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第三十一話 出立

帝国歴ライヒス・カレンダー二一二年(大星歴八七九年相当)五月三十日 ツゥラレラ帝国 アーヘン郊外 

 

 帝都の喧噪を抜けた古い森の奥、苔むした重厚な石壁と、蔦に覆われた細い塔を持つ、一見すると古い修道院のような屋敷があった。屋敷の背後には千年の時を刻む巨木がそびえ立っており、その幹は数人がかりでも抱えきれぬほど太く、大地を掴む龍の爪のような根がうねりながら伸びていた。五月末の陽光を浴びて、無数の葉がエメラルド色の天蓋を作り出し、屋敷全体を優しく、しかし外界から隔絶するように厳かに包み込んでいた。

 

 五年の歳月、ただ主を待ち続けていた屋敷の静寂は、無作法な音を立てて開け放たれた扉によってあっけなく崩れ去った。

 

「――だから! 師匠が『卒業試験』だなんて言って、魔大陸に黒瘴龍こくしょうりゅうなんか倒しに行かせなければ、とっくに帝都に戻れてたって言ってるのよ!」

 

 荒々しく広間へと足を踏み入れた少女――ブランシェの声が、高い天井に反響する。

 朝日を背に受けた彼女の姿は、見る者の息を止めるほどに鮮烈だった。深く被ったフードからこぼれ落ちる髪は、一切の不純物を拒絶するような雪の白。対照的に、身に纏う超吸光の黒シルクの帝国魔導師ローブは、周囲の光すら飲み込むような漆黒だった。

 

 背丈は五年前よりは伸びたものの、同年代の少女たちに比べれば圧倒的に小柄で華奢だ。しかし、その幼い体躯が、かえって彼女の内に秘められた、『規格外の膨大な魔力』を際立たせている。

 振り向いた彼女の、陶器のように真っ白な肌に座す深紅の瞳が、師であるアインズィードラを鋭く射抜く。

 

「ほっほっほっ。何事も仕上げが肝心じゃよ。光属性のお前が、実戦で闇属性最強の魔物を打ち倒す。まさに、この修行の最後を締めくくる『卒業試験』じゃて」

 

 アインズィードラは事も無げに笑いながら、埃を被った屋敷のソファに腰を下ろした。

 黒瘴龍。それは一国を滅ぼしかねない天災の一種であり、その肉体から放たれる闇の瘴気は、触れるものすべてを腐食させる。それを「仕上げ」呼ばわりするこの老人も大概だが、実際にそれを光子分解して帰ってきた少女は、すでに人間の領域を完全に超越していた。


「仕上げ? どうでもいいですよ。それより、よくそんな埃まみれのソファに腰かけられますね。私なら気絶しますよ」


 ブランシェは屋敷の隅に溜まった蜘蛛の巣や、空気の澱みを睨みつけた。

 漆黒のローブをバサリとはためかせて、彼女は即座に右手を掲げる。元清掃員としての本能が、五年間放置されたこの空間の不潔さを一秒たりとも許容しなかった。


「――『光子広域洗浄フォトン・エリア・クリーンアップ』」


 少女の呟きと共に、屋敷全体が爆発的な白金の光に満たされた。

 光の波が壁を、床を、天井を通り抜ける。衝撃はない。ただ、光が通り過ぎた後の空間からは、五年分の埃も、壁の煤も、カビも、すべてが分子レベルで消滅していた。

 一瞬にして、ピカピカに磨き上げられた広間。差し込む朝日が、鏡のような床に美しく反射している。


「ふぅ……。ようやく呼吸が可能になりました。」

 

 満足気な様子のブランシェを見て、アインズィードラは呆れたように髭を揺らした。


「相変わらずデタラメな魔法じゃな。神域の光魔法を『雑巾がけ』の代わりに使うのは、大陸広しと言えどもお前くらいじゃて」

「お掃除は基本でしょう。そんなことより……ねえ、師匠。改めて確認するけど、今は『五月末』よね? 本来の予定なら、私はもう一か月以上前にオロールの魔法兵学校でセリアと再会して、優雅な学園生活を送っていたはずなんだけど?」


 ブランシェの深紅の瞳が、じっと師を責めるように見つめる。

 堪らず、アインズィードラは、懐から銀の筒を取り出し、磨き上げられた卓の上に滑らせた。

 

「ま、まあ案ずるな。兵学校のオレリアン校長には、お前を六月から編入させる件は頼んである。奴は儂の旧友じゃ。お前を編入させることくらい造作もないことじゃよ」

 

 ブランシェに推薦状を渡すと、アインズィードラは肩の荷が降りたのか、数年ぶりに帰還した屋敷の庭園へ向かい、朝露のついたハーブにのんびりと水をやりだした。

 

「本当に!? 信じていいんだよね……? 師匠、ありがとう。でもよく私の王国行きを許可してくれたね?」

「本当じゃとも。今日の正午にアーヘンを出発するオロール行の馬車も手配済じゃ。お前には帝国の籠は狭すぎるじゃろうからな。今後はセリア嬢と共に成長してみせよ」

「師匠……」


 少しだけ胸を熱くしたブランシェだったが、アインズィードラはすぐに食えない笑みを浮かべて言葉を続けた。

 

「……と、まあ建前はこれくらいにして。正直、王国へ放たれたお前という『光』が、今度はどういう歴史を描いてくれるのか……楽しみでしょうがないんじゃ。ここ(帝都)で波風立てられたらたまらんからなあ」


「やっぱりくそじじいじゃんか! ……いいわ、行ってくる。私の名前が帝国まで響いてくるのを待っててよ」

 

 五年前と変わらぬ、しかし以前よりもずっと力強い二人の声が庭園に響く。

 主を迎え入れて、人の声を聞いた屋敷が、少しだけ息を吹き返したようにみえた。

 二人の姿は、どこからどう見ても、帝国の命運を握る「元帥」と「深淵」を叩き込まれた弟子ではなく、ただの仲の悪い、それでいて絆の深い祖父と孫そのものだった。


 ◆◇◆


 帝都アーヘン。その郊外に『生命のレーベンスボルン』と呼ばれる巨大な孤児院のような施設があった。

 その正門前、白い壁にツタの絡まった建物の前に、ブランシェは立っていた。

 

(……ウラリのやつ、きっと怒ってるだろうなあ。絶対会いに来いって言ってたもんな。修行中は、あのじじいに止められてたせいで手紙すら出せなかったからな……)

 

 思案に暮れつつ門の奥をくぐる。中庭の芝生には多数の乳母車が並んでいて、乳児が日光浴をしている。大きなパラソルが乳母車を日光から隠していた。とても大切に育てられているようだ。

 ブランシェは大きな扉の玄関の前に所在なげに立った。

 

「どちら様で?」

 

 背の高いひっつめ髪の中年女性が扉から出てきた。厳格そうな眼差しでブランシェを上から下まで見つめる。

 

「わ、私はブランシェと申します……です。アインズィードラ元帥閣下のところでお世話になっている魔導師です。ご、五年前にここへ預けられたノラという……いや、えーっとノラとウラリ、ジゼルと会いに来たのですが三人はいますか?」

 

 途中からかなり早口になり用件を伝える。ブランシェはここ五年、アインズィードラ以外の人間と日常的に言葉を交わすことがほとんどなかった。戦場での交渉や魔物との対峙なら臆せないのに、こういうたわいない世間話になると、途端に口が錆びつく。元来の人間嫌いが、五年の孤独な修行でさらに磨かれてしまったらしかった。

 

「まあ! アインズィードラ閣下の御弟子様ですか。これは失礼いたしました。ようこそおいでくださいました。……ただ、彼女たちはここにはもういないんですよ」

「えっと……居ない?」

「ええ。もう半年くらい前になりますけど三人とも黙っていなくなったんですよ……」


 ブランシェは訝しんだ。五年前、ノラたちは確か「行く場所なんかどこにもない」と言っていたからだ。

 

「黙っていなくなったって!? ど、どこへ行ったんですか?」

「さあ、皆目見当もつきませんわ」

「あのっ、三人はここではどんな様子だったんですか?」


 ブランシェが元帥の弟子だと分かっても、相変わらず女性は建物の中へ案内する気は全く無いようだった。表面上は丁寧だが、どこか見えない壁を感じる。

 

「ノラはとても優秀でしたわ。でも後の二人は、決して優等生ではありませんでしたね。ただ、魔力に関してはすごかったですが。三人ともすごく純粋というか……」

「三人が出て行くきっかけみたいなものは何かあったんですか?」

「見た限り、同年代の寮のみんなとも仲良くやっていたので。……特に思い当たらないですね」


 やはり、女性は取り付く島がなかった。ブランシェはこれ以上の詮索を諦めることにする。

 

「そうですか……。もし三人がここへ戻るようなことがあれば、ブランシェは王国の『魔法兵学校』に向かったと伝えて下さい」

「わかりました御弟子様。『確実に』そのようにお伝えします。道中お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「ありがとうございます」

 

 ブランシェは中年女性に丁寧にお辞儀をして、レーベンスボルンを後にした。


 ブランシェが去った後、中年女性はすぐに柱の陰に入った。

 周囲に誰もいないことを確認すると、懐から鈍く光る『伝声鏡シュティンメン・シュピーゲル』を取り出し、何者かとの通信を開始した。口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。

 

『――私よ。ええ、本当に来たわ。まさか! 見間違う訳ないでしょ、あの真白な姿。ええ、言われたとおり適当に誤魔化しておいたわ。これから、王国の魔法兵学校へ行くんですって。……ええ、とっても残念そうに肩をおとしてたわよ?』


 女性は鏡の向こうの相手の反応を楽しむように、くすりと笑う。

 

『えっ? 背は小さかったわね、とてもあなたと同い年には見えなかったわ。……そう? あなた、本当は会いたかったんじゃないの? 相変わらず噓をつくのが下手ね、ふふっ』

 

 鏡の表面に浮かぶ魔力の輝きが消えると、中年女性は足早に玄関の奥へ消えた。


 ――そこから少し離れた森の木陰。

 

(……あの女、『伝声鏡シュティンメン・シュピーゲル』を使ってたぞ! たぶん私のことだ。一体誰と話してたんだ?)

 

 レーベンスボルンから少し離れた所で、五年の修行を経て鋭敏になった彼女の感覚は、魔道具ヴェルク・ツォイク特有の、硬く規則的な魔力の振動を見逃さなかった。流石に距離があり、相手先まではわからない。

 

(魔導具を使ってるってことは、軍のスパイなのか? あの狸ジジイめ。ノラたちに接触するなと言われてたのを、ちゃんと守ってるか監視してたのかもしれん。それともあの女、ノラ達と会話してたのか? だったら何で隠す必要が? 私が全然会いに行かなかったから怒って出て行っちゃったのかな……? ウラリならありえるな! まあ考えても仕方ないか)

 

 ブランシェは思考を切り替え、考えるのをやめた。

 正午に王都オロールへと向かう馬車が出発する中央発着場アーヘン・ツェントラールへと向かって、力強く歩き出した。


 ◆◇◆


 正午を回ったころ、アインズィードラの屋敷の扉が、蝶番が軋みを上げるほどの勢いで開け放たれた。

 

 飛び込んできたのは、漆黒の長髪を背中で束ねた、帝国の肖像画から抜け出たような完璧な顔立ちを、怒りで台無しにしている少女だった。

 帝国魔導士官学校の制服――深緑のジャケットに金の肩章――を痩身に纏い、その背丈はブランシェよりも頭ひとつ分は高い。だが圧倒的なのは体格ではなかった。少女が一歩を踏み出すたびに、屋敷の空気そのものが張り詰める。それは洗練された魔力の放散というより、生まれながらに刃を携えているような、肉食の獣じみた気配だった。


 氷河を思わせる青い瞳が広間を一瞬で走査し、ソファに腰を落ち着けたままのアインズィードラを射抜く。


「爺ぃ! あの『規格外アノマリー』はどこだ!」


 声は若く、しかし並大抵の男たちの腹を震わせる種類の強さを持っていた。


「ほっほっほ、これは皇女殿下。一足遅かったですな。あやつはオロールの兵学校へ大掃除に旅立ちましたわい」


 皇女殿下と呼ばれた少女――アドリアーネ・フォン・ツゥラレラは、床を踏み鳴らして老人に食って掛かった。その所作ひとつひとつに、幼いころから叩き込まれた帝国貴族の品格と、それをはみ出さずにはいられない激しい気性が同居している。


「ふざけるな! なぜ私と一度も会わせようとしない!」

「皇女殿下、あやつは人外の領域に片足を踏み込んでおりまする故、貴人に対する作法などままならず……」

「――私が、後れを取るというのか!」


 アドリアーネの声が鋭く跳ね上がった。怒りというより、侮られることへの本能的な拒絶だった。かつて、アインズィードラに「見込みがある」と言わしめた彼女が、五年もの間、その師が片時も離さなかった存在がいる。その事実が、彼女のどこかを深くざらつかせていたのだ。


 青い瞳がアインズィードラを真正面から射抜く。その奥に見えるのは怒りだけではない。……渇望に似た何か、だった。


「体よく弟子を逃がしおって! 次に会ったらただでおかんぞ!」


 アドリアーネは恐ろしい剣幕でまくし立てると、入ってきたのと同じく荒々しく屋敷を後にした。扉が再び激しく揺れ、廊下に控えていた護衛の当番兵が慌てて後を追う。

 

(やれやれ、同い年のあやつに、あれほど執着するとは……。殿下の実力は本物じゃ。帝国広しといえど、あの年でここまでの魔導師は他におるまい。……だがそれでも、あやつの前では所詮、年相応のかわいらしい小娘に過ぎんのじゃ。殿下がそれを知った時、あの誇り高い魂がどう反応するか……儂には少々、想像がつきすぎて怖いわい)


 縁側に腰を落ち着け直したアインズィードラは、冷めかけた茶を一口すすると、静かな庭園へと目を向け、ようやく訪れた静寂にほっとため息をついた。


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