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第三十二話 彗星号

 帝都アーヘンから国境の街エーベンまでは約五百キロ。さらにそこから王都オロールまで約五百キロある。

 庶民は徒歩で一か月以上をかけて歩いて行くが、貴族や富裕層のために駅馬車シュテルヴァーゲンの路線が整備されている。

 これからブランシェが乗車するのは通常の駅馬車ではない。帝国の威信をかけ、八脚馬スレイプニルが牽く、最高速度が時速百キロに達する特別急行――彗星号コメートである。

 八脚馬はその名の通り脚が八本ある神獣だ。魔物ではなく、帝国が幼体から飼育・管理している。八頭立ての馬車なら、途中で十分な休憩を挟んでも一日で王都に到着できる。希少な八脚馬の八頭立てとなれば超の付く富裕層にしか縁のない乗り物だが、今回はアインズィードラが門出のために旅費を奮発してくれたお陰で乗車が叶った。


 アーヘンは、リエヴァンとは根本的に異なる種類の街だった。

 リエヴァンが大聖堂を中心に人の営みが自然と積み重なって広がった街だとすれば、アーヘンは最初から「設計図」があって建てられた街だ。湿地帯を強引に切り拓き、運河を掘り、石を積み上げた。かつて王国に支配されていた北方の民がわずか二百年で作り上げたこの都市には、千年の石壁も古い神殿も存在しない。あるのは、屈辱を燃料に急造された、無駄を徹底的に削ぎ落とした機能美だけだ。

 運河が碁盤の目のように街を区切り、水魔導師たちの操る魔導ボートが規則正しく行き交う。石造りの建物は装飾を一切持たず、ただ用途のためだけに天へと積み上げられている。駅へと続く中央大通りは、馬車が十台並んで走れるほど幅広く、一点の狂いもなく真っすぐだ。

 

(……リエヴァンの路地は、もっとごちゃごちゃしてたな)

 

 美しいというより、正確だった。遠くの工場から響く機械の騒音と、魔力を動力に変換する独特の焦げた匂いが街全体に満ちている。清潔ではあるが、温かみがない。整然としているが、どこか息が詰まる。

 

(……掃除はしやすそうだけど、住みたくはないな)


 中央発着場アーヘン・ツェントラールの正面口は、息を呑むほどに巨大だった。

 重厚な黒石の壁の上には初代皇帝フリードリヒ一世の巨大なレリーフが彫られ、旅人を歓迎するというよりも威圧するかのようにそびえ立っている。その奥に広がる構内は、漆黒の鋳鉄格子が怪物のアバラ骨のように頭上を覆い、天窓から差し込むわずかな光が、何百頭もの馬が吐き出す熱気と魔力の混じった独特の匂いの中で灰色に濁っていた。


(……これは、ひどい空気だな)


 ブランシェは思わず顔をしかめたが、ここで清掃魔法を発動するわけにもいかない。背丈ほどもある大きな鞄を抱え直し、人混みの向こう側に目を向けると――それは「動く城」のようにそびえ立っていた。

 二階建ての車体は、深海を思わせるラピスラズリの色で塗り上げられ、各所に施されたミスリルの彫金が輝いている。時速百キロという未知の速度に耐えるため車輪は重厚な鋼鉄製ながら、その周囲にはすでに淡い緑色の浮遊魔法が揺らめいていた。

 

「ブランシェ様でいらっしゃいますか?」

 

 乗り場が分からず辺りをキョロキョロしていると、後ろから男に声をかけられた。小柄だががっしりとした体格で、仕立てのいい制服をスマートに着こなしている。胸には帝国旅客公社ライヒスバーンのエンブレムが誇らしげに輝いていた。

 

「はっ、はいっ! そうですが!」

 

 突然、慇懃に声をかけられてブランシェはいつもどおりしどろもどろになってしまった。

 

(……も、もーっ、急に話しかけないでほしいな……)

 

「手前、彗星号の正御者でレバネと申します。アインズィードラ元帥閣下より、ブランシェ様が正午発の彗星号に御乗車されることを承っております。御座席まで御案内いたします」

 

(爺さん、ずいぶんと奮発してくれたんだな……だけど、この御者)

 

「レバネさんも魔導師なんですか?」

 

 ブランシェは御者からずっと魔力を感知していたので尋ねてみた。レバネは少し驚いた様子で答えた。

 

「恐縮でございます。八脚馬を快適に走らせるには少々魔力が必要でございまして、公社の御者は皆、風魔導師ルフト・マギアーの端くれでございます。大したことはございませんが」

 

「か、風魔導師なんですか! そんなすごい人が御者だなんて……」

 

 ブランシェが驚くのも当然で、風魔導師といえば帝国軍の将校クラスだ。しかもブランシェが感知した魔力は、その中でも上位のものだった。

 

(帝国は人が余ってんのかな……ブロワーとして使ったら最高なんだけどな……)

 

「お戯れを。さあ、荷物をこちらへ……」

 

 案内されたブランシェが、フードを外すと、ローブの襟元の階級章が露わになった。白金糸の刺繍で二枚のオークの葉が左右から中央の五つの星を包み込むという独特の意匠だ。レバネは、公社の総裁の階級章がオークの葉が一枚に星三つだったことを思い出し、「子供用の階級章なのかな……いや、そんなはずは」と一瞬だけ思考を巡らせたが、余計なことは考えないようにした。

 

 豪奢な絨毯が敷かれたステップを上り、客室キャビンに乗り込むと、磨き上げられたマホガニー材と金糸で刺繍されたタペストリーで埋め尽くされた壁面が目に飛び込んできた。

 奥の窓際では、贅を尽くした内装を当然のように享受している大店の若夫婦が仲睦まじく談笑している。その向かいには、古びたトランクを大事そうに抱えた商人風の中年男性が油断なく周囲に視線を配っていた。窓際の一角には、フードを深く被った母娘が並んで座り、窓の外をじっと見つめている。空いている向かいの席にブランシェが座った瞬間、ふわりと森の匂いがした。

 

「お若いのにおひとりですの?」

 

 さっきまで窓の外を見ていたフードの女性が、向かい側に座ったブランシェの髪と瞳に気づき、遠慮がちに話しかけてきた。

 

「はい。オロールまで」

 

 母親の隣に座った十歳くらいの娘が、ブランシェの顔をじっと見つめている。

 

「まあ。それは長旅ですね。私たちは国境のエーベンまでですの。失礼ですが、そのお姿は帝国の魔導師様でいらっしゃいますか。近頃は道中がなにかと物騒ですので、心強いですわ」

「あ、あっ、いえいえ。まだ全然、修行中の身です」

 

(……だ、大丈夫か私。不自然に見られてないか……うん? この母娘、魔力の波紋がすごく綺麗だな)

 

「昔、王国のリエヴァンという美しい街に立ち寄ったことがありまして、そこの大聖堂の祭壇画に描かれた女神が、魔導師殿にそっくりでしたよ。……残念ながら、今はもう見られませんが」

 

 商人が先ほどとは打って変わった柔和な笑顔で話しかけてきた。

 

「え、ええ、知ってます。私……リエヴァンの生まれですから」

 

(この人、さっきから油断なく車内に目を光らせていたな。体つきもがっしりしていて……本当に商人なのか?)

 

「ええっ、本当ですか! これはきっと女神様のお導きですぞ!」

「あらまあ、愛らしい女神様ですこと。これからの道中が祝福されてるみたいですね」

 

 大店の若奥さんが人懐っこい笑顔を向けてきた。

 

「そ、そんなっ、全然そんなことないですよ」

 

(や、やばい! ほんとにこういうのに耐性ないんだよなあ)

 

「合わせて六名様の御搭乗を確認!」

 

 副御者が馬車のドアを閉めながら点呼を行う。 時速百キロの風圧に耐えられるよう、ドアが閉じた瞬間に風魔法による完全気密結界が展開された。出発を告げる巨大な青銅の鐘の音が中央発着場に響き渡る。

 

 定刻になり、八脚馬の牽く彗星号が石畳をゆっくりと動き出した。八本の脚が石畳を叩く音は、蹄音というよりもはやドラムロールのようだった。

 車輪は地面に触れているようでいて、実は接地面からわずか数ミリ、御者の強力な風魔法で浮いている。車体下部で展開される滑走陣グライテン・アレイが路面の凹凸を瞬時に読み取り、磁力のように反発することで、鏡の上を滑るような滑らかさを実現していた。

 

 初代皇帝時代の重厚な石造りの宮廷区画を抜けて開けた郊外へ出ると、八脚馬の一歩一歩が爆発的な推進力を生み出し、巨体を一瞬で時速百キロへと押し上げた。

  

(……正直舐めてたな。すごいな、風魔法による制御……レバネさん、ブロワーなんて言ってごめん)

 

 窓の外では、平原が時速百キロの速度で流れる抽象画のように溶けていく。その一方で、ブランシェの目の前に運ばれてきたウェルカムドリンク「彗星の雫」が注がれたグラスの表面は鏡のように静止している。レバネが八脚馬と客室の双方に尋常ならざる魔力制御を一瞬の隙もなく行っていることが容易に想像できた。

 

(転移を使えば、簡単に王都へ行けるんだけどな)

 

 窓の外に流れる景色を眺めなら、ブランシェはアインズィードラとの修行を思い出していた。

 

(確かこう言ってたな……『よいか、転移は闇魔法ナハト・マギーじゃ。闇魔導師ナハト・マギアーからの伝授がなければ習得はできん。闇魔導師はこの世界に二人しかおらん。一人は儂じゃ……』……結局、じじいはもう一人が誰なのか教えてくれなかったな……ひょっとしてもう死んでるのかな?)

 

 ブランシェは、アインズィードラから「深淵」を学び、闇魔法である転移と思念通話を習得した。転移魔法には三つの制約がある。

 一つ目は座標。一度自分の足で訪れて、魔力の座標を記憶した場所にしか飛べない。

 二つ目は結界。古代には特定の場所に闇魔法に対する結界が存在していたらしく、今も、王宮や帝都の最深部にはその残滓が残っていて、中へは飛べない。

 このことについてブランシェはアインズィードラに聞いたことがあった。なぜ二百年しか歴史がない帝都に古代の結界があるのかと。アインズィードラはこう答えた。

 

『アーヘンはな、帝国が建つはるか以前から、この大陸で最も強い魔力の泉が湧く土地じゃった。北方の民はその力を知っていたが、王国に支配された八百年の間に、その知識は少しずつ塗り潰されていった。支配者にとって、被支配者が自分たちの土地の真の価値を知るのは都合が悪いからのう。……初代皇帝フリードリヒは違った。王国が意図的に忘れさせようとした北方の古い言い伝えを、ただ一人掘り起こした男じゃ。湿地帯のど真ん中に帝都を築くなど正気の沙汰ではないと誰もが反対したが、あの男だけは知っておったのじゃ。その泥の底に、何が眠っているかを』

 

 (……その『何か』が何なのか、じじいは最後まで教えてくれなかったけどな)

 

 三つ目は深淵への耐性だ。これが最も重要で、転移の際に深淵を通る負荷に精神と魔力が耐えられるかということだ。並の魔導師では発狂し、深淵の狭間で消滅する。

 

(アインズィードラには言わなかったが、私は以前『深淵』のような場所に行ったことがある……塵埃の狭間……)

 

 転移を伝授してもらった時、アインズィードラから「普通の魔導師ならとっくに発狂しておるところじゃが、まるでお前は懐かしい場所にきたとしか感じておらんようじゃったな」と言われて、ブランシェは言葉に詰まったことがあった。

 

(王国で行ったことのある場所と言えばリエヴァンしか知らないしな。今じゃ王国軍が封鎖してるらしいし……)

 

 五年前、シュテルンによって泥濘の棺と化したリエヴァンは、今もゴーレムが時折城門の隙間から這い出してきて、警備の王国兵に被害が出ているという。財宝を狙って侵入したトレジャーハンターがゴーレム化する二次災害まで起きているらしかった。

 

(……帝国の伝声鏡、あれは便利だけど、あくまで道具に過ぎないんだよな)

 

 帝国軍が通信手段として使用する伝声鏡は、アインズィードラが帝国の微細加工技術と自身の闇魔法を融合させて開発した軍用品だ。

 王国のリエヴァンで製造されていた高品質の鏡の裏面に極小の魔導回路を刻印し、対で切り出されたイゾラントを組み合わせたもので、鏡に向かって発した声を回路が捉え、イゾラントが増幅して対となる伝声鏡へ瞬時に伝わる仕組みだ。ただし、伝声鏡を所持する者同士でしか通話できない。

 それに対して思念通話は、相手の魂に同期する闇属性魔法だ。道具を介さず、術者の意志で受信者を特定し、その魂を直接震わせる。だから、「ゼーレン・シュティンメ(魂の声)」とも呼ばれる。

 

(……なんかいろいろ考えてたら、結構時間が経ったな。それにしても……なんか遅くないかこの馬車?)

 

 ブランシェが感じたとおり、彗星号はいつの間にかゆっくりとした速度で進んでいた。

 

「どうやら、アイゼンヴァルト辺境伯領に入ってからこの調子なんですよ」

 

 と商人が説明してくれた。

 

「さっきから検問だとか、前を走る馬車が事故だとか続けざまで、これじゃあ彗星号の名が泣くってもんですよ。まあ、このまま夜の森道を突っ走って遅れを挽回するんじゃないですかね」

「でも、夜だと見えないから危ないのではなくて?」

 

 若奥さんが首を傾げた。

 

「大丈夫ですよ。なんたって御者の方は風魔導師殿ですからね。そういえば魔導師殿は何属性な――」

 

(……辺境伯領)

 

 商人の言葉が耳に入らなくなっていた。ブランシェは窓の外の暗がりへと目を向けたまま、光子探知を静かに、しかし最大限に広げた。

 

(検問に事故。続きすぎている)

 

 この辺境伯領という単語が、五年前の記憶を呼び起こす。デュルンシュタイン辺境伯領。あの廃砦。トロール。そして、逃げたザルツァの冷酷な笑い。

 

(あの時と同じ空気だ)

 

 周囲の森の中に、生体反応のワイヤーフレームが複数、じっと静止しているのをブランシェは捉えていた。獣ではない。人間だ。街道沿いの木陰に、待ち構えるように潜んでいる。

 

 やがて加速を取り戻した彗星号が、夜の森道を駆け始めた。

 

「そういえば魔導師殿は何属性な――」

 

 商人が再び口を開いた、その瞬間だった。

 

 ――ドガガガッ!!!

 

 街道の左右から、影のような漆黒の牙が突き上がった。それは時速百キロで疾走する彗星号に、空間ごと食らいつくような不快な轟音と共に襲いかかる。彗星号の直下の重力が数倍から数十倍に急上昇し、滑走陣の斥力が無理やり押し潰された。完璧だった鏡面滑走が乱れ、八脚馬たちは見えない巨大な顎に脚を掴まれたかのように、その場に縫い止められる。車内を見舞ったのは、悲鳴を上げるような重力の軋みだった。

(……やっぱりか)

 ブランシェはすでに、静かに腰を浮かせていた。

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