第三十三話 夜の牙
完璧に静止していたはずのクリスタルグラスがテーブルから滑り落ち、高価な絨毯に赤ワインがぶちまけられる。
「な、何だっ!? 事故か? カロリーナ大丈夫かい?」
若夫婦の夫が悲鳴を上げながら、窓際の取手に縋り付いて妻の体を支える。
「大丈夫よあなた……心配ないわ」
妻の方は夫に寄り添いながらも、ドレスの裾が汚れたことへの怒りが恐怖よりも先に湧いている様子だ。
重力の乱れで車体が軋む中、フードの母は娘の肩を優しく抱き寄せる。不思議と彼女たちの周囲だけは、自然の精霊が守るように微動だにしなかった。
「……来ましたね、人の世の醜い牙が」
車窓から外を悲しげな目で見つめながら、母が静かに呟いた。
娘の方は怖がるどころか、向かい側の席に座るブランシェをじっと凝視していた。
「お母様、見て。あのお姉ちゃん……まだ、グラスを離していないわ」
衝撃が走った瞬間、商人は猫のようなしなやかさで体を低く構え、懐の膨らみを手で押さえながら、即座に外へ飛び出せる態勢をとっていた。
「止まれ(ハルト)! アイゼンヴァルト辺境伯領の第四検問所の下級騎士である! 本件車両には、帝都より持ち出しが禁じられた魔導具及び密輸品の隠匿の疑いがある。辺境伯閣下の特別命令に基づき、これより積荷および乗客の全件検査を行う!」
(……既視感ってやつか。ただの追剥強盗が何を言ってんのかね)
彗星号の周りを二十数人の甲冑を着た男たちが囲んで怒声を上げている。手には松明をもち、弓や長剣を背負っている男もいる。
「ミニステリアーレですよ! 領主の権威を嵩にきてやりたい放題の無法者たちだ。領主もそのあがりで潤うから見て見ぬ振りらしいですが……まさか彗星号にまで手を出すとは」
商人が苦々しそうに顔を顰め乍ら吐き捨てた。
「さっさと大人しく馬車を降り、跪け! 抵抗すれば反逆罪と見なし、この場で処刑する!」
ミニステリアーレたちの怒声が、ブランシェの耳には遠くの雑音のように聞こえていた。彼女は一滴もこぼさず持っていた「彗星の雫」を一口飲み、喉を潤してから、ようやく立ち上がった。グラスをテーブルにそっと置くと、それまで車内を支配していた重圧が彼女を中心に霧散していく。
(ディナーはちょっと楽しみにしてたんだけどな……さっきの衝撃で厨房が壊れてないかな……)
ブランシェがディナーの心配をしているのをよそに、商人が近寄って来て小声で耳打ちした。
「私が馬車を出て奴らを引き付けますから、魔導師殿は母娘連れと若夫婦を連れて安全なところへ逃げてください!」
商人がニヤリと不敵に笑って目くばせしながら、親指を立てて見せた。
(は、はあ? 何だよその笑顔。しかしこの商人、中々肝が据わってるな。それに懐に何か魔力を帯びた得物を持ってるし……)
ブランシェは商人の方を見て軽く首を左右に振った。
「大丈夫ですよ、商人さん。私が外に行ってあいつらと話をつけます。皆さんは危ないので、私が戻るまで絶対馬車から出ないで下さい」
「ま、魔導師殿……?」
「魔導師様、巡察使を待ってはどうですか。御者が直ちに連絡してるはずですし……あいつらかなり大勢みたいですよ」
魔導師とはいえ、ブランシェは見た目は十四、五歳の女の子だ。商人と若夫婦が心配そうに声をかける。フードの母娘だけは、ブランシェが置いたテーブルの上のグラスをじっと見つめていた。
ブランシェはキャビンのドアを開き、眩い月明かりを背に、わざとゆっくりステップを降りた。絹糸のような純白の髪が夜風に揺れ、月光を吸い込んでは淡い燐光を放っている。闇の中で不気味なほど鮮やかに輝く深紅の瞳。面白くてたまらないといった風に唇を歪め、不敵な微笑をミニステリアーレたちへと投げかけた。
降りてきた十四、五歳の少女の姿を一瞥し、周囲の空気は一変した。今まで彼らが襲ってきた相手なら、少し脅し上げれば命乞いをしながら金品を差し出すはずだ。腕自慢がいたところで多勢に無勢、大勢でなぶり殺しにするだけだった。だが今、ようやく自分たちが囲んでいるのがか弱い獲物ではないことに、彼らは気づき始めていた。
「てめぇ! 帝国の魔導師か? 俺たちゃあ辺境伯閣下の家士同然なんだぜ。全員降りろっつっただろうがよ! 楯突くと後々面倒なことになるぜ」
襲撃部隊の頭であるツィルシュは、出来るだけ大袈裟に怒鳴った。心の奥底に引っかかった不安を振り払うように。
「運が悪かったわね、あなたたち。今回はトロールはいないの? まあいても、いなくてもどっちみち同じだけど」
「は? ト、トロール……何言ってやがるんだ……!?」
ツィルシュは精一杯の虚勢を張ったが、何年か前、北方から流れてきたザルツァという元ミニステリアーレの男の話を思い出していた。確か「トロールを配下に、誘拐に強盗、奴隷売買など手広くやってた頃、奴隷の中にいた十歳くらいの真っ白い髪のガキが実はとんでもない魔導師で、そいつがトロールも部下も全部殺して砦を全滅させた」という話だった。ザルツァはそのとき、「いいか、ツィルシュ。万が一にもそのガキと出会うようなことがあったら何も考えずに全力で逃げろ。死にたくなけりゃあな」と珍しく真剣な眼差しで話していたが、酒場での与太話など誰が信じるんだと思っていた。
(そ、それ……このガキのことじゃねえのか。ザルツァが言ってた真っ白い髪の女のガキって……)
ツィルシュは徐々に血の気が引いていった。今まで何度も修羅場をくぐり抜けてきた本能が、危険だと告げている。
「ねぇ。ザルツァって奴、知らない? なんならこっちが探してるくらいなんだけど。結構有名じゃないのかな?」
(――やばいやばいやばい! こいつに間違いない。さっさと逃げなきゃ!)
「クソガキがっ! さっきから何をごちゃごちゃ言ってやがる! お頭の話が通じねえなら痛い目みてもらうぜ!」
顎髭を伸ばした背の低い男が早速ブランシェに突っかかっていった。
(馬鹿馬鹿馬鹿! やめろやめろやめろ!)
顎髭がブランシェの胸倉へと手を伸ばそうとした瞬間、手を伸ばしたまま、中身の綿が抜けた人形のようにその場に崩れ落ちた。
(なっ!? いつ魔法を撃ちやがった!?)
ツィルシュとて今まで何人もの魔導師と渡り合ったこともあれば、魔導師同士の対決も見たことがある。だが、構えも、魔力を練る溜めも、何の予兆もなく機械的に魔法を発動できる魔導師など、今まで一人もいなかった。顎髭が倒されたのを見て、部下たちは一層興奮しだした。
「てめぇ、ぶっ殺してやる!」
長剣を背負った男が抜剣しながらブランシェに近づく。
「俺はなぁ、お前ら魔導師の決定的な弱点をとっくに見抜いてるんだぜ!」
長剣を構えた男が地面を蹴った。月明かりを反射してぎらつく刃が、微動だにしないブランシェの白い首筋へと迫る。振り抜かれる長剣はすでに彼女の髪に触れんばかりの距離――。
その瞬間だった。
ブランシェが指先で軽く埃を払うようなしぐさをした。
――キィィィィィィンッ!!!
鼓膜を突き刺すような高音が夜の森に響き渡る。
ブランシェに触れる直前、長剣は目に見えない壁に激突したかのように空中で静止し、そのまま粉々に砕け散った。
「はえっ?」
間の抜けた声を出して、長剣の男は、砕けた鉄屑が月光を浴びてキラキラと舞うのを呆然と見ていた。
「て、てめえ! 一体何をしやがっ——」
全部言い終わる前に、長剣の男は地面に突っ伏した。顎髭と同じように体中の骨が全部無くなったようにばったりと倒れた。
「ひょっとして、これ高い剣だった?」
ミニステリアーレたちは、もう誰一人として声を上げるものはいなかった。ツィルシュがやっとのことで声を絞り出す。
「ま、魔導師殿。わ、我々の勘違いであった。積み荷の件はも、もう結構です。すぐに引き上げます!」
「はあ? あんたたちが始めたことでしょう? まず、彗星号……あんな速い馬車をどうやって無理やり止められたのか話してもらうわ」
ブランシェが言い終わると同時に、ツィルシュ以外のミニステリアーレ二十数名が一斉に頭から倒れていった。
(加減したから、死んでないはず……。また帝国臣民を手にかけたとか言われたら最悪だからな)
「さあ、静かになったところで話してもらうわよ。馬車が止められた時のあの嫌な感じ……魔導具じゃない。もっと不浄なものだわ」
完全に戦意喪失してへたり込んだツィルシュを、ブランシェは静かに見下ろした。
「……知らない男から酒場で渡されたんです。どんな速い馬車でも空間ごとかみ砕いて固定してしまう魔導具だって……」
「知らない男からただでもらったっていうの?」
「……はい。黒いローブの、痩せた不気味な男でした。まるで泥水が這うような気味の悪い声で、この禁忌遺物『龍の顎』なら魔法で走らせてる馬車でも闇の力でいくらでも止められると」
「闇の力だって。そいつがそう言ったの?」
「……はい。段々と速い馬車を狙っていけと……最後は彗星号を襲えば一生遊んで暮らせる金が手に入るって……」
(……泥水が這うような声。闇の力だって? 闇魔導師はこの世界に二人しかいないはず。師匠ともう一人……じじいは最後まで教えてくれなかったけど、その『もう一人』が関係してるってことか?)
「わかった。もういいわ」
「えっ? ちょっ、まだ全部話して——」
ツィルシュは仲間たちと同じように地面に突っ伏して動かなくなった。
ブランシェは彗星号のキャビンの真下を覗き込んだ。石畳に突き立てられていたのは、成人男性の腕ほどの大きさの湾曲した巨大な牙だった。黒曜石を思わせる漆黒の表面には無数のひび割れが走り、その隙間から瘴気が脈動するように滲み出している。近づくだけで、肌の奥まで染み込んでくるような不快な粘度があった。
(……これは、ただの魔導具じゃない。何か生きていたものの一部だ。それも、相当に古い。長い時間をかけて闇に染まり続けた何かの……残骸)
先刻、応急措置として光子分解洗浄をかけておいたが、効果は表面だけだった。さすが禁忌遺物だけあって、内側に凝り固まった闇の密度が桁違いだ。
(……まあいい。どんなに古い汚れでも、やることは同じだ)
ブランシェは軽く息を吐くと、右手を牙の真上へとかざした。
「――『光子根絶』」
魔法円が牙を静かに包み込む。光子の波が内部へと浸透し、数百年分の闇の結晶を一層ずつ、丁寧に剥がしていく。龍の顎は最期のあがきとばかりに激しく瘴気を噴き上げたが、それすらも光の中へ溶けていった。やがて牙は輪郭を失い、黒い霧の粒子となって夜の空気に散っていく。
後に残ったのは、何事もなかったかのような清潔な石畳だけだった。
(……数百年ぶりに、楽になれたんじゃないかな)




