えておきながら、五年間も全く音沙汰なく放っておいた、あの「友達」のせいだった。

 

 帝国から戻ってすぐに王宮で行われた魔力測定ノブレスリットで、王国が定めた最高階位「神級魔導師プルミエール」となった。

 紫電を纏う自分を崇める周囲の視線も、かつて無能と自分を突き放した父の蒼白な顔も、今のセリアには等しく無価値だった。

 ――あの日、純白の少女が示した「神域」に比べれば、この国が狂信している階位制度など、子供の砂遊びに過ぎなかったからだ。

 

 手元のルテがすっかり冷めても、セリアは動かなかった。

 この五年間、彼女の時間はあの日、血と泥にまみれたミニステリアーレの砦で止まったままだ。地下牢の冷たい石畳。絶望の中で出会った、雪のように白い少女。

 ブランシェが差し伸べた手に触れた瞬間、セリアの閉ざされていた魔力は、堰を切ったように溢れ出した。紫電がトロールを切り裂き、五人の少女たちが共に戦い、砦を殲滅した後の――あの、あまりに眩しい夜明け。

 共に笑い、自由を確信したあの数分間だけが、セリアの人生で唯一、本物の「生」を感じられた時間だった。

 

 だがその直後、ブランシェはすべての罪を背負うように帝国へと連れ去られた。

 残されたのは、手に入れた「第五階位」という強大な力と、それを見て顔を青くし、娘を化物のように見る臆病な父。魔力の多寡でしか人間を測れない、浅ましい貴族たちの社交界。

 

(……くだらない。神の領域を知らない羽虫たちが、何を騒いでいるのかしら)

 

 最高位の魔導師として跪かれるたび、セリアの心は氷のように冷えていった。ブランシェがいないこの世界は、ただの色のない、退屈な箱庭に過ぎない。

 セリアの思考が五年前の夜明けに差し掛かったその時、耳障りなほど穏やかな声が、凍りついた空気をあっさりと踏み越えてきた。

 

「あらぁ、セリア。また冷めたルテを愛でていらっしゃいますの? まるで氷の彫刻とお話しされているみたい」

 

 声の主は、アガット・アンジェリク・ド・ピスケスエトワール。

 若草色の髪を短く切りそろえ、知性的な輝きを放つ眼鏡の奥で、おっとりと目を細めている。彼女もまた、この「聖域」への立ち入りを許された五大星公爵家の令嬢の一人だ。

 

 セリアは視線すら向けず、紫電の気配をわずかに尖らせて拒絶を示す。だがアガットは意に介した様子もなく、ふわふわとした足取りでセリアの正面のソファに腰を下ろした。

 

「無視なさらないで。あなたがその『紫電』の力を顕現させてから、この国の退屈なお茶会がどれほど刺激的になったか、ご存じかしら? お父様が恐れをなして寝込まれた話も含めて、私はとても……ええ、とっても興味深いですわぁ」

 

 その喋り方はどこまでも間延びして、天然を装っている。しかし、眼鏡の奥で時折光る瞳は、セリアの内面に潜む「空虚」を正確に射抜こうとしていた。

 アガットは、セリアが王国の価値観を軽蔑していることを見抜き、それを楽しむかのように付きまとっているのだ。

 

「……用がないなら、失せなさい。不愉快だわ」

 

「……それでねぇ、セリア。数時間前に、この寮の門前がとっても騒がしかったのをご存じかしらぁ?」

 

 アガットは、ティーカップの縁を指先でなぞりながら、楽しげに目を細めた。セリアが完全に無視を決め込んでいることなど、彼女にとっては些細なことのようだ。

 

「なんでも、恤兵部の一年生を名乗る平民の子が、あなたに取り次げって寮監の憲兵に食ってかかったそうなんですの。身の程知らずも甚だしいというか……ふふ、勇気があるわよねぇ」

 

 セリアの眉が、わずかにピクリと動く。だがアガットの言葉は止まらない。

 

「寮監もすぐに追い返せばよかったのに、その子ったら、わざと注目を集めるみたいに大きな声を出したんですって。おかげで野次馬だらけ。……でもねぇ、面白いのはそこからなのよぉ」

 

 アガットはわざとらしく声を潜め、セリアの横顔を覗き込んだ。

 

「目撃した子たちが、口を揃えて言っていたわ。その平民の女の子、髪が、雪のように真っ白だったんですって。……あら、セリア? カップにヒビが入っていますわよぉ?」

 

 その瞬間。セリアが手にしていたカップから「ピシリ」と鋭い音が鳴った。

 先ほどまで凍りついていたセリアの瞳に、五年間一度も見せなかった激しい激情の炎が宿る。

 

「……その子は、今どこに」

 

「さあぁ? 騒ぐだけ騒いで、満足げに帰っていったみたいだけどぉ。……あらあら、そんなに怖い顔をなさらないで。もしかして、お心当たりがあったのかしらぁ?」

 

「……恤兵部って、どこにあるの!?」

 

 氷の彫刻のようだったセリアが、弾かれたように立ち上がった。その勢いで、ヒビの入っていたカップがテーブルの上で砕け散る。

 彼女は、アガットの肩を、公爵令嬢らしからぬ強い力で掴み、激しく揺さぶった。涼しげだった眼差しは今や、熱病に浮かされたような強烈な渇望に燃えている。

 

「ちょ、ちょっとセリアぁ!? 落ち着いてくださいな。掴まれているところが痛い、痛いですわぁ……! それに、恤兵部の寮なんて、わたくしも知りませんわ」

 

 アガットの困惑した答えを聞くや否や、セリアは彼女を乱暴に突き放した。謝罪の言葉も、取り繕うような優雅さも、今の彼女には一欠片も残っていない。

 

「ブランシェ……っ!」

 

 喉の奥でその名を絞り出すと、セリアは脱兎のごとく談話室を飛び出していった。

 廊下を走る、高く鋭い靴音。翻る紫の髪。アンヴァリッド中がひれ伏す「紫電」の天才が、ただ一人の平民を求めて、がむしゃらに駆け抜けていく。

 静まり返った談話室にひとり残されたアガットは、乱れた服をそっとなで、眼鏡の端を押し上げた。

 

「あのセリアをあんなに慌てさせるなんてぇ……。うふふっ!  訪ねてきた恤兵部の子って、一体何者なのかしらねぇ……」

 

 アガットは砕けた磁器の破片を眺め、その眼鏡の奥で、観察者特有の狡猾な光を宿した。

 

「退屈な毎日が、とっても面白くなりそうだわぁ……」


 ◆◇◆


 第一生徒館から戻ってから、ポーラは自分のベッドへ潜り込んだまま、ガタガタと震えていた。

 

「大丈夫だってポーラ、ほら、もうずいぶん時間も経ってるけど、教官室から呼び出しも何もないでしょ?」

 

「ま、まだわからないわよ……! 今、そこにっ! 退学通知をもって教官がっ!」

 

「そんなことあるわけないじゃん」

 

 ポーラはずっとこの調子だ。さすがにブランシェも気の毒になってきた。

 と、その時。部屋の扉を「ダァンッ!」と激しく叩く音が響いた。それと同時に、廊下側ががやがやと異様に騒がしくなる。

 

「ひっ、ひいいい! きた、ついにきたぁぁ!」

 

 激しい衝撃に震える扉を、ブランシェがため息混じりに開ける。

 

「はいはい、退学の通知なら間に合って——」

 

 言いかけた言葉は、目の前に立つ人物の放つ圧倒的な魔力の奔流に飲み込まれた。

 そこには、肩で激しく息をし、紫の髪を乱したセリアが立っていた。後ろでは、彼女に無理やり案内させられたさっきの寮監の憲兵が、真っ青な顔でガタガタと震えている。

 

「……セリア?」

 

 ブランシェがその名を呼んだ瞬間、セリアの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。

 

「なによ……なによ、それ! 恤兵部の一年生? 五年も、五年も私を放っておいて……っ! やっと会いに来たと思ったら、あんな寮監の一言で、さっさと帰るなんて……っ!」

 

 突然、ブランシェの視界は、セリアの黒いローブと、豊かな胸元に埋め尽くされた。

 

「……ッ!? ぐ、苦し……ちょっ、セリア!?」

 

 公爵令嬢として、また神級魔導師として磨かれたセリアの体躯は、五年前よりもずっと大人びて発育していた。自分より一回りも小さなブランシェを、セリアは文字通り「骨が軋むほどの力」で抱き込み、その白い髪に顔を深く埋める。

 

「離さないわ……もう絶対に離さない! 寮監に追い返されてそのまま帰るなんて……あなた、私がどれだけあなたを……っ!」

 

 セリアの目から溢れる涙が、ブランシェの肩を濡らしていく。

 一方で、廊下はパニック状態だった。五大星公爵家筆頭の令嬢が、こともあろうに平民専用の第二生徒館で、泣きながら一年生を抱きしめているのだ。野次馬の恤兵部の生徒たちは、何事かと壁際で固まっている。

 

「い、いやぁ……。あれからアインズィードラの爺さんに弟子にされちゃってさ。五年間ずっと修行の旅だったから、手紙一通出すのも禁止されてて。……ようやく戻ってこれたから、四月には間に合わなかったけど、びっくりさせようと思ったんだけど……あはは、ちょっとやりすぎちゃったかな」

 

 セリアの腕の中でよれよれになりながら、ブランシェは困ったように笑った。

 その深紅の瞳は、五年前の地下牢でセリアを救った時と同じ、無邪気で、けれど底の知れない光を湛えていた。

 

「びっくり、なんてレベルじゃないわよぉ……っ! 私がどれだけ、絶望の中にいたと思っているの!」

 

「わかった、わかったから! ほら、ポーラが腰抜かして震えてるし、廊下の皆も見てるから、ね?」

 

 ブランシェに宥められても、セリアは彼女を離そうとしない。 むしろ、周囲を牽制するように紫電の火花を小さく散らしながら、ブランシェが「自分の所有物」であることを示すように、さらに強くその小さな体を抱き寄せた。

 

「この国の連中は、どいつもこいつも見る目がない無能ばかり……! 私の大切なあなたを、恤兵部へ入れるだなんて……っ。絶対に許さない。あなたを追い返した寮監も、こんな寮に押し込めた奴も、全員私が焼き尽くしてやるわ……!」

 

 本気で指先に紫電を走らせるセリアに、ブランシェは慌ててその手を両手で包み込んだ。

 

「ちょっと! ちょい待って! 寮監の憲兵はちゃんと仕事しただけだしさ、恤兵部の寮もみんなも全部素敵だよ。だから、ね?」

 

 深紅の瞳で見つめられ、諭されるように手を握られると、セリアの周囲で荒れ狂っていた魔力が、魔法のようにスッと霧散した。

 

「……そう? ブランシェがそういうなら、いいわ」

 

 あまりの切り替えの早さに、ブランシェは頬を引き攣らせる。

 

(怖っ! セリアってこんな子だったっけ!? 五年間でずいぶん変わったなあ……。っていうか、重っ!)

 

 そんな二人を、壁際でガタガタと震えながら見ていたポーラが、消え入りそうな声で勇気を振り絞った。

 

「あ、あの……お二人とも、座りませんか? お茶、淹れますから……」

 

 その言葉で、セリアは初めてブランシェ以外の存在を認識した。涙を拭い、一瞬で「五大星公爵家筆頭令嬢」の冷徹な眼差しに戻ったセリアが、ポーラを頭の先からつま先まで、値踏みするように見つめる。

 

「あなた誰? ブランシェの部屋でなにしてるの? 馴れ馴れしく声をかけないでくれるかしら」

 

「ひいっ! わ、わたしはポーラ・アロイジアと申します……。その、ブランシェとは、寮の同室で……」

 

「同室」という言葉を聞いた瞬間、セリアの動きがピタリと止まった。まるで時間が凍りついたように、数秒間、ポーラを無言で見つめる。その静寂は、怒りよりも、何か処理しきれない情報に直面した時の、危険な沈黙だった。


「……同室?」


 ポツリと繰り返されたその一言に、廊下の野次馬たちまでが固唾を呑んだ。


「許可なくブランシェと同じ空気を吸っているというの? ……ブランシェ、今すぐ荷物をまとめなさい。第一生徒館へ移りましょう。部屋ならいくらでも余っているわ」

 

「あのねえセリア……。ここは元々ポーラの部屋なの。私は今日からここに入らせてもらうんだから、そんなこと言っちゃだめだよ」

 

 ブランシェに諭され、セリアは弾かれたように動きを止めた。並みいる貴族達を跪かせる公爵令嬢が、まるで叱られた仔犬のようにしゅんと肩を落とす。

 

「……ごめんなさいね、ポーラさん。魔導部では一人一部屋が当たり前だから、勘違いしてしまったわ」

 

 五大星公爵家の令嬢が、平民である自分に素直に頭を下げた。 ポーラはその衝撃に、心臓が止まるかと思った。

 

(謝った!? ……あのルプスエトワール公爵家の令嬢が、私に……!?)

 

 同時に、ポーラの胸にはブランシェへのさらなる畏怖と尊敬が込み上げる。

 

(帝国のアインズィードラ卿の弟子で、公爵令嬢を窘めるなんて。ブランシェって、本当に何者なの……!?)

 

 しかし、セリアの「反省」は、予想だにしない方向へ着地した。

 

「わかったわ。……じゃあ、私がこっちに引っ越してくるわ」

 

「はぁ!?」

 

 ブランシェの素っ頓狂な声が響く。セリアは大真面目な顔で、狭い室内を見渡した。

 

「魔導部の私の部屋よりは……そうね、家畜小屋より少しマシな程度だけれど。ブランシェと一緒なら耐えられるわ。すぐに手続きをさせるから」

 

「ま、まあそれは校長が許さないんじゃないかなぁ……」

 

 ブランシェが頬を引き攣らせて苦笑いする横で、ポーラはもはや限界を迎え、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

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